呪歌と姫君
今の彼女の生活。それを人は『不幸』というのだろう。しかし、そう簡単に決め付けられることではない。なぜなら、幸か不幸かを決めるのは他人ではない。それは、あくまでも本人が決めること。
たしかに、かつての彼女は絹とレースで彩られていた。しかし、今の彼女が纏うもの。それは、絹でもレースでもない。飾りも何もない、質素で実用的な修道服。
「アフル。どうして、そんな道を選んだの」
まるで、彼女が選んだことを否定するような声。しかし、それにアフルが応えることはない。彼女はただ、静かに微笑んでいるだけ。
そして――
その日もいつもと同じように、沢山の洗濯物を抱えて歩く、アフルの姿があった。そんな彼女をみつけた修道院の女院長であるフィレス。彼女は洗濯物を抱えてフラフラしているアフルに、温かな声を掛けているのだった。
「アフル、いつもご苦労様」
「院長様、そんなことはありません。これは、私の仕事ですもの」
抱えた洗濯物の横から顔を出し、返事をするアフル。その髪が光に透け、青い瞳は穏やかな光を浮かべている。その容貌は、人目を引くことが間違いない。しかし、修道服に身を包む者に、そのようなことは関係ない。
「あ、院長様。ちょうどよかったです」
どうやら、フィレスに言いたいことがあったのだろう。声を掛けられたことがチャンス。そう言いたげな表情をアフルは浮かべている。そして、持っていた洗濯物を足下に置くと、まっすぐにフィレスの顔を見ているのだった。
「院長様。いつになったら、私を正式な修道女にしてくださるのですか」
アフルの問い掛けにフィレスは返事をしようとはしない。そんな彼女に、アフルは再度、詰め寄っていた。
「私がここに来てから、2年が経とうとしています。そして、同じ時に見習いとして入った仲間は、みんな修道女になっています。それなのに、どうして私はまだ見習いなのですか」
「アフル、それならば私からも訊くわ。まだ、気持ちは変わらないの」
フィレスの言葉に隠された思い。それをアフルは敏感に感じ取っている。一瞬、うつむきかけた彼女だが、次の瞬間にはフィレスの顔をじっと見つめていた。
「院長様、お言葉はありがたいです。しかし、私の気持ちは変わりません。それとも、私がここにいることが、院長様方のご迷惑となるのでしょうか」
「いいえ、そんなことはないわ。でも、本来であれば、あなたはここにいるべきではない。そのことも、わかっているのでしょう」
「……わかっております……でも……」
フィレスの言葉に、アフルは口籠っている。彼女の言いたいことはわかっている。しかし、アフル自身がどうしても、それを承知することができない。
「院長様、私はここにいたいです。ここで、修道女として生きていきたいです。それは、許されないことでしょうか」
懇願するようなアフルの声。それを耳にしたフィレスは、慈愛の表情ともいえるものを浮かべている。
「あなたがここにいる。そのことは、私が認めている。だから、気にする必要はないの。でも、あなたにはやることがあるはずだわ」
フィレスのその言葉に、アフルは思わず首を垂れている。どう返事をすればいいのだろう、と悩むような表情。そんな彼女をみたフィレスは、気分を変えるかのように別のことを話していた。
「それはそうと、またファクリエル様に捧げる讃歌をお願いしてもいいかしら」
「あ、はい。それはわかっております」
「よかったわ。あなたの讃歌はいつ聴いても気持ちがいいもの。ファクリエル様も喜んでいらっしゃるわ」
フィレスが口にした『ファクリエル』という名。それは、この国ファクリスで信仰されている女神の名前。
彼女は国を護り、王家を護る守護女神。だからこそ、この国は『ファクリエル女神の守護する国』という意味も込めて、ファクリスと呼ばれている。そして、この女神には供物や祈りだけではなく、讃歌も捧げられている。それを捧げるのは修道女の役目。
2年前、初めてここに来た頃のアフル。
彼女は誰にも心を開こうともせず、黙りこくったまま時間を過ごしていた。その彼女が唯一、反応をみせたもの。それが、毎日のように修道女が捧げるファクリエル讃歌だった。
そして、いつの頃からだったろう。ファクリエル讃歌を捧げる修道女のそばに、いつもアフルの姿が見えるようになった。それまでのアフルは、誰にも心を開かず、喋ろうともしなかった。その彼女が、ある時、ファクリエル讃歌を口ずさんだのだ。
その時の衝撃。
それを2年近くが経った今でも、フィレスは忘れることができない。そして、その日から少しずつではあるが、アフルは心を開くようになったのだった。
「ねえ、アフル。お願いがあるのだけれども」
「なんでしょうか、院長様」
フィレスが自分にお願い。一体、それは何だろう。アフルは不思議そうに小首を傾げている。その彼女に、フィレスはニッコリと笑いながら声を掛けていた。
「あなたが歌う、他の歌も聞いてみたいの。だって、いつもファクリエル讃歌でしょう。それが大切で、見事なことはわかるわ。でも、そればかりじゃ、飽きてしまうでしょう」
「院長様……」
フィレスの声に、アフルの声は震えてしまっている。そんな彼女の様子をフィレスは気にもしていない。彼女は自分の提案を話し続けていた。
「だから、今度は別の歌を聞かせてちょうだい。大丈夫よ。ファクリエル様も一度くらいなら、大目に見てくださるわ」
「そ、それは勘弁してください。私、ファクリエル様にしか歌を捧げないと決めております。ですから、他の歌は歌うことができません……」
フィレスの言葉に、アフルは思わず体を震わせている。そして、彼女は洗濯物を置いていることも忘れたように、その場から逃げだしていた。
アフルにとって、フィレスが何気なく言った『ファクリエル讃歌以外の歌』を歌う。そのことは、恐怖以外の何物でもなかったからだ。
アフルは闇雲にあたりを走っている。今の彼女は、自分がどこを走っているかなど考えてもいない。そうこうしている内に、アフルはいつの間にか修道院の敷地、奥深くまでやってきていた。
そこは木々が生い茂った森となり、修道院とは思えない場所。風がそよそよとそよぎ、小鳥が歌っている。そんな様子に、アフルは表情を明るくしていた。その彼女の口から、聞こえるか聞こえないかの響きでファクリエル讃歌が漏れている。
それは、女神を讃える歌。彼女以外の神々は、人に愛想を尽かしてこの世界を離れてしまった。しかし、ファクリエルのみが人を愛し、この世界に残っている。そのことに感謝し、彼女に捧げられる歌。
アフルの静かで柔らかな歌声。それがあたり一面に響いている。いつもであれば、伴奏を付ける楽器。そして、他の修道女の声。それらが混然一体となり、重厚で厳粛な讃歌を奏でている。
しかし、今日はアフルの声のみ。その響きは柔らかな中に、どこか力を宿しているように聞こえる。そして、その声に引き寄せられるかのように、森に住む動物や小鳥が近寄っていたのだ。
だが、それは信じられない光景。なぜなら、滅多に見ることのできない珍しい動物までもが、アフルのそばにやって来ている。そして、アフルの様子を気にして後を追ってきたフィレス。彼女は自分の目の前に広がる光景に、思わず息をのんでいるのだった。
「アフル……これは、どういうことなの」
自分が耳にしているのは、ファクリエル讃歌のはず。それは、すっかり体に馴染んだものとなっている。そして、修道院でこの讃歌が捧げられた時にこのようなことがあったとは聞いたこともない。
そう。このようなことがあれば、間違いなしに奇跡として、修道院の記録には残る。しかし、そのようなものが存在しないことは、フィレス自身が一番よく知っている。
この場にいる動物たちは、アフルの歌うファクリエル讃歌に魅かれたのだろうか。それならば、今までにもこのようなことがあってもいいはずだ。フィレスはそのように思っていた。
しかし、今がいつもと違うことも彼女はわかっている。今の瞬間、ファクリエル讃歌を奏でるのはアフルの声のみ。そして、彼女の声には『何かがある』と、どこかで聞いたような記憶がある。
そうであっても、目の前に広がる光景は驚くものでしかないのだろう。ビックリしたようなフィレスの声が漏れている。そして、それを耳にしたとたん、アフルの紡ぐファクリエル讃歌がピタリと止まる。しかし、動物たちはその場から逃げようともしない。そのことに奇異の思いを抱きながら、フィレスはアフルに近寄っていた。
「アフル、一体、どうなっているの」
フィレスの問い掛けに、思わずビクリとなっているアフル。彼女は目の前にいる動物たちの様子から、何が起こったのかを瞬時に理解したのだろう。困惑した表情だけが、その顔には浮かんでいる。
「アフル、返事をしなさい」
呆然として声も出そうにないアフルの様子。そんな彼女に、フィレスは再度、声を掛けていた。ようやく、声を掛ける相手が誰なのかわかったアフルの顔。それは、今にも泣き出しそうなものになっているのだった。
「院長様……私、また、やってしまいました」
「また? やってしまった? どういうわけなの」
アフルの変化の訳がフィレスには分からない。だからこそ、思わず問い返してもいる。それに対して、アフルはどこか寂しそうな表情で応えていた。
「院長様は、呪歌というものをご存知ではございませんか」
「呪歌? それは知っているわ。でも、それがどうかしたの」
アフルの顔色から、只事ではないことが分かる。それでも、フィレスはそのように感じていることをおくびにも出そうとはしていない。
そんなフィレスの様子に安心したのだろう。アフルは何度か唾を飲み込むと、思い切ったような顔でハッキリと告げているのだった。
「私は、その呪歌うたいです」
アフルの言葉に、フィレスはどう返事をすればいいのかわからない。それもそのはず。アフルの口にした『呪歌』というものがどのようなものであるか。フィレスは、それをおぼろげではあるが知っていたからだ。
『呪歌』、別名を『まじない歌』とも呼ばれるそれは、聞く者を幸せにする力があるといわれている。しかし、それはあくまでも光の一面。
『呪歌』という言葉に含まれる『呪』の文字。それが示すように、この歌は闇の一面も持っている。
その理由。それは、この呪歌というものは、歌い手の感情がダイレクトに反映されるということ。つまり、歌い手が恐怖に駆られて歌を紡いだ時。その時、それは人を殺すことも可能なものとなる。
実際、過去の王の中には、呪歌のこの性質を利用した者もいる。呪歌うたいの紡ぐ呪歌が聞こえる範囲にいる者。彼らはすべてがその影響を受けるのだから。つまり、そうやって、戦争を有利に進めようとしたのだ。そして、それを証明する記録も残っている。
もっとも、これは修道院の院長という立場であるからこそ知っている事実。このことを他に知る者は、吟遊詩人のギルドに属する者たちくらいだろう。彼らは歌を生業としている。だからこそ、呪歌が世間にあふれ、混乱を起こさないように管理もしなければいけない。
つまり、自らを『呪歌うたい』と告げるアフルは、この場にはいられなかったのだ。それを知っているからこそ、彼女はフィレスに『ここにいてもいいのか』と問い掛ける。
その返事はたしかに貰った。しかし、自分が呪歌うたいであっても、同じ返事が貰えるのか。そのことを知りたそうな目でアフルはフィレスを見ていた。そんな彼女に、フィレスはなんと返事をすればいいのかわからなくなっている。だが、思いを一度、口にしたせいだろう。アフルは堰を切ったように言葉を続けていた。
「私は呪歌うたいです。そして、かつての私は、罪を犯す手前のことをしてしまいました。本来でしたら、私は罪人となっていたはずです」
「どうして、そんなことを……たしかに、あなたの過去にあったことは聞いているわ。だからといって……」
アフルの声を思わず否定するフィレスの言葉。それに、アフルは力なく首を振っている。そして、彼女は今まで誰にも話そうとしていなかったことを口にしているのだった。
◇◆◇◆◇
その日は、冬の厳しい寒さがそろそろ緩もうか、という時期だった。
アフルの両親であるジェミニ伯夫妻は、宮廷で開かれている夜会に出席して留守。そして、その頃のアフルは13歳になったばかり。当然、夜会などに出席する年齢とはいえなかった。そのため、彼女は屋敷の使用人たちと両親の帰りを待ちわびているのだった。
「ばあや、お父様やお母様はまだお戻りにならないの」
退屈な時間を紛らわせるために、竪琴を奏でていたアフル。彼女は自分の乳母だったメイド長のステラに問い掛けていた。
「そうですね。もう少ししたら、お戻りになられると思いますよ。お嬢様は、もうお疲れですか。それでしたら、お休みになられた方がよろしいですよ」
「そういうわけじゃないのよ。でも、そうね。その方が、ばあやたちもゆっくりできるわよね」
無邪気な笑顔を浮かべてそう言うアフル。そんな彼女の様子に、屋敷の使用人たちは温かいまなざしを向けていた。
このところ、吟遊詩人のギルドと主の間が険悪になっている。そのことを彼らは敏感に感じていた。そして、それがアフルを巡るものであることにも、彼らは気が付いていたのだ。もっとも、それはアフルの竪琴の教師であるアリオンから、それとなく聞いていたからかもしれない。
しかし、誰もそのことでアフルを疎ましくなど思っていない。ギルドの申し入れを受け入れれば、彼女が屋敷からいなくなる。その方が、彼らにとっては我慢できないこと。屈託のない笑顔を浮かべるアフルは、両親からも使用人からも愛される存在だったのだ。
「では、お嬢様はもうお休みになられますか。旦那さまには、わたしからそのように申しておきましょう」
ジェミニ伯夫妻が夜会から戻ってくる時間。それが、夜半も大きく回った頃になるのは間違いない。そんな遅い時間まで、子供のアフルを起こしておくつもりがステラにあるはずもない。彼女は、アフル自身が『もう休む』と言ったことに、安心したような表情を浮かべていた。
「でも、ばあや。お父様やお母様に、アフルは待っているつもりだったって、言っておいてよ」
「わかっておりますよ。でも、もう時間も遅いです。お休みになられるのでしたら、早くお部屋に行かれないと」
その声に、アフルは素直に頷いている。彼女は竪琴を抱えると、自分の部屋へと引き取っているのだった。そんな彼女の姿を見送った使用人の一人が、恐る恐る口を開いている。
「あの……このところ、ギルドの長様がよくおみえになっていらっしゃるのは、お嬢様に関係することでしょうか」
「ええ、そうよ。お嬢様は、ギルドが欲しくて仕方のない力をお持ちのようなの」
「じゃあ、お嬢様はどうなってしまわれるのですか」
不安げな表情でそう言ってくるメイド。それは、屋敷の使用人たち全員の思いだったろう。そんなメイドの声に、その場にいた若い男が反応している。彼がアフルの師であるアリオン。彼は吟遊詩人ということもあり、ギルド内部のことも、伯爵家のことも知っている存在だった。
「心配する必要はない。伯爵がギルドの言うことを聞くはずがない。それに、ギルドもアフルに力があることをハッキリと認識しているわけじゃない。そして、なによりもこの家は国王陛下の信頼が厚い。ギルドも無茶はしてこないよ」
「でも、あまりにも頻繁です。心配にもなります」
「それは、それだけ旦那様が拒否なさっているからです。ギルドにすれば簡単に諦められないのでしょう。そのことは、アリオンからもきいていますからね。あなた方が気にしているのはわかるわ。でも、心配しないように」
アリオンとステラの言葉。それを聞いた若い者たちは、ようやく安心したようだった。彼らは、アフルが部屋に引き取ったこともあり、自分たちの仕事を片づけていた。
そんな中、アフルは部屋の中で困ったような顔をしていた。
今夜、両親が遅いということは彼女も知っていた。だから、起きて待っていられるようにと内緒で昼寝を決め込んでいたのだ。しかし、自分がいることでメイドたちの仕事に差し障りがあるのでは。そう思った彼女は、それほど眠くもないのに、寝室に引き上げたのだ。だが、昼寝の効果はてきめん。アフルはベッドに入りながらも、なかなか訪れることのない睡魔に苛立ちを感じていた。
「どうしよう……ちっとも、眠れないわ……お父様やお母様は、帰ってこられたのかしら」
もしそうならば、両親の顔が見たい。
そう思ったアフルは、寝室からそっと抜け出していた。階下を見ると、ほのかに明るいように感じられる。この様子なら、両親が帰って来ているのだろう。そう思った彼女は、安心したように階段を降りて行っていた。
「あら、ばあやたちの声がしないわ」
両親が帰って来ているならば、必ず出迎えに出る者がいるはず。しかし、そんな声が聞こえてこない。そのことが嫌な予感となってアフルの胸を締め付ける。それでも、彼女は階段を降りる足を止めていない。やがて、彼女は屋敷の入り口ホールに続く扉をそっと開けているのだった。
「う、うそ……」
扉を開いた先に広がっていた光景。
それは、アフルには信じることのできないものだった。大理石の床が血の海となっている。そして、そこに倒れている人影。
「お父様、お母様……」
アフルの口から、小さな悲鳴が上がっている。血溜まりの中に倒れていたのは、彼女が大好きな両親。思わず、そのそばに駆け寄ろうとしたアフル。その彼女の前に、見たこともない男が姿を現していた。
「あなたは……」
その男は、血に濡れたナイフを持っている。彼が両親をこんな目にあわせた。そのことは間違いがない。思わず震えながらも、アフルは相手をキッと睨んでいる。その彼女に、男はニヤリと下卑た笑いを見せていた。
「こんな可愛い子供がいたのか。思ってもいなかったな」
そう言うなり、男はアフルに近寄ってくる。その視線に、彼女は恐ろしさしか感じないのだろう。相手から逃げるように後退っている。
「いやよ……こっちに来ないでよ……」
震えながらそう呟かれる声。そんな中、彼女の中で何かがグイっと首をもたげたようだった。恐怖に震えながら、男から目を離すことができないアフル。その彼女の口から、声にならぬ声、音にならぬ音が響いていたのだった。
その響きは壁を伝い、窓を揺らす。
音にならぬ音だというのに、それは屋敷中に響き渡る。
「お、お前……呪歌うたいか……」
苦悶の表情を浮かべながら、男はアフルを見据えている。しかし、男の声がアフルの耳に入っている様子はない。彼女の視線は、血塗れで倒れている両親から放されることがない。
アフルはただ、歌い続けていた。それが恐怖に突き動かされたものである。そのことを彼女自身がわかっていない。そして、その声は屋敷にいるすべての人々を呼び集めている。
「お、お嬢様……やめてください……くるしい、です……」
可愛がってくれる人々の声。それすらもアフルの耳には届かない。彼女は何かに操られているように、ただ、音を奏で続けている。
「アフル……もう、いい。やめるんだ……」
そんな声を同時に、彼女を抱きしめる力強い腕。その力に、アフルはようやく我に返りつつある。
「アリオン……」
力なく呟かれるその声。そんな彼女にアリオンは何も言わない。彼女の視界に両親の姿が入らないように包み込んでいる。
「アリオン……わたし……」
一体、自分は何をしていたのだろう。
そんな疑問がアフルの胸の内に浮かんでいる。しかし、その答えを彼女が手に入れることはない。アフルは、自分を抱きしめるアリオンの腕の中に、崩れるように倒れこんでいるのだった。
◇◆◇◆◇
フィレスに、かつてあったことを淡々と語るアフル。
そんな彼女の言葉に、フィレスは呆然としてしまっていた。どのような言葉をアフルにかければいいのだろう。そんな混乱したような表情だけが、フィレスの顔に浮かんでいる。
しかし、アフルはそんなフィレスの姿を気にしていない。彼女は、静かに語り続けるだけ。
「あの時、私は自分の力も知らぬままに呪歌を紡いでしまいました。それが、大切な人たちも傷つけるのだということもわからずに。ですから、私はその償いをしなければならないのです」
心なしか震える声でそう告げるアフル。フィレスはそんな彼女の姿をじっと見るしかできないようでもある。しかし、そうであっても、何かを言わなくてはいけない。
そんな、どこか切迫した思いがフィレスにはある。しかし、アフルから呪歌うたいだときかされた衝撃。それが簡単に消えるものではないのも事実。フィレスが躊躇うのも当然のことだった。
「アフル……どう言っていいのかわからないのだけど……」
それは、いつもの毅然とした態度のフィレスではない。その姿に、呪歌うたいだと告白したのは間違っていたのだろうか。そんな思いからか、アフルは項垂れてしまっていた。
そんな彼女の手をフィレスはしっかりと握っている。そして、アフルの顔を正面から見つめていた。
「アフル、たしかに呪歌は怖い。それを否定することは、できないわ」
フィレスの言葉に、アフルはピクリと身体を震わせている。フィレスの言葉は、呪歌うたいの自分を否定している。そのように彼女は感じたのだろう。しかし、そんなアフルを励ますように、フィレスは話し続けている。
「でも、それだけじゃないでしょう。あなたの歌には、声には、人を幸せにする力もあるのよ」
フィレスの言葉は、アフルには思いもよらぬものだったのだろう。それを証明するかのように、彼女は口をパクパクさせている。そんなアフルを見ているフィレスのまなざしは温かく、優しいものであった。
「そうでしょう。あなたの歌うファクリエル讃歌は、他の誰のものよりも心に染み入るわ。だから、あなたは自分を卑下する必要はない。たしかに、ビックリはしたわ。でも、それは当り前よね。誰だって、知り合いに呪歌うたいがいるなんて、思いたくないもの」
「院長様……」
その言葉は、フィレスなりの優しさと思いやり。それを感じたアフルは、思わず目を潤ませ、声を詰まらせていた。そんな彼女をみつめるフィレスのまなざしは、娘を見守る母親のようなもの。
「あなたは、そのことを気にしすぎる必要はないの。シュゼットもそう言うはずよ」
フィレスの口から、今は亡き母の名が出た。そのことに、アフルは思わず目を丸くしている。この人は、一体、どこまで知っているのか。そんな疑問の色がその顔には浮かんでいる。
「院長様、どうしてその名を。私、お話ししたことがございましたか」
「いいえ、きいていない。でも、知っているのよ」
フィレスのそんな言葉に、ますます訳が分からなくなっていくアフル。彼女はポカンとした表情で、じっとフィレスの顔を見ている。そんなアフルの姿に、フィレスはクスクスと笑っていた。
「言いたくないことを言わせてしまったわね。そのお詫びに教えてあげる」
その口調と態度。そこからは、修道院を束ねる院長という、厳粛な様子は感じられない。アフルは困惑の度合いだけが強くなっているのを感じているのだった。
「あなたのお母様のシュゼットとは、昔からの親友だったの。私はこうやって修道女になったから、会う機会は限られていたわ。だから、シュゼットがあんなことになったのは本当に悲しかったの。そして、あなたが修道女になりたいといった。それを知った時は、本当に辛かった」
「院長様……」
「だから、私はあなたを正式な修道女にしないの。見習いのままなら、いつでも俗世に戻れるもの。そして、あなたには家を再興させる、という役目があるはずだわ。そのこと、わかっているのでしょう」
アフルを諭すようなフィレスの言葉。彼女はそれを黙って聞いているだけ。その胸にどんな思いがあるのか。それは誰にもわからない。
いや、アフル自身にもわからないのだろう。それでも、彼女はまっすぐにフィレスをみている。そして、その思いの一部を口にしていた。
「院長様、おっしゃりたいことはわかります。でも、もうしばらくここにいさせてください。私は自分が許せるようになるまでは、院長様が望まれることはできないと思います」
キッパリと言い切られたその言葉。そこには、先ほどまでの揺らぐような様子は感じられない。だからこそ、それがアフルの正直な気持ちだとフィレスにはわかっている。
彼女が決めたことがそれならば、それでいい。自分は、アフルが感じる罪悪感を少しずつ拭ってやればいい。フィレスはそのように考えているのだった。
「それでいいのよ。何も今すぐに行動しろ。そんな風には言っていないわ。これは、あなたが自分で決めることだから。でも、その時が来た時。その時がいつであってもかまわない。あなたは、ここから自由になれるのよ」
フィレスのその言葉が合図になったのだろうか。
その場にいた動物たちは、夢から覚めたようにあちらこちらへと散っている。動物たちは森の中に戻り、小鳥たちは大空へと羽ばたいていく。
それは、呪縛からの解放、という言葉が相応しいのだろう。
それをじっと見ていたアフル。彼女は、自分にもそんな時がくるのだろうか。そんなことを自問自答しているようだった。