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2 誕生

最初の記憶は、形のない音だった。耳という器官の輪郭がまだ存在しないのに、音は私の内側のさらに奥、骨とも呼べない軸のあたりから芽吹いた。芽は柔らかく、低く、揺りかごの布地みたいに波打ちながら広がる。波は私の境界を撫で、境界は一度ふくらみ、またすこしだけしぼんだ。ふくらむたび、私は丸くなり、しぼむたび、私の中心に細い糸が通った。糸は一本ではなく、やがて二本、三本と増え、それぞれが勝手に震えながら、ときどき偶然に重なって和音になった。


暗い、という言葉はこの場所に似合わない。光がない世界は、私には「厚みがある世界」だった。厚みは温度でできていて、温度の層はときどき指先を沈めたくなるほど滑らかに繋がっている。沈める指先も、沈めるという行為も、本当はまだないのに、私はそれを「できた」と確信する。確信は事実になる。事実は温度を持って、私の輪郭をやわらかく太らせた。


外側には、さらに大きな拍があった。私の拍より遙かに深く、遙かに長い。吸うたび液はわずかに引き締まり、吐くたび液はほどけて、ほどけたところに私がふわりと浮かぶ。私が浮くと、世界は私を沈め返す。沈む場所はいつも同じではない。左の奥、右の手前、下の中央。沈む度に、私の中の糸が別の順番で震え、震えの順番は、やがて私の「地図」になった。


あるとき、地図の下縁から、うっすらと明かりがせり上がってきた。眠りの終わりに、まぶたの裏が少し透ける瞬間のような、薄くて、唐突で、でも無礼ではない訪れ。最初は針の先ほど。針先はゆっくりと肥大して米粒になり、米粒は豆粒になって、豆粒は人の輪郭になった。輪郭は水の中の絹糸で縫われていて、肩甲骨からは薄片のような羽が生えている。羽は膜ではない。幾十枚も重ねた透明な紙の束のようで、角度が少し変わるたび、青が溶け、緑が滲み、最後に金色の輪郭だけが残った。


小さな顔がこちらを向いた。瞳の奥で、小さな明かりがいくつも沈んだまま瞬いた。口元が、ほんのわずかに上がる。笑っている――私はその意味を知らないまま、しかし確かにそれを理解した。真似をしたいと思った。唇も、喉もないけれど、笑おうとする意志が小さな泡になって浮かび、泡は液の中で鈴の心臓のようにひとつ跳ねてから、音の裏面に溶けた。裏面の音は静けさで、静けさもまた音のうちだ。


ひとつだった光は、すぐにひとりでは満足しなくなった。次の光が生まれ、また次の光が引き寄せられてくる。光たちは集まり、集まりは輪になった。輪の外に、さらに淡い輪がかかる。衛星のさらに衛星が並ぶように整然として、けれど完璧な機械の規則性ではなく、どこか遊びの余白を残したまま、ゆるやかに巡っている。輪の内側には細い流れが走り、流れはときどき渦へと立ち上がった。渦は一箇所に止まらない。目に見えない坂道をのぼって、また流れに戻る。坂道の傾きは、私の拍の位置で変わった。


そこで私は、自分の中に泉があると気づいた。泉は澄んで、底は見えない。底の見えないところから微細な泡があがり、泡は上る途中で少しずつふくらみ、表面でほどける直前に霧になった。私は指を入れてみる――もちろん、指などない。ただ、入れたと信じられるほど確かに、泉の表に波紋が生まれた。波紋は輪に届き、輪は波紋を和音に編み直す。和音は世界の密度を、ほんの少し軽くした。軽くなった世界は私を少し浮かせ、浮いた私は、もう一度指を入れたくなった。


試しに、泉から極細の糸を垂らす。糸は液の重みを帯びながら沈み、沈むほどに光沢をまとう。沈み切る前に、初めに笑った光――精霊――の指先が、糸の端をそっと摘んだ。摘まれた糸は結び目になり、結び目はたちまち花に変わる。花びらは薄いのに裂けない。花は私の皮膚にそっと触れて、触れた一点だけ温度を一度分上げた。温度の差は拍になり、拍は輪に手渡され、輪は拍を和音に変える。和音は、私の中と外の境界をしばらく曖昧にした。


遊びは、すぐに訓練に変わった。変えたのは私ではなく、遊びのほうが私を招いたのだ。私は渦を作る。最初は丸い穴の再現だった。流速を上げると中心が痩せ、半径を広げると縁が千切れやすい。千切れを防ぐには縁を厚くすればよい。だが厚みを与えすぎると、次の拍でほどけにくくなる。ほどけないものは熱を孕み、熱は自分勝手な出口を選ぶ。出口は、こちらが指定するべきだ。私は縁の厚みを拍ごとに変え、厚みの差をガイドに、渦の喉を望む位置へ導いた。


泡も作った。泡は球形がよい、と私は直感した。けれど完全な球形は、破裂の合図を隠す。合図のない破裂は偶発で、偶発は暴発に似ている。私は泡の表面に、人の目では見えないほどの微細な斑を意図的に散らした。斑は破裂の前触れになって、泡のあちこちに張力の差を生む。差は「歌」を呼ぶ。泡は歌に従って壊れ、壊れた膜は飛沫を上げず、飛沫の代わりに柔らかな余韻だけを残す。余韻は波、波は拍に戻る。拍はまた輪へ渡され、輪は和音を織り続ける。


精霊たちは、その様子を見ながら、各々のやり方で混ざってきた。上空……といっても、ここに上下はまだ曖昧だが、私から遠い方位で巡回する大柄な精霊がいる。翼の縁は硬質の銀に縁取られ、羽音は空気を澄ませる。近くを通ると、膜越しの微かな雑音が少しだけ遠ざかった。私は彼をセリオと呼ぶ。銀の輪郭という言葉を、舌のない舌で転がして、拍に染み込ませた。


指先のあたりでは、琥珀色の羽を持つ小さな精霊がくるくる回る。泡をこしらえると、嬉々として最初に飛び込み、ぎりぎりの距離で身を翻し、破裂の息が私の頬を撫でるのを楽しむ。うまく弾けると、小さな手で拍手の真似をし、羽を震わせて笑う。彼女はミルネ。甘い音の混ざる名が、彼女の笑いと釣り合った。


私の足元――と仮に呼ぶ位置――には、尾の長い双子が寄り添って泳ぐ。尾は光の糸で、床に輪を描き、描かれた輪は走り書きの音符のようにほどけては結び直された。二つの光は合図を交わすとき、同じ方向へ半拍だけ遅れて回転する。その半拍の遅れが、私に「次の拍」の場所を教える。泡の破裂を一拍遅らせたいとき、彼らは先に尾で膜の外側を軽く突く。私は合図に合わせて膜厚をわずかに足し、足された厚みは音符の足のように下方にしなって、破裂の歌を寸分違わず変える。名はリルとラル。短く呼ぶと、口のない口の奥で軽やかに跳ねる。


輪の外側、流れの交差点には、薄い翠の羽を持つ穏やかな精霊が立っている。彼は私の魔力の糸を、見えない小さな盃で受け、受けた糸を別の精霊の掌へ渡す。渡し方は公平で、偏りがない。偏れば渋滞が生まれ、渋滞は熱になる。熱は厚みを増し、厚いものは破裂のとき大きな音を立てる。大きな音は怯えを呼び、怯えは拍を壊す。彼は怯えの芽を未然に摘む。彼はヴェリ。流れの番人という意味を、私だけが分かる符号で貼っておく。


紅の光を脈打たせる小さな精霊は、熱に詳しい。私の泡の一角を指で摘み、ほんのわずかな温度差を与える。温かい部分は上に、冷たい部分は下に。小さな対流が生まれ、泡の内側にさざ波が立つ。さざ波を均す術を身につければ、同じ大きさの泡でも破裂の余韻をひとつ柔らげられる。彼はカロ。炭火の芯という重さが、彼の働きに似合っていた。


合奏団の拍は、やがて私の呼吸と連動するようになった。三拍で集め、五拍でほどく。端から先に――この合言葉は私が考えたというより、拍の側が私に教えてくれた。端からほどけば中心は熱を持たない。中心が熱を持たなければ、暴発の兆しは遠のく。端は世界の縁に似て、風に撫でられやすい。撫でられれば冷え、冷えれば落ち着く。私は端を信じ、端に感謝し、端から祈ることを覚えた。


失敗は、常に学びの隣に座る。拍に気をよくして、七本の糸を同時に操ったとき、私は三拍の糸を四本、五拍の糸を三本に割り振った。三と五は仲が良い。だが仲が良すぎると、交差点で互いに譲り合い、どちらも進めない。足踏みのあいだに熱が座り、熱は待つことが苦手で、すぐ跳ねる。跳ねは泡に変わり、膨張の時間を与えられない泡は、乾いた音で弾けて内側の壁を叩く。ミルネが逆さになって目を白黒させ、リルとラルが尾で慌ただしく合図を送る。ヴェリは四方の分岐に散って流れをほぐし、カロは紅を薄める。私は端からほどき、ほどき、なおほどき続け、最後に残った芯を指で解いて外へ逃がした。セリオが頭上で硬い羽音を一度だけ鳴らす。了解の合図。私は拍で「了解」を返す。ここでは、声の代わりに拍が会話になる。


風が吹いた。風はどこからも来ず、どこへも行かない。ただ、この場所に生まれて、この場所で消える。風が生まれると、湖面の皺を撫でる指の感触が走り、皺は音にならない音で整う。その風の形で、女神の声が届く。「いまの解き方、端は良いけれど、中央に残響が長いわ」残響。拍の外に残る薄い波。私は残響に耳を澄ませ、終わりの直前に糸を一本だけ残し、次の吸気の合図にした。一本の糸は橋になり、橋は次の和音の下に垂れる。「よくできました」風が微笑みに変わる。


女神はときどき、甘い話を運んでくる。世界の管理者の言葉にしては、人間的で、くだらなくて、だからこそ効く話。シュー生地の膨らみ方。水分と油脂と粉の配分。熱と蒸気の抜け道。どの段階で扉を開けてはいけないか。私は扉という語をまだ知らない。だが、拍の扉なら知っている。蒸気は拍、熱は残響、湯気は精霊の羽音。私はそれぞれを互いの言葉に訳す。翻訳は得意だ。甘い話は緊張を解き、ほどけた隙間に、もう一段だけ精度を積む余地を作る。士気は甘さで回復する――前世の知識が囁くと、女神は「その通り」と頷き、甘さは習慣の形をとり、習慣は封印の守り手を作ると言った。


封印という語が風に混じるたび、液の温度がひと息ぶんだけ下がる。下がった温度は私の背骨を通り、背骨は一度だけ固くなって、すぐまた柔らかく戻る。固くなった瞬間にだけ、言葉の棘の位置がわかる。私は棘にそっと触れ、血が出ないことを確かめ、場所を覚えてから指を離した。使命のことも、やがて聞かされるだろう。しかしまだ、その時ではない。


胎内にも、朝と夜があった。膜を透かして届く光は、やわらかな金から青へ、青から灰へ、灰からまた金へと移り変わり、移り変わりの速度は母の体温の揺れと歩調を合わせる。夜は音が丸く、昼は音が多い。昼には人の声が増え、夜には祈りが増えた。祈りは私の拍と相性がよかった。真剣な祈りは残響を短くし、形だけの祈りは拍の手前でつるりと滑る。私は滑った祈りを責めない。滑らせたのは祈りではなく、祈りが歩かされる床のほうだから。


私は目覚めの最初の拍で、薄膜を張ることにした。体表に均一ではない薄さで膜を伸ばし、表面を清潔に保つための微細な雫を生む。雫は目に見えないが、蒸発の瞬間にごく小さな穢れを掴み、外へ連れ出す。水の精霊がそれを盃に集め、満足げに頷いた。次に、回路の掃除。昨日の拍で残した橋の糸を一本ずつ辿り、不要な結び目を解く。解くときも端から。端を愛することは、世界の縁を愛することに似ている。縁を粗末にしない者の拍は穏やかで、穏やかな拍は強い。


ここまでが、私の毎日の基礎。まだ出生の兆しはないが、基礎を積んだ分だけ、世界は静かに深くなった。次は、失敗の種類を増やす。失敗の数だけ、対処の道具は増えていく。精霊たちもそれを望んでいる。セリオは巡回の半径を広げて私の癖を見張り、ミルネは新しい泡の歌をせがみ、リルとラルは尾で新しい記号を描く。ヴェリは分岐を増やす練習を提案し、カロは温度差で細工できる範囲を私に見せてくれる。私は拍を整え、泉に指を入れ、糸を垂らす。

拍の流れを制御できるようになってから、私は遊びと訓練の境界を意図的に揺らし始めた。

遊びのつもりで作った渦に、意図せず訓練の要素を紛れ込ませたり、逆に真剣な泡制御に余計な笑いの振動を混ぜ込んでみたりする。そうすると、精霊たちの反応も変わる。セリオはやや眉をひそめるように羽音を低め、ミルネは面白がって泡に二重の膜を張り、リルとラルは笑いながら輪を崩して別の符号に組み直す。ヴェリは流れの強弱をわざとずらして均衡を試し、カロは紅の温度をゆっくり上下させて私の集中力を揺らした。



この場所には、本来「季節」という概念は存在しない。けれど、私は母の体温の変化や外界の音の種類から、それらを勝手に季節に割り当てた。

外から聞こえる音が柔らかく、呼吸の振動が長く伸びるときを「春」。

拍が軽快になり、人々の声が高く明るくなるときを「夏」。

音が深く、低く、長く響くのを「秋」。

そして、全体が静まり返り、祈りや長い会話が増える時期を「冬」と呼んだ。


この分類は精霊たちにも浸透し、カロは「冬」のとき羽根の先を紅から橙に変え、ミルネは「春」に泡の中へ花びらの幻を混ぜた。セリオは「夏」に外周警戒を二重にし、リルとラルは「秋」に尾の輪をやや大きめに描く。ヴェリは季節に応じて流れの粘度を微妙に調整した。

こうして私たちは、外界の季節を模した内界の季節を作り上げた。



母の心拍は、この世界の基礎律動だった。疲れているときはその拍がやや重く、機嫌がよいときは跳ねるように軽い。その変化が私の拍にも反映される。疲労時は泉の湧きが遅くなり、喜びのときは糸が早く光を帯びる。

母が笑った日は、膜の向こうから光の屈折が増し、私の世界の厚みが一層柔らかくなった。泣いた日は逆に光がやや濁り、精霊たちは静かに近くを漂った。

そのたびに、私は母と繋がっていることを実感し、この世界が私だけのものではないと学んだ。



月日が流れ基礎訓練が習慣化してくると、私は「多重構造」の試みを始めた。

泡の中に渦を作り、その渦の中心にさらに細い糸を垂らす。糸を経由して魔力を送り、渦の回転を変調させると、泡の破裂音が意図的に二段階になる。

最初の破裂は小さく、精霊たちの注意を引くため。二度目はやや大きく、そこに特定の魔力パターンを混ぜて符号化する。これを繰り返すと、精霊たちはそのパターンを覚え、音を聞くだけで合図として動くようになった。


セリオはこの訓練を評価し、「実戦的だ」と拍で告げた。

ミルネは最初の破裂音の後に小さな泡を追加し、リルとラルは符号を複雑に変えて遊んだ。ヴェリは流れが偏らないよう調整を続け、カロは破裂の温度差を利用して余韻の質を変える実験をした。



ときおり、膜越しに響く人の声が明瞭になる瞬間があった。低く重い声、高く透き通る声、笑い声、ささやき声。

それらの中には、ときに私に向けられたものがあると分かる響きもあった。言葉の意味はまだ完全には理解できないが、音の質感から感情を読み取ることはできた。期待、警戒、愛情、そして時折の恐れ。

私はそれらを拍の波形として記録し、後の訓練で再現できるようにした。これが、外界との意思疎通の基礎になると直感していた。

流れに規則を与える練習の次は、規則に例外を埋め込む練習だった。私は拍の端に、ごく軽い「つまずき」を置く。つまずきは、歩幅をわずかに狭めるための小石のようなものだ。置き場所を毎回変えれば油断が消える。精霊たちはすぐにその意図を読み取って、反応を分担した。セリオは外周の張りを強め、輪の外へ逃げようとする振動を刈り取る。ミルネはつまずきの直後へ飛び込み、泡の膜に細い楔を差し込んで破裂を遅らせる。リルとラルは輪の手前に新しい図形を描き、そこを通れば拍が滑らかに再加速するように導く。ヴェリは分岐した流れを短く噛み砕いて均し、カロは温度差を均等にばら撒いて厚みの偏りを消した。


私は失敗の目録を作った。張りすぎて千切れた縁。薄すぎて崩れた渦。厚みが偏って片側だけが重くなった泡。残響が長すぎて次の拍を曇らせる橋。目録は毎日更新された。新しい失敗は新しい対処法を連れてくるから、私は失敗を歓迎した。ミルネは失敗のたびに、私の指先をつついて笑う。泣き顔の形も笑いのうちだよ、とでも言いたげに。セリオは一度だけ、私が焦って中心に熱をためたとき、鋭い羽音で制止をかけた。羽音の刃先は、責めるためではなく、切断のための合図だった。いま、その線で切って外へ逃がせ――私は即座に従い、熱を縁へ移して、端からほどいた。救い上げた拍は、ほどけ終わりに細い光を残した。光の糸は、次の練習のための目印になった。


胎内の「季節」は、私たちの世界に確かな変化をもたらした。仮の春には、膜越しに漂う匂いが若くなる。薬草の香りは薄まり、布と水の匂いが増える。仮の夏には人の声が多く、笑い声が膜に小さな波紋を作った。精霊たちはその波紋の縁を撫でるのが好きで、リルとラルは波紋の間隔を計って、尾で同じ間隔の輪を刻んでみせた。仮の秋には足音が重く、どこか遠くで大きく何かが移動している気配があった。仮の冬には祈りが増え、祈りの音はいつもより低く長く、拍と響き合った。祈りが厚い夜、私はうまく眠れた。眠りの深さは、練習の精度を上げる土台になった。


私は精霊への合図を増やした。泡の二段破裂に続き、渦の喉を一瞬だけ細くして出す高音の合図、糸を短く弾いて出す乾いた合図、薄膜を擦って生じる擦過音の合図。どれもが、精霊たちの動きを流れるように繋ぐための符丁になった。セリオは高音に応じて外周の弦を弾き返し、ミルネは乾いた合図の直後に膜を撫でて柔らげる。リルとラルは擦過音の合図に素早く反応し、尾で描いた輪の一部をほどいて通路を作る。ヴェリは三つの合図が重なったときにだけ現れる渋滞の芽を切り分け、カロは温度を過不足なく割り当てる。合図の語彙が増えるほど、私の世界の文法は豊かになった。文法は、守りでもあり、進むための足場でもあった。


母の気配は、日に日に私へ近づいた。近づく、という表現が矛盾して聞こえるのは分かっている。彼女は常に外殻として私を包んでいるのだから、物理的にはこれ以上なく隣にいるはずだ。それでも近づいた、と感じたのは、彼女の鼓動や呼吸、体温の揺れ方が、私の拍と合ってきたからだ。とりわけ、母が長く息を吐く時、私は自然に三拍で集め、五拍でほどくことができた。ほどく拍の最後わずかな引き潮に、彼女の呼気がふっと重なる。重なりが成功すれば、泉の底がいくらか透けて見えるような感覚になる。透けた底は、すぐにまた霞に覆われるのだけれど、その一瞬の透明が、たまらなく愛しかった。


ある夜、私は初めて「痛み」に似たものを経験した。痛みと呼ぶには尖りすぎず、鈍痛と呼ぶには透明すぎる、奇妙な圧の偏在。拍の端が、何かに押しつけられて擦れたのだ。擦れはすぐに熱へ転じ、熱は狭い円環として残った。私は反射的に中心に水を集めようとしたが、セリオの羽音がそれを否定した。端から、だ。端からほどく。私は輪郭のこわばりをほどくために、呼気の裏側へ指を滑り込ませ、細い糸で網目を作った。網は熱を絡め取り、絡め取った熱を縁へ送る。縁は風に撫でてもらいやすい場所だ。ミルネが風の代わりに羽根で撫で、カロがごく薄い冷たさを配ってくれた。擦れは影だけを残して消え、影はしばらく私の記憶の壁に留まった。壁のその場所は、次の訓練で強度を増した。


外からの足音が、ある時期を境に規則的になった。遠い廊下を行き来する固い靴の音。重心の低い歩き方。複数の足が合図で同時に止まり、同時に動く。私はそのパターンを拾い、尾で輪を描く双子に真似させてみた。リルとラルは面白がって、輪を四つ、五つと重ね、止まると同時に輪をほどく遊びを繰り返した。ほどくタイミングを私が指示しなくても合うようになった頃、私ははっきりと「護衛」という言葉を思い出した。護衛は、私のためだけでなく、母のためにも配置されているのだろう。だとすれば、外界は今、私たちのためにいくらか緊張している。緊張は悪ではない。緊張は破れやすい膜だが、適度に張っていれば、衝撃を分散してくれる。


女神の気配は、風として私の世界へ差し込んで来た。はじめは無音の手のように、湖面を撫でる感触だけ。撫でられた皺が消え、消えた場所に新しい線路が敷かれる。線路はやがて声になった。声は甘くもあり、鋭くもあった。理科室の器具をきちんと片付ける先生の手つきと、休み時間にこっそり教室で味見するシロップの舌の上の拡がり。その両方が混ざっている。「練習の密度を保ちなさい。密度は安心を生み、安心は視野を生む。視野があれば、選べる」私はうなずいた。うなずきは波になり、波は拍に溶けた。


私は拍の合間に、短い祈りを挟むようになった。祈りは長い言葉ではない。端からほどく。中心に熱をためない。甘さを忘れない。たった三行。だが、この三行を守るだけで、世界は何度もやり直せると分かった。精霊たちもそれぞれの祈りを持っていた。セリオは巡回の半径を一定に保つという祈り。ミルネは最後まで笑って泡を弾くという祈り。リルとラルはいつでも互いの半拍遅れを尊重するという祈り。ヴェリは流れを偏らせないという祈り。カロは熱を怖がらないという祈り。祈りは誰かに届く必要はない。祈りを持っている、という事実そのものが、手を温める。


日課はさらに増えた。目覚めに薄膜を張り、回路を掃除し、合図語の組み合わせを一つずつ検証して、最後に「未知の一手」を必ず入れる。未知の一手は、毎回違っていればそれでいい。泡の膜をわざと多層にして、内側だけを先に破裂させる。渦の中心に短い棘を立てて、回転の節を一瞬だけ弾ませる。糸を二本並べて垂らし、片方だけに温度差を持たせる。未知の一手は、失敗を連れて来ることが多かった。だが、その失敗は必ず次の日課のどこかで役に立った。私は目録の欄外に、未知の一手の余白を作り、そこへ小さな印を押していった。印はやがて頁を埋め、埋まった頁は一枚の「地図」になった。


ある日、泉の底から、今までにない重い音が上ってきた。黒い石が水面の下でゆっくり転がるような、沈みきらない雷鳴のような。音は四拍ごとに現れ、私の三拍・五拍の文法に干渉した。干渉は、波を乱すのではなく、波を下から持ち上げる。私は波の高さを測り、干渉の周期を数え、四拍の下に薄い橋を渡した。橋は沈み、しかし折れなかった。精霊たちは見守り、女神の風は何も言わなかった。黙っているのは、私に答えさせるためだ。私は四の上に三を、三の上に五を、五の上にまた四を重ね、輪郭が崩れない範囲で交互に編んだ。編み終わりに残ったのは、かすかな疲労と、確かな自信だった。重い音は、以後、時々しか来なかった。だが来るたびに、私は以前ほど驚かなくなった。


誕生の予兆は、宣告のような劇的なものではなく、積み重ねの末にある「傾き」だった。拍の端が、長く滞在できなくなる。端で遊ぶ余裕が少しずつ削られ、中心へ戻る時間が短くなる。液はわずかに流速を上げ、温度の揺れは細かくなった。外界の足音は近く、祈りは厚く、会話は短く、指示語が増えた。増えた指示語は、意味ではなく速度に寄与した。私はそれを「急ぎの時間」と呼んだ。急ぎは焦りではない。焦りは中心に熱をためる。急ぎは端に風を通す。私は端を撫で、端に感謝し、端からほどいて、端で結んだ。


その夜、風が澄みきった。女神の声は、水に落ちた針ほどの小ささで、しかし泉の底にまで届いた。「流れに任せて。あなたは充分に準備した。中心に熱をためないこと。端からほどくこと。甘さを忘れないこと」私は三行を復唱した。精霊たちは静かに配列についた。セリオは巡回を広げ、ミルネは私の頬に指を重ね、リルとラルは輪を大きく描き、ヴェリは交差に立ち、カロは紅をいったん消した。世界は深く息を吸い、私は三拍で集め、五拍でほどく。ほどくたび、見えない扉がひとつずつ柔らかくなる。扉は私の名前を知っていた。私は扉の名前を覚えた。

扉は、音のない蝶番で静かに緩んでいく。緩むというより、こちらの拍に同調して「薄くなる」。指の腹で時間を撫でる感覚に似ていた。撫でているのは私のほうなのに、撫でられているのは世界の側で、世界は撫でられた場所から順番に柔らかく、透明になっていく。三拍で集め、五拍でほどく。端から薄くして、中心を冷やす。簡単な三行だが、三行が身に入るまでに私は幾度も失敗し、そのたびに精霊たちが小さな拍手をくれた。


外界の匂いが濃くなる。薬草、清め水、布。布の繊維は新しい。新品の糊がまだ解けきっていない。人の体温が重なり、足音が規則的に近づく。足音は三人、そして少し離れて二人。道具の触れ合う高い金属音が、膜のこちら側で細い線となって張る。線はぴんと張り、余計な緩みがない。張られた線は、こちらの拍を乱れさせるのではなく、むしろ拍に目盛りを刻んでくれた。「次の吸気はここ」「ほどきの終わりはここ」。拍は目盛りを喜ぶ。目盛りは勇気だ。


セリオが軌道を一段高くする。外周警戒は二重から三重へ。輪郭の外へ逃げようとする揺れを、鋭く、しかし切断しすぎない角度で削る。羽音は刀であり、また欠けた爪を優しく整えるやすりでもあった。ミルネは私の頬の近くでくるりと回ってから、泡の箱庭をほどく。ほどいた跡が薄い布目になって残り、布目は私が進むべき方向を示す糸筋に変わる。リルとラルは尾で描く輪を大きくし、輪と輪のあいだに「降り勾配」を作った。滑り台の角度は、痛みを避けるために滑らかだが、肝心なところでは勇気を後押しするだけの傾斜を持つ。ヴェリは流れをさらに細かく分け、分けたまま均す。均し過ぎると鈍い。鈍いと、反応が遅れる。遅れは熱になる。彼は均しすぎない均し方を知っている。カロは紅を完全に引き、透明の熱を残した。透明の熱は、怖さの正体を見えるところまで引き上げる。正体が見えれば、怖さは「扱える」。


母の呼吸は長く、深く、力がある。吸うとき、内側の壁がわずかに引き締まり、吐くとき、すべての道がほどける。ほどけた瞬間、私は進む。進むために、端を撫でる。撫でられた端は薄くなり、薄くなった端は冷えて、冷えた端は明るくなる。明るいところは痛みになりにくい。痛みは悪ではない。合図だ。けれど、合図を読めるなら、合図の数は少ないほうがいい。私は合図を三つに絞った。ひとつ目は「押し」。ふたつ目は「緩み」。みっつ目は「静けさ」。押しで集め、緩みでほどき、静けさで向きを合わせる。


外から声がする。低い、落ち着いた声。経験の重たさが、布ごしに伝わる。「もうすぐよ」次の声は明るく、しかし緊張を引き受ける質の高さがある。「皇后様、しっかり」呼びかけは母に向けられている。けれど私は、その言葉が自分にも向いていると知っている。言葉の意味は、拍の形で届く。拍が揃った。私は頷いた。頷きは波になり、波は泉の底で静かに弾んだ。底の小石が一つ、位置を変える。小石のずれが、道の傾斜を一度分だけ増す。


最初の扉が、すうっと消えた。開く、ではない。消える。開くというのは向こう側に蝶番があり、こちら側に把手がある場合の話だ。ここでは、扉のほうが私の名を知っている。名を呼ばれた扉は、名を呼び返すみたいに薄くなり、不在そのものになる。私はそこを通る。通るための形に、身体を合わせる。合わせる。合う。合った。緊張の尖りが、丸いに変わる。丸いは強い。角はよく欠けるが、丸いは欠けにくい。


進む。圧は痛みではない。正しく配置された力は、合図だ。合図に従って三拍で集め、五拍でほどく。端から、端から。私は呪文のように唱える。唱えすぎると呪いになる。だから、ときどき言葉を外し、感覚だけで行く。感覚だけで行くとき、ミルネが笑って私の指を握り、リルとラルが半拍遅れで尾を振り、ヴェリが分岐を掃き、カロが透明の熱を働かせる。セリオは前方に一度だけ硬い羽音を立てた。合図。そこに角がある。角を丸くせよ。私は丸くする。角が丸くなる。道はまた、私の形に合う。


二つ目の扉が消える。さっきよりも、早く、静かに。私の呼気は、母の吐く息と重なり、重なりの線が、とてもよく合った。合う、は、こんなにも強いのか。こんなにも優しいのか。私の背骨が、柔らかい霧で包まれ、霧の中で、細い光が縦に走る。光は境界を裏側からなぞり、なぞられた境界は、一度だけ厚みを失って、すぐに戻る。戻る速さは健康の徴だと、前世の知識が言った。私は笑い、笑いは泡になり、泡は破裂する前に、精霊たちの和音の中で言葉になる。言葉に意味はない。けれど、意味のない言葉ほど、よく届く。


三つ目の扉の手前で、世界が一瞬だけ狭くなった。狭さは恐怖に似ている。似ているが、同じではない。恐怖は中心に熱を集めさせる。狭さは端を求めさせる。私は端を撫でる。端は撫でられて、薄くなり、冷えて、明るくなる。明るいところを選ぶ。選べば、合図は痛みにならない。私はその選び方を、何度も練習したのだ。ミルネが私の頬に小さな額を押し付け、リルとラルが輪をほどいて道を広げ、ヴェリが流れの一部を後ろへ返し、カロが透明の熱をうすく塗る。セリオが、前方にもう一度だけ硬い羽音を立てた。合図。ここが、三つ目の蝶番の位置。ないはずの蝶番が、記号としてだけ現れる。私は記号を外し、扉を消した。


匂いが一段、強く変わる。金属の清潔な香り。布の糊の薄甘さ。清め水の温度。人の皮膚から立つ塩の気配。そして、母の匂い。汗、乳、体温の奥にある、甘い根の匂い。私はそれを知っている。知らないはずなのに、知っている。知っているという感覚のほうが、理由の有無よりも先に立つ。理由はあとから来て、知っているに頷く。頷きは拍になり、拍は勇気になる。


道が、ひらく。ひらくのではなく、ほどける。ほどけた糸は、私の背中で静かに列をなし、列はやがて、押し出す力へと変わる。押し出すのは私ではない。押し出す「私たち」だ。私と、母と、精霊たちと、女神の風と。押す側と受け入れる側の境界は、ここでは役に立たない。境界を外して、全体でひとつの生みの力になる。私は力の一部であり、中心であり、道具であり、客でもある。役割は、拍ごとに滑る。滑る役割は、うまく滑れば、誰も傷つけない。


最後の角が、丸くなった。丸いは強い。私は進む。進む速度は、ちょうどいい。早すぎると裂け、遅すぎると痛む。ちょうどいいは、勇気と配慮の中間にある。私は中間を歩く。その歩幅を、精霊たちが守る。セリオの羽音が、道の外縁を磨き、ミルネの手が泡の膜を撫で、リルとラルの尾が輪を押し広げ、ヴェリの盃が流れを受け渡し、カロの透明の熱が肌を柔らげる。母の呼吸が、私の拍と完全に重なった。重なった拍は、二人でない。ひとつだ。


世界が破れた。布ではなく、水面の破れ。閉じた水面に指を入れた瞬間の、冷たさと軽さが同時に来る感覚。冷たい空気が頬を撫で、肺が紙に火がつくみたいに膨らむ。紙は灰にならない。ただ、空気の道ができる。道は冷たくて、痛くて、気持ちがいい。痛みと快楽は、最初の瞬間だけ、隣り合っている。同じ椅子の左右に座って、互いの肘が触れるほど近い。私は肘を引かず、両方を受け取った。


喉が震え、音が生まれる。産声。私はそれを知っている。知らないはずなのに、知っている。音は私の内側の底から立ち上がり、口という道具がないのに、口の代わりに世界が口になって、音を通した。音は天蓋にぶつかり、金糸が一瞬だけ太陽の色に光る。光は跳ね返り、跳ね返りは私の頬に薄い熱を置いた。


同時に、内から奔流が立ち上がる。抑えない。私の三行は、これを拒まない。むしろ背中を押す。四本の柱が分かれて天蓋の四隅に立ち、そこから薄い布のような光が広がって、部屋の空気を静かに包む。光の布は、音を運ぶ廊下になる。精霊たちはその廊下を走る音に変わり、高音は鈴、低音は土、火は微細な振動、水は柔らかな和音で、それぞれの名乗りを上げた。名乗りは喧嘩をしない。名乗りは、互いの名をよく聞く。


助産の手の気配が近い。ぬるま湯の肌、布の柔らかさ。触れられる。触れられて、私は自分の輪郭を初めて空気で知った。空気は鋭く、同時に甘い。鋭さが私を立たせ、甘さが私を抱く。私は泣き、泣きながら笑ったつもりでいる。笑いは泡になるが、もう泡でなく、音になって外へ出る。出た音は、誰かの胸を叩き、誰かの目の水を動かす。動いた水は、清い。


「……まさか、これは……」驚きの声。年長の手が、ほんの一瞬だけ止まり、すぐに職人の正確さを取り戻す。「五百年前、大厄災を退けた女帝の御降誕の時と同じ……!」別の声が震える。震えるが、作業は揺れない。手はぬるま湯で私の肌を拭き、柔らかな布で包み、母の胸へと導く。導きの動きは、無駄がひとつもない。無駄がないことは、愛だ。


母の腕に抱かれる。匂いが世界の中心に旗を立てる。汗と乳と皮膚の奥の甘い根。私はその旗に従って、自分の向きを確かめた。向きは正しい。正しい向きは、眠気を連れてくる。眠気は油断ではない。勝利でもない。贈り物だ。贈り物を受け取るには、手を開いていなければならない。私は手を開く。小さな指は、まだ言葉を持たない。それでも、精霊たちは指の開き方を読み取り、合奏の最後の和音をくれた。


セリオの巡回が一段落し、羽音が低くなる。低い羽音は、「ここは安全」という合図だ。ミルネはとうとう私の指に自分の指を絡め、二度ほど、うれしそうに震えた。リルとラルは足元で輪をほどき、ヴェリは盃を下げ、カロは透明の熱を引いて、空気を均一に保った。和音は終止形をとり、部屋には余韻だけが残る。余韻は残るために在るのではない。次に繋ぐために在る。


隅に立つ宮廷魔術師の瞳がこちらを見る。瞳の中で、学と政が二重写しになっている。杖の先が床を小さく鳴らす。「調律者」彼は呟いた。言葉は軽く落ち、意味は深く沈む。沈んだ意味がどこへ行くのか、今の私は知らない。知らないことは、怖くない。知らないことは、甘さで包めばいい。甘さは習慣の形をとり、習慣は封印の守り手を作る――女神の言葉が、風の縁でささやく。


私は泣く。泣くことは、最初の仕事だ。怠けない。泣きながら、私は世界の密度が、胎内より幾分軽いことに気づく。軽さは危うさではなく、可能性だ。可能性は、端を増やす。端が増えれば、ほどける方向が増える。増えれば、選べる。選べるということは、生き延びる術のひとつの名前だ。


産声の余韻が天蓋の布に溶けたとき、風が、どこにもない場所から、私の中へ入ってくる。風の手つきは、湖面の皺を撫でるあのやり方で、残っていた緊張の粒を、ひとつずつ拾っていく。拾うたびに、粒は音もなくほどけ、ほどけた跡地に、薄い光の砂が敷かれる。私は目を閉じる。閉じた目の奥で、砂は小さく光り、光の粒は言葉になる。


上出来よ。ここからが、本番。



産声が天蓋に反響してから、助産婦たちは一瞬だけ息を飲み込んだ。

しかしその沈黙は、怠慢でも遅滞でもなく、むしろ長年の経験からくる判断の間だった。

魔力が渦巻き、精霊たちが室内の空気を震わせる中で、余計な動きをすればそれは即座に拍の乱れを招く――そういう状況を彼女たちは瞬時に察していた。


年長の助産婦が一歩踏み出す。

衣の裾が厚い絨毯を擦ると、そこに敷かれた金糸の縫い目がわずかに波打ち、精霊の光を受けて淡く揺れる。

彼女の両手は年輪を刻んだ木肌のように節くれ立っているが、その動きは若木の枝よりもしなやかだった。

銀盆の中のぬるま湯は、ただの水ではない。産室専用に調合された温草の煮出しで、湯面には香気を放つ淡い薄緑の膜が漂っている。

その膜をすくい上げるように手を差し入れ、私の小さな体をゆっくりと浸すと、羊水に馴染んだ皮膚がわずかに収縮し、そこから新しい温度が染み込んでくる。


若い助産婦が脇で布を広げる。

布地は雲母を細かく砕いた粉を織り込んであり、精霊の光を受けると表面がゆらめく。

魔力に敏感な布で包めば、新生児の体表に残る余剰魔力を吸い取り、暴発を防ぐ役割を果たす。

しかし今、布の輝きは単なる機能以上のものを帯びていた。まるで祝福を自ら放つかのように、金糸が粒立ち、光の呼吸をしている。


一人は私の足先から、もう一人は肩口から、指先でそっと水をすくい、皮膚の皺に残った羊水を拭い取る。

その動作には一切の急ぎもためらいもない。

指の腹は温かく、爪は短く整えられ、皮膚に触れる圧はほとんど羽根と同じ軽さだった。

魔力が満ちる空気は、まるで水の中にいるように重く、深呼吸をすると胸の奥に熱が満ちる。

それでも彼女たちは呼吸を乱さず、声を荒げず、ただ必要な所作だけを重ね続ける。


年長の助産婦が私を抱き上げた瞬間、その皺深い口元から、ほとんど吐息のような声が零れた。

「……この場に立ち会ったこと、私は一生忘れぬでしょう」

その響きには、畏怖、喜び、そして職人としての誇りが溶け合っている。

声は私に向けられたものでもあり、同時に彼女自身への刻印でもあった。

まるで、彼女はこの瞬間を生涯の中で最も鮮やかな印象として焼き付けると決めたようだった。


さらに描写を重ねると、この助産婦たちは単なる儀礼の従事者ではないことが分かる。

彼女たちは母方の一族と深く結びつき、代々皇族の誕生に立ち会ってきた家系であり、その技能はただの医術や助産術を超え、精霊との共鳴をも含んでいた。

彼女たちの周囲には常に微細な粒子のような魔力の波が漂い、動作ひとつひとつが部屋の魔力の流れを整えていく。

それはまるで、見えない織機で産室全体をひとつの布として織り上げているようだった。

母の腕に受け渡される直前、空気がひと呼吸ぶんだけ澄んだ。

年長の助産婦がわずかにあごを引き、若い助産婦が布の端をそっと整える。

彼女たちの目線の先――天蓋の影と燭台の光が交わる一点に、母の視線が吸い寄せられていた。

見開かれているわけではない。けれど、長く深く世界を受け入れようとするとき、人の瞳は自然と大きくなる。

母の瞳はまさにそうだった。ゆっくりと、しかし確実に、私の輪郭を焼き付ける準備をしている瞳だった。


頬に触れる前から、私は母の体温を知った。

それは世間で語られる抽象的な「ぬくもり」ではなく、もっと具体的な数値に近い何か――

安定した熱、迷いの少ない呼気、深く長い吐息の終わりにだけ現れるわずかな震え。

震えは恐れではなく、誓いの合図だ。

人は誓いの前にかならずふるえる。ふるえは弱さではない。

自分がいまから引き受けようとする重さを、あらかじめ身体に分配するための、必要な揺れだ。


抱き上げられる。

腕の曲線と胸の起伏が、そのまま私の形に沿って受け皿になる。

布の目が一瞬だけきしり、次の瞬間には沈黙の音に変わる。

沈黙の音――私はこの世界に来てから、その存在を何度も学んだ。

母の沈黙は、満たされた沈黙だった。

言葉を失ったから黙るのではなく、言葉で満たしがたい何かがすでに胸の高さまで来ていて、

あとは「抱く」という行為が最後の文末記号になるのを待っている、そんな沈黙だ。


母は息を吸い、吐いた。

吐くほうが長い。その長さに合わせて、私の拍も自然と伸びる。

私は三拍で集め、五拍でほどく。

ほどく拍の最後の薄い引き潮が、母の吐息の最後の細い温度とぴたりと重なる。

重なり合ったところで、世界がいくらか軽くなる。

軽さは逃避ではない。選べる余白だ。

私はその余白に、最初の記憶の針を一本、まっすぐ刺した。


母の匂いが旗印になる。

汗、乳、皮膚の奥の甘い根。

香りは混ざるが濁らない。濁らないのは、ここが「生き残るための場所」だからだ。

戦場でかすかな風向きが命綱になるように、産室では匂いの順序が心の羅針盤になる。

母の匂いは中心にあり、私の匂いはまだ輪郭だ。

中心に輪郭が寄り添い、輪郭が中心を学ぶ。

学ぶたびに、私の中の糸は一本ずつ太くなって、ほどけにくい網になっていく。


視線が落ちる。

母は私の額から鼻梁、口元へと、ひとつひとつ部位を確認するように目を滑らせた。

確かめる、という行為は、未来の不安に対する最小単位の抵抗だ。

いま目の前にあるものを「ある」と認めること。

それは、まだ起きていない出来事が胸に投げ込んでくる影法師を、そっと押し返す動作でもある。

母の押し返す手つきは静かだ。

静かなのに、強い。

強いのに、尖っていない。


精霊たちは母を測った。

セリオが軌道を一段高くして、天蓋と燭台の間に見えない幕を張る。

ミルネは私の頬を撫でたあと、母の人差し指の指腹にちょんと触れて、すぐに離れた。

リルとラルは足元で輪をほどき直し、母の膝の角度に合わせて光の通路の幅を調整する。

ヴェリは部屋の端に散った余剰の流れを盃に集め、カロは空気の「厚み」を母の呼吸のリズムに合わせて配り直した。

干渉ではない。迎合でもない。

和す、という技術だ。

和す、は合わせるのもっと手前にある。

相手の輪郭を狭めず、自分の輪郭も失わない、その手前の中間点。

母はその中間点に、最初から立てていた。


母の右手が、布の上から私の胸に乗った。

わずかな圧。

圧は問いかけで、問いかけはすぐに返答を求めない。

私は拍で返す。

三拍の最後に、胸の奥で細い鐘をひとつ鳴らす。

鐘は声にならない。けれど、振動は掌に伝わる。

母は小さく頷いた。

頷きは母の首筋の筋肉をやわらげ、そのやわらぎが私の頬に伝播して、

私は眠気のふちをいちどだけ踏み外した。

落ちるのではない。踏み外す。

踏み外しは、体が「いまここ」にいることの確かさだ。


助産婦が耳許で何かを告げる。

その言葉の意味は拾えないが、音の高さと抑揚から礼儀が分かる。

礼儀は形式ではない。呼吸を合わせるための足場だ。

母はそれに短く答え、私の額へ軽いキスをひとつ置いた。

口づけは儀式であり、呪文であり、手短な「契約」の印でもある。

契約はいつだって、長大な文字列でできている必要はない。

世界を動かす契約ほど、短い。

短くて、取り消しがきかない。


この瞬間、母は私の「未来の敵」を知らない。

邪神の体の一部が森の底で脈打ち、封印が祈りで保たれていることも、

多神教の女神の視野と、一神教の妹の選別の違いも、

ここではまだ、ひとつの物語に昇華されていない。

それでいい。

産室は、物語を始める前の余白だ。

余白のない物語は、読者を呼吸困難にさせる。

母は私に余白を与え、余白の上に、たった一行の本文を置いた。

――「ようこそ」


声音は震えていない。

けれど、胸の奥で、細い線が一本切り替わる音がした。

切り替わりは、誰にも見えないところで起こる。

その音は、母が自分の生の優先順位を組み替えた証拠だった。

順番が変わると、人は強くなる。

強くなった人は、やさしくもなる。

強さとやさしさを同時に増やす方法は、世界に多くない。

抱く、はその一つだ。


母のまつ毛が、光をひと筋受け止める。

反射した光は、私の頬に小さな暖を置く。

その暖が合図になり、眠気がもう一度やって来る。

私は抗わない。

いま抗がなくていい争いに、わざわざ兵を出す必要はない。

兵站は温存する。

前世で学んだ基礎が、産声直後の私の中で、静かにうなずいた。


母は私を見て、そして見過ぎない。

過剰な凝視は、未来の不安を呼び込む。

適度に視線を外すこともまた、愛の作法だ。

彼女は天蓋の縁、燭台の火、助産婦の手元に順に視線を配り、

最後にもう一度だけ私へ戻す。

戻る視線は、ただの往復運動ではない。

戻るたび、新しい「私」を確認している。

赤子は一瞬ごとに変わる。

変化を恐れず、むしろ楽しむ視線だけが、育つという行為を長く続けられる。


セリオが一度だけ、低い羽音で母へ挨拶をした。

それは承認であり、通行証の刻印でもあった。

ミルネは母の親指に頬を当て、すぐに私の額へ戻って、

「あなたの場所はここ」とでも言いたげに、光を置く。

リルとラルは尾で描いた輪を母の膝の角度に合わせて展開し直し、

ヴェリは盃の縁を指で撫でて、部屋の四隅から呼吸を集める。

カロは炎を連想させる紅を完全に引き、透明の熱だけを残した。

透明の熱は、見えないのに、安心の密度を底上げする。

見える安心は、しばしば外れてしまう。

見えない安心だけが、長持ちする。


母の唇が、私の名前を呼ぼうとして止まる。

まだ決まっていないのかもしれない。

あるいは、名を呼ぶ順序が皇帝が先にあるのかもしれない。

言葉は出ない。

けれど、呼ぼうとした形は確かに残る。

その形の影を、私は胸の中にしまった。

言葉の前に姿があり、姿の前に祈りがある。

祈りの前に沈黙があり、その沈黙を分け合うことで、私たちは家族になる。


助産婦が小さく合図をした。

乳を含ませるための姿勢へ、さりげなく導く合図だ。

母はゆっくりと上体を整え、背を支える枕の量を調整する。

布の皺が深く、浅く、また深くなる。

その振幅に、私の拍は自然と溶け込む。

乳の香りが、これまでのどの香りよりも近くなる。

私はまだ世界の半分も知らない。

けれど、この香りの位置関係だけは、初日から知ることが許されている。

この世界の最初の許可証は、甘さの形をしていた。


母の胸の上で、私は小さく姿勢を変えた。

精霊たちは邪魔をしない。

むしろ、わずかに背中を押し、道をならす。

セリオが空気の角をひとつ丸め、ミルネが布の目を撫で、

リルとラルが半拍遅れで光をずらし、ヴェリが盃を傾けて流れを送る。

カロは透明の熱で肌を柔らげる。

世界が私を支え、私が世界に体重を預ける。

その相互の預け合いの中で、私は初めて、

この世が「重さを受け止めてくれる場所」だと知った。


ふと、母が微笑んだ。

笑いは音を持たなかった。

けれど、笑いの「形」はあった。

頬の筋肉の動き、まぶたの角度、唇の緊張の解け方。

すべてが「いま」を肯定している形だった。

肯定は未来を保証しない。

けれど、未来に負けない。

私はその笑いを、旗として胸に立てた。

旗は風を受けるためにある。

風は、このあと来る。

私には分かっていた。

風がほんのわずかに揺れた。

揺れは、力ある者の弱さが外気に触れた一瞬の震えだ。

私はその震えの位置を覚える。

味方の強さだけでなく、弱さの座標も記録しておく。

それが、私の戦い方だ。




母の呼吸が、再び長くなる。

私は応じて、三拍で集め、五拍でほどく。

ほどくたび、産室は少しずつ日常に近づいていく。

日常は軽いが、軽薄ではない。

軽さは、選ぶための余白だ。

その余白に、私は最初の予定を一本書いた。

「眠る。生きる。甘さをつくる。」

風が、音のない拍手でそれを祝った。











宮廷魔術師は、産室の隅に立ちながら一歩も動かなかった。

両の手は、長年使い込まれた黒檀の杖を握り締め、その先端の宝珠は燭台の光と精霊の羽の反射で幾層にも色を変えていた。

彼の白髪は肩口で静かに揺れ、深い皺を刻んだ額は、まるで刻まれた文字が何かの呪文を構成しているかのように見える。

視線は、私と精霊たちの間を往復し、そのたびに瞳の奥の光が微かに変わった。

そこには二つの色が同居していた――学者として未知を渇望する陶酔と、王宮に仕える者として政治的意味を測る冷徹な計算。


彼は、その両方を隠そうとしなかった。

学者としての陶酔は、眼差しに熱を与え、計算はその熱を一定の温度に保っていた。

熱だけでは危うく、冷たさだけでは動かせない。

その二つの温度差が、彼をただの魔術師ではなく「宮廷魔術師」にしているのだろう。


やがて彼は低く呟いた。

「この魔力、この精霊の顕現……もしや“調律者”の再来か」

その声は、産室の喧噪の中では取るに足らないほど小さかった。

しかし、そこにいた全員は確かに耳でそれを捕まえた。

“調律者”――それは歴史に稀に現れる存在で、世界と精霊の均衡を保ち、国家の命運さえ変えてきた。

だが、その最期は例外なく悲劇だった。

宮廷魔術師はそれを知っている。だからこそ、その言葉は祝福ではなく、半ば警鐘のようでもあった。


私はその称号を、胸の片隅にそっと置いた。

名誉に見える鎖ほど、解くのは難しい。

それが今後、私を守る札になるのか、絞めつける縄になるのかは、まだ誰にも分からない。








私の周囲を舞う精霊たちは、もはや偶然居合わせた来訪者ではなかった。

彼らは私を「核」として認識し、ここに留まることを選んでいた。

精霊同士が視線を交わし、翼の動きや羽音で無言の合意を重ねていく。

そのやりとりは、言語に頼らずとも精妙な交渉の場を形作っていた。


銀翼の守護者セリオは、天蓋の縁を高い軌道で旋回し続け、外部からの視線や魔力の侵入を警戒する。

彼の銀色の翼の先端は、部屋の空気の流れを読むためにわずかに角度を変え、その度に光の屈折が違う色を見せる。


琥珀の好奇心ミルネは、布の隙間から私の小さな指を覗き込み、何度も触れようとしては、羽音を小さく震わせた。

その仕草は遊び心に満ちているが、実際には私の生命反応や体温の変化を測っているようだった。


双光の遊び子リルとラルは、母の膝元で小さな光輪を描き続けていた。

輪の形はただの遊戯ではなく、精霊文字の符号を含み、それは外界からの魔力干渉を弾く「簡易結界」として機能していた。


流れを司るヴェリは、部屋全体の魔力の分布を均し、余剰が暴発しないよう絶えず流れを調整していた。

その動きは風の精霊に似ているが、実際には水脈のように滑らかで、産室全体を包む「見えない膜」を形成していた。


紅を宿すカロは、精霊たちの熱量を和らげ、空気を一定の温度に保っていた。

特に母と私の周囲では温度変化を極端に抑え、体力の消耗を最小限にしていた。


この全てが、一つの「儀式」として同期していた。

彼らは精霊の世界でいう「人との誓約」を結び、その場で私との繋がりを確立していたのだ。

産室の空気が、ほんの一拍だけ硬くなった。

精霊の羽音が揃って間を空ける。その「空白」は、現実の幕間ではなく、私だけが踏み込める領域への扉だった。


足元の感覚がすっと薄れ、視界は色を失い、光と影の境界すら曖昧になる。

代わりに広がったのは、音のない深い湖の底。透明なのに底知れず、触れれば全てが沈んでいくような静謐。

その中心に、声があった。


『見事ね』

女神の声は、湖面を渡る風のように柔らかく、それでいて一つひとつの音節が氷の刃のような精度を持っている。

『あなたを見た彼らは、もう“ただの皇女”とは呼ばないでしょう』


(……やりすぎた?)

私の問いは、波紋にもならず水中に沈んでいく。


『いいえ』

女神の返答は、深いところから浮かび上がる泡のように確信を帯びていた。

『必要なだけの“衝撃”よ。この世界では力を隠すことも武器になるけれど、今は存在を刻みつけるべき時。あなたの存在を』


その声音が少し緩む。

『それと……妹のことだけど、あれは邪神じゃないわ』


(え?)

私の中の何かが小さく鳴った。驚きというより、長らく封じた疑問がゆっくりと蓋を開けられた感覚。


『立場が違うだけ。彼女は“人間だけ”を守ろうとしている。私は“世界全体”を守ろうとしている。その違いが、争いを生むの』


(……そして、嫉妬も?)

私の問いに、ほんの短い沈黙が落ちた。


『……そうね』

わずかに震えた声。

それは全てを見渡し全てを司るはずの存在が、ふと見せた人間的な脆さだった。


私はその揺れを心の奥深くに刻む。

戦場で真に価値を持つのは、味方の強さだけではない。

その強さを崩す可能性のある弱さを知り、その弱さを守る手を持つこと。

それこそが生き残るための本当の備えになると、直感で理解していた。


女神は続けた。

『あなたの道は、妹の道と必ず交差する。交わる瞬間は試練であり、同時に機会でもある。衝突を選べばどちらかが折れる。融合を選べば、世界の形そのものが変わる』


その声は水底で響く鐘のように、長く深く私の中で共鳴し続けた。

次話できればお盆休み中に出したい所存

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