賢者
あの山の向こうは、神様の世界だ。
小さい頃からそう教わってきた。僕に優しく伝えた父も母も、その父や母から教えられてきた。僕らの街の人間はあの山に木を植えては切った。また別の斜面は岩が剥き出しになっていて、その石を切り出して削って家を作った。山の反対側には海があるから、時折強い雨が降ったり豪雪に見舞われる僕らの街は、あの山の石で家を作らなくては生きていけなかった。
あの山の向こうは神様の世界なのだ。
そう教わってきた。
露店の並ぶ通りから外れて、路地をくねくねと抜けてしばらくすると大きな木が見えてきた。北の広場に着いたのである。僕らの街には神様がいないけれど、この木は言わば、父だった。
「いつ見ても大きな木だね、雲」
僕の身長の何倍も何倍も大きくて立派な木は、たっぷりと葉を繁らせて木陰を作っていた。
雲に再び握られた右手首が痛い。
「雲?あの木が魔法なのか」
「いいや、あれは魔法じゃない」
「じゃあ、あれが夢?」
「そんなわけ無いだろ」
雲はずんずん木に近づく。僕らの上にある太陽から隠されて、雲の瞳は翳った。
「雲?」
雲は手を伸ばすと木の幹に触れ、そのまま目を閉じた。うっかり、また魔法かと訊きそうになって口を噤む。
「どうした、雲」
「この木はたくさんあるんだよな」
「そうだね、あの山にもたくさんある。それがどうかした?」
「木には二種類あるだろ」
「ああ、弱いのと、強いのだ。これは強いの」
弱い強いとは木の硬さのことである。弱い木は薪にしたり細かい装飾品に使い、強い木は農耕具や家の骨組みになったりした。
木に恨みでもあるのか、雲は枝の先を睨もうと上を向いた。そよそよと葉が風に揺れている。
「なあ、雲……魔法はどこにあるんだい?」
風が吹く度揺れる陰は、僕らの目を照らしたり翳らせたり、気ままなものだ。
「急がなきゃいけないぞ、土竜。魔法を早く見つけなくては、世界は変わらない」
「この木が魔法じゃないなら、ここで立ち止まっちゃいけないんじゃないのか?」
「この木は昔からあるんだな」
雲は僕の言葉なんて聞こえなかったように話を進める。
「そりゃあそうだろ。僕らが生きてるうちはずぅっとあるじゃないか」
「それより前からここにあるんだろ」
「うん、これだけ大きいんだからね」
きっと、僕の父や母が生まれる前からあったのだ。北の広場の大木は、神様がいない代わりにこの街を見守ってきた。この木は神様じゃないけれど、この木のおかげで昔のみんなは不安にならずに生きていけたのかもしれない。
「雲、さっきから元気がないね」
「そうでもないさ」
木の幹から手を離し、その美しい手で髪をかきあげる。
「土竜、植物は生き物だと思うかい?」
「唐突だね」
「どう思う」
「父さんが言っていたんだ。植物も息を吸ったり吐いたりするらしい。それは、僕らと同じだろう?つまり生きているんだ」
「でも植物に心臓はないぞ」
僕に心臓があることなんて、いつもは意識したりしない。驚いたり走ったりしなければ、そいつは僕の意識にのぼらないのだ。それなのに、あることにはある。僕は生きている。
「雲にも心臓はあるよね」
「そりゃそうだ」
「でも僕は、雲に心臓があるなぁなんていつもは感じないよ。血管を押さえたりしないと実感なんてしない」
「何が言いたいんだ、土竜」
「特別なことをしないと心臓があることを実感しない。もしかしたら植物にもあるかも知れないよ?僕らが、心臓を確かめる方法を知らないだけで」
「……そうだとしたら」
それきり、雲は話さなくなってしまった。そうだとしたら、何だったのだろう。僕は、じっと上を睨む雲の隣で考えていた。そうだとしたら、そうだとしたら。
植物が生きているとしたら。この木が生きているとしたら。
ふっと思った。僕らの街に神様はいなかったけれど、ある日、あの山の向こうの世界からやって来た。教会を建てて、いつまでも仲良く暮らしました。
この木と神様は、仲良く暮らしたのだろうか?