夢
「むかーしむかし、ここには夢がいたんだ」
雲に手を引かれてやってきたのは、街のはずれにある古びた教会だった。今は所々にヒビが走り、崩れ、そのくせ蔦にぐるぐると巻かれたその建物は、近くに住む子供なら誰だって、近づいちゃあいけないよと言い聞かされた。
確かに、いつ崩れたっておかしくなさそうだ。頼りない緑の蔦でそぅっと抱きしめられているだけのそれは、今にもぽろぽろっと石クズを零して消え去ってしまいそうにも思える。
古い、古い教会。危ないけれど、僕ら子供にとっては魅力的すぎる場所だった。
「かつていた夢は、今、どこにいると思う?」
「雲、夢は夜にみるものだろう? それじゃあまるで人間みたいな言い方だ」
「人がみる夢なら、人間のようなものだろう」
僕の手を引いて、雲はずんずん教会に近づく。
僕らの街に神様はいなかった。僕が産まれるずっと前に、向こうの山の向こうから、首が短くてなんだかむっくりした馬が引くぼろぼろの馬車に乗って、神様はやってきたと聞いている。
神様は僕らの街に住み始め、山の向こうにはどんなに素晴らしい世界があるかを説いた。みんなは神様を受け入れて、いつまでもいつまでも、仲良く暮らしたのだ。
「入口にまで蔦が……土竜、ナイフはあるかい?」
「あるけどさ、やめようよ。僕ら、もう子供じゃないだろ」
そうは言っても雲は、まだがっちり僕の手首を掴んでいる。
逃げられそうもない。
「ほら土竜、ナイフだ」
「分かったよ。でも長居はしたくないからね」
「勿論さ、ちょっと中を見るだけだ」
ポケットから折りたたみのナイフを取り出して雲に渡す。僕はそれで紙を切るし、木の実の硬い皮に傷をつける。
器用に蔦を切っていく雲の華奢な背中を見つめながら、神様に会いたいと思った。どうしてだろう、ここにいたのは神様で、この教会を作ったのも神様の癖に、僕が生まれて元気に街を駆け回る頃にはすっかり廃墟になっていたのだ。
子供ながらに気になって、確か、僕は雲に訊いたはずだ。
「雲、神様はどうして居なくなったと思う?」
昔から僕より頭が良くて、僕が思いつかないようなこともさらりと言ってしまう雲に少なからず憧れていた僕は、自分に分からないことは大抵訊いていた。
「そんなことも分からないのか? いいかい土竜、神様はね、特別なものを食べて生きるイキモノなんだよ。人間とは違うんだ、なんせ神様だからね」
「そっか、神様だからか」
「神様はあの山の向こうの世界から来ただろ? じゃあ、あの向こうは神様の世界で、この街は神様の世界じゃない」
「そうだね、ここには昔から神様がいなかったから」
「だろ? だから神様は居なくなったんだ。ここには特別なものがなかったんだろ。それならいくら神様だって長くは生きられないんだと思う」
「なるほど、雲は頭がいいね」
そう言ったら、雲は何故かとても怒った気がする。頭がいいねなんて、いつも言っているのに、期待を裏切られたような酷い顔をして。
「さあ、開いたぞ」
切られた蔦がぶらぶらと風に揺れている。君らが勝手に入らないようにしていたのにとんだ仕打ちだよと、文句を言われているような気がした。
すっかり錆びた鉄製の取っ手を引こうとした雲だったけど、どうやら扉も錆び付いているらしい。非力な雲ではびくともしなかった。
「……土竜」
「仕方がないなあ」
こういう時はいつだって、僕の出番だ。
右手は雲に掴まれているから使えない。左手を伸ばしてざらざらとした取っ手を掴んで力を込めると、砂が擦れるような音と共に扉が開いた。
古い物置の匂いがする。僕らの背中から教会の中へ、真っ直ぐに光が差すのを感じる。
「さあ土竜、入ろう」
「待ってよ、ここにその、魔法ってものはあるのかい?」
「少なくともここにはないはずさ。でも、ここを通らなきゃ辿りつけないんだ」
「近道とかさ、」
「もたもたしてると間に合わないぞ」
ほら、やっぱり雲は話を聞かない。
せめてもの抵抗で、躊躇いなく中に入ろうとする雲を引き止めるように力を込めた。
「こら、土竜……」
ぎろりと雲が振り向く。おっかないや。
「そんなんじゃ、いつまで経っても世界は変わらないぞ」
「僕は変えようなんて、」
「つべこべ言うな」
「……はい」
教会の中は意外と真っ暗ではないようだ。僕ら二人はあれこれと言い合いながら、吸い込まれていく。
「夢は今、どこにいるんだろうな」
また、雲は呟いた。