悪霊
日が暮れてきた。
「おおい、土竜、土竜よう」
誰かが僕を呼んでいる。
「雲、ちょっと待って」
「……急いでいるんだ」
「ごめんよ、誰かが呼んでるから」
不機嫌そうな顔はしたものの、立ち止まってくれた。振り返ると遠くで手を振る影。四角い帽子をかぶっていて、ブーツを履いている。手紙屋だ。
「土竜!さっきは大丈夫だったか、泥棒に突き飛ばされたらしいじゃないか」
「僕は大丈夫だよ。手紙屋さんこそ、盗まれたものはどうなったの?」
「それが街をひっくり返しても見つからないんだ。あいつ、一体どこに隠れているかも分からない。今日はみんな家に籠って用心してるよ。土竜も早く家に帰れ」
雲はぷいと顔を背けて、早く行こうと手に力を込めている。
「分かったよ、ありがとう手紙屋さん」
「いいさいいさ、もう日暮れだ」
海の方向に日が沈み始めて、辺りを真っ赤に染めていた。昼間の露店で見た、彼岸花の色をした布を思い出す。海の向こうにはきっと大きな平地があって、そこには彼岸花がびっしり咲いている。
僕が手紙屋さんに手を振ると、雲は走り出ししうなほど早足で歩き出した。
「ちょ、ちょっと、雲……」
「急いでいるんだ。世界を変えるんだ」
「どうしたんだい、今日の君は君らしくない」
雲は答えない代わりにもっと足を早めて、太陽の方向に歩いていく。どこに行くか、言われずとも分かった。西の広場だ。
西の広場は、墓場になっている。海に向かって並んだそれらに、街ができて人が住み始めた頃から僕らは彼岸花を供えてきた。真っ赤な色は夕陽の色。
海の向こうの世界の色だ。
大人はみんな、西の広場では言葉を話してはいけないと信じている。
でも子供はそんなのお構いなしなのだった。整然と並んだ墓は海の向こうを見つめているだけの空間は面白くもなんともないけれど、街の子供達の間では悪霊が出るという噂が脈々と受け継がれている。僕も幼い頃に肝試しに誘われて何度か西の広場に言ったけれど、幽霊なんていなかった。この広場より、東の外れにあるあの教会の方がずっと肝試しに向いている気がするのだけれど。
「知ってるか土竜、ここには悪霊が出るんだ」
だから、いつも冷静で賢い雲がそう言ったのを聞いて耳を疑った。
「そんなの子供の噂だよ」
「そうかな?本当に?」
夕陽に染められた墓の間を縫うように歩いて、雲は海の向こうを見つめる。
「ここに出るのはただの幽霊じゃない。悪霊なんだ。昔からここには悪霊が出るんだよ」
墓石は、山から切り出した四角い石に名前を刻んだだけの簡単なものだった。昔、幼い僕はこの下に人が埋められているなんて知らなくて、死んだら石になるものだとばかり思って怖がった。
「魔法は悪霊を消すことだってできる」
「悪霊を?」
「そうだ。魔法だからな」
「雲はその為に魔法を探しているのかい」
「それだけじゃあ、ないけどね」
ちょっと肩をすくめる雲は、なんだかとても寂しそうだった。何か言わなくちゃいけない気がして、僕は言葉を探している。
「雲は優しいね」
出てきた言葉は、これだった。
「西の広場って何もないよな。悪霊だってきっと退屈に決まってる」
「だから、消そうとしているのが優しいと?」
「そうさ。雲は優しい」
何か言おうと捻り出した言葉だったけれど、どうしてだろう、雲は泣きそうな顔になった。美しい瞳が潤んでいる。そんな顔をしているくらいなら、いつものように僕を睨んでいた方がずっといいのに。
「いい事を教えてあげるよ、土竜……」
海の向こうが燃えていたのが、もう、消えかけている。雲の顔は黒い影になっていく。
教会の中で見た人形も、光を背にしてこんなふうに黒い影になっていた。
「この墓は海の向こうを向いているね」
「そうだね、父さんが言っていたんだ。海の向こうには彼岸花がたくさん咲いているところがあって、死んだらそこで楽しく暮らすんだよって」
「違うんだよ」
「え?」
雲の表情は見えなくなった。
「この墓は海を見ているんじゃなくて、教会に背を向けているんだ」
確かに、東の外れにある教会とは逆方向を向いているけれど、でもそれは単なる位置関係の話で。
「く、雲?」
「もう日が暮れる。親が心配するぞ」
帰れと、雲はそう言った。
「雲はどうするんだ」
「帰るよ、家に。魔法は明日だ。明日、必ず見つける」
そう言って歩き去ってしまった。
僕は1人取り残されて、仕方なく海を眺めた。もう随分黒くて、何がなんだか分からない。何ひとつ面白くもない。
「悪霊か」
教会に背を向けているのか海を見ているのか、僕には分からない。でも一つだけ分かることがある。
「退屈かい?」
悪霊はずっと、海の向こうには行けないまま。