くりかえす森
八月の陽ざしが机の天板を白く照らしていた。校庭から立ちのぼる熱気が空気を揺らし、青空教室では机を円く並べ、その中央に先生が立っていた。
「さて、曹操が劉備に漢中で敗れたとき、撤退の合図に使った暗号は何だったかな」
蝉の声が途切れず続く中、一人の少年がためらわず手を挙げる。
「それは鶏肋です」
先生はうなずき、説明を添えた。
「鶏肋とは鶏のあばら骨のことだ。肉は少なく腹は満たされないが、出汁は取れる。つまり“大して益はないが捨てるには惜しい”というたとえだ。曹操は微妙な存在感の漢中をそう評し、退却の合図にした。それを伝えたのが軍師・司馬懿仲達だ」
その名が空気に混じった瞬間、風がひとすじ校庭を抜けた。熱気が揺らぎ、蝉の声が膜ごしのように遠のく。すると──芝居の幕がふわりと開くように、芝居好きの語り手——しばい——が現れた。
「では、少年よ。“くりかえすをくりかえす”とは何か、知っているか?」
少年は首を横に振る。
「鶏肋は知っていても、それは知らないのだね」
「……聞いたこともありません」
「これは、ただの繰り返しではない。命の循環、記憶の継承だ。森の話をしよう」
「森の奥に、まもり神トロルがいる。臍にはひとつの栗——臍くり(へそに宿る命の象徴)——がある。春、雪解けの水がせせらぎとなり、土の匂いが立ちのぼるころ、縞りすのマックがそれを盗み、苔の香りのする神棚にお供えする。秋になると、臍くりを失ったトロルは風邪をひき、森のはずれに大風が吹きすさぶ。枝が鳴り、葉が舞い、夜は森全体が低くうなる。マックは耳をふるわせ、胸の奥に入りこんだ冷たい隙間風に気づく。そして神棚から栗をもどす。栗が臍に収まった瞬間、風はやみ、空が群青に澄みわたり、森の奥から深い呼吸が戻ってくる。
——そして次の春、また同じことが始まる」
「これが、“栗返す”をくりかえすということだ」
「毎年……ですか」
「そうだ。森の生き物たちはこれを忘れない。言葉も、行いも」
少年は小さく笑い、言葉を口の中で転がした。
「栗返す……くりかえす……」
最初の響きは可笑しさを含んでいたが、繰り返すうちにその音は静かに沈み、祈りのように胸の奥に落ち着いた。
「それでいい。それが芽になる」
しばいはそう言い、陽炎の中に消えた。
少年は空を見上げ、雲の流れを追った。その目には、森の臍くりが見えているかのようだった。