世界
「世の中にはどうにもならないものがある。生まれる場所と、感情だ」
他にもたくさんあるけれど少なくとも自分はその二つが辛いと、雲は言う。
西の広場は木陰もなくて、太陽は容赦なく照りつけた。夜だろうが昼だろうが、ここには悪霊なんていない。
「生まれる場所はどうにもならない。子供に選ぶ権利はない。享受するものだからだ」
どうせこの街に生きるなら。
「どうせこの街に生きるなら、最初からこの街に生まれればよかったんだ」
「雲は……」
「土竜、あの山の向こうは神様の世界だ」
雲はひたすら海を見るから、表情が読めない。
「たくさんの神様が犇めいている。そこから一人の神様がやってきた。そうだろう?」
「うん」
「神様はどうして、この街に来たと思う?」
「僕らの街に神様がいなかったから、じゃないかな」
神様は信じるものなのだと父さんは言う。信じるものがなくて大変なんじゃないかと心配してくれたのよと、母さんは言う。
「そうじゃないんだ」
雲は一体どんな思いで、僕らの街と神様を巡る美しい話を聞いていたのだろう。
「あの山の向こうは大変なんだ。神様はこの街に逃げてきた」
雲はちらりと僕を見る。
「逃げたんだ。あちらから」
自分の子供を一人連れて。
「それが、雲なの」
「そうだよ土竜、羨ましいか、神様の子供だ」
あんまり悲痛な声だから、僕は何も言えない。
「逃げるようなことがあったの……?」
「ああ、戦争が始まったから」
「センソウ」
「この街には無いものだな」
「神様なのに争うのか」
「あの山の向こうの人間が神様なら、神様は戦争が趣味みたいなものだ」
この街に来た神様は、向こうの戦争に参加させられそうになって逃げた。子供を一人連れて。
「母親ともう一人の子供はあちらに残して逃げたんだ。誰もが糾弾するような行為だ」
「争いごとは良くないことだろ。良くないことから逃げるのは、良いことだろ」
「そう思えるのはこの街の人間くらいさ。あちらではそうじゃない。父親は向こうに帰るつもりもなく、ここに逃げた」
そして殺された。
僕らの街に戦争はないけど、あの山の向こうに戦争はある。向こうの世界の戦争から逃げてきた人は、戦争を連れてくるかもしれなかった。だから殺した。
僕らの街の、たった一度だけの殺人。
「向こうの戦争は終わった。母親は帰って来いと言っている。そもそもこの街に、神様の子供が居られる場所はないんだ……殺されなかっただけ慈悲深い」
「雲、雲は行ってしまうの。魔法はどうなるの」
「魔法はある。もう、魔法は世界を変え始めている」
分かるだろ、と雲は微笑んだ。美しいと思った。
雲は上着のポケットからしわくちゃになった手紙を引っ張り出す。
「母親からの手紙だ。帰って来いと言っているんだ」
「どうしてさっきの泥棒は、それを盗んだの」
「あれは神様のもう一人の子供……兄だ。帰ってきて欲しくないから、盗んでしまおうとした。戦争から逃げた奴の子供が帰ってくるんだ、きっとあちらにも居場所はない。兄の居場所も追われるだろう」
「それでも雲の母さんは、雲に帰ってきて欲しいんだね」
「土竜、君が羨ましかった。君はこの街に生きて、街の人に愛されている」
羨ましかった、羨ましかったと、雲は何度も繰り返した。
僕は愛されて生きている。街のみんなから愛を貰っている。でも、誰ひとりとして僕の隣にいる雲に声をかける人はいない。
本当は分かっていた。この美しい友人がいないものとして扱われていることを。だから僕はずっと一緒にいたんだろう。
「この街の人間全員が羨ましかった。どいつもこいつも、恨んで妬んで、殺してしまいたいほど羨ましかった。どうして父親を殺した、どうしてその子供を受け入れなかった!……殺されなかっただけマシだと分かっていても、感情は思うままにはならないものだ、土竜」
「僕は雲が好きだよ」
「君以外は嫌いだろう。そんなものだ」
世界なんてそんなものだ。
雲の服は美しくて古かった。この街には、雲の居場所は無い。みんな分かっているくせに目を逸らして生きている。
「ある時から土竜、君はいつも隣にいるようになった。それはきっと無邪気な好奇心だったのだろうし、それを奪うほどこの街の人間は厳しいものではない。既に十分すぎるほどの対応だと、頭ではわかっていた」
「みんな、雲の悪口なんて言っていなかったよ」
「認識しないように目を閉じていただけさ。それでも土竜、君のおかげなのかもしれない。いつしか君は友達になった」
「そうさ、僕らは友達だろ。これからもそうだろ」
「どうだろう。行かねばならない」
雲は昔から華奢だった。他の子供みたいに駆け回ったりしなかったし、いつも東の教会の近く、目立たない木陰に座って、綺麗な装丁の本を読んでいた。
「あの山を見ろ。これからあの向こうに帰るんだ。見ろ土竜、見ろ」
そう言われて僕は振り返る。東の方にある山、あの山の向こうは神様の世界だった。だから行ってはいけないんだと、大人たちは僕らに何度も言い聞かせた。僕らの街に神様はいないけれど、それがとても畏れ多い存在だと感じたから、僕はこっそり、あの山の向こうが怖かった。この街の子供ならみんなそうだったのだと、知ったのは最近のこと。
「どうだ、神様の世界か」
「あの山の向こうに、帰ってしまうんだね」
雲は行ってしまうのだろうか。
本当に、行ってしまうのだろうか?
あんな、禍々しい山の向こうに。