プロローグ 最後の晩餐と神々の前座
私が死んだのは、火曜日の夜――いや、正確には日付が変わって水曜日の午前一時頃だった。
ただ、その日一日の出来事を振り返ると、あの瞬間はむしろ必然だったのかもしれない、と今では思う。
大学の講義は朝から夕方までみっちり詰まっていた。午前中は基礎医学の講義、午後は臨床実習、そして夕方からは研究室のミーティング。教授の前では、学生は兵士だ。ミスは即座に指摘され、時には攻撃のような質問が飛んでくる。私は軍オタなので、その状況を「敵陣での銃撃戦」と置き換えてしまう癖がある。もちろん実際には銃も爆弾も飛んでこないが、精神的な圧迫感は似たようなものだ。
午後八時を過ぎ、ようやくミーティングが終わった。だが戦場からの撤退はまだだ。研究室の片付けと書類整理という「後方支援任務」が待っている。実験台をアルコールで拭き、器具を所定の場所に戻し、書類を時系列順に並べ直す。誰が見ても地味な作業だが、油断すれば翌日の作業に支障をきたす。軍で言うなら、整備不良が原因で翌日の作戦が失敗するようなものだ。
ようやく大学を出た時刻は夜の十時を回っていた。キャンパスから最寄り駅までの道のりは、夜風が冷たく、吐く息が白い。商店街はほとんどの店が閉まり、金属製のシャッターが並ぶ中、等間隔に立つ街灯がオレンジ色の光を落としている。その中でひときわ明るいのが、駅前のコンビニだった。ガラス越しに見える店内の光は、まるで灯台のように私を誘っていた。
自動ドアが開くと、暖房の効いた空気と独特の匂い――コーヒー、揚げ物、コピー機のインクの匂いが混ざったコンビニ特有の香りが鼻をくすぐる。私は真っ直ぐインスタント麺の棚に向かった。そこにあったのは、真っ赤なパッケージの「激辛海鮮カップラーメン」。辛さを誇示する赤い背景に、唐辛子と湯気の立つ丼の写真が描かれている。私は迷わずそれを手に取った。今日という日の締めくくりにふさわしい一品だ。
レジでペットボトルの水も購入し、外に出る。帰り道、カップ麺の存在がずっと頭の中を占領していた。今日の戦場での疲労を癒す、最後のご褒美。兵士にとっての勝利の一杯。それが、私にとってのカップラーメンだった。
アパートのドアを開けると、部屋は冷え切っていた。暖房を入れ、上着を脱ぐ。狭いワンルームだが、壁際の本棚には軍事関係の書籍や医学書が並び、机の上にはノートPCと散乱したプリントが積まれている。ベッドの上には昨日脱ぎ捨てたパーカーがそのままだ。机の端に置かれたカップ麺を見た瞬間、私は小さく笑った。まるで「おかえり」と出迎えてくれているようだ。
ケトルに水を注ぎ、スイッチを入れる。シュンシュンと湯が沸く音が部屋に響く。その間、スマホでニュースを開く。トップ記事は海外での軍事衝突、次いで国内の政治ニュース、そして軍事技術関連のコラム。私は自然とそのコラムに目を通し、新型兵器のスペックや配備計画を頭に刻み込む。
湯が沸く。カップの蓋を開け、麺の上に粉末スープをあける。真っ赤な粉末が白い麺の上に積もる。そこに熱湯を注ぐと、唐辛子と魚介の匂いがふわりと立ち上った。蓋を閉じ、三分間の待機。まるで爆弾処理班がタイマーを見つめるような緊張感――いや、これは単なる空腹のせいだ。
三分後、蓋を開けると湯気が顔を包む。箸で麺をほぐし、一口すする。熱さと辛さが舌を刺激し、額から汗がにじむ。魚介の旨味が後から追いかけ、脳が一気に覚醒する。私は小さく呟いた。
――やっぱり、これだ。
一口、二口と麺をすすり、熱さと辛さに目を細める。
湯気がメガネのレンズを曇らせ、視界がぼやける。私は片手でレンズを持ち上げ、曇りを逃がしながらまた麺を口に運ぶ。
唐辛子の辛味が舌の上で炸裂し、まるで小型の焼夷弾が口腔内で爆発しているようだ。それでも箸は止まらない。空腹と疲労が、刺激物への耐性を一時的に高めている。
――やっぱり深夜のジャンクは最高だ。
心の中でそう呟いた瞬間、胃の奥で何かがきゅっと縮むような感覚が走った。
最初は「食べ過ぎによる一時的な胃痙攣かな」と思った。
だが、その違和感はわずか十秒で変化する。胃から胸へ、そして左肩の方へと痛みが這い上がり、次第に締め付けるような圧迫感に変わっていく。
「……ん?」
私は箸を置き、深呼吸を試みる。だが、吸い込む息は浅く、肺の奥まで届かない。胸骨の裏側で、心臓が不規則に跳ねているのがはっきりわかる。
背中を冷や汗がつっと流れ落ち、両手の指先がじんわりと痺れはじめた。
「心筋梗塞……? でも年齢的に可能性は低い……いや、家族歴がゼロってわけでも……」
医師の卵としての知識が自動的に働き、症状を照合していく。しかし、次の瞬間――
世界の色が一段階、暗くなった。
視界がじわじわとトンネル状に狭まり、中心だけが辛うじて見える。外側はぼんやりとした暗闇に飲み込まれていく。
音も変だ。テレビの音量を急に絞ったときのように、周囲の環境音が遠くなる。箸を机に置く音すら、自分の耳には水の中で響くような鈍い音にしか聞こえない。
椅子から立ち上がろうとした瞬間、膝ががくんと折れた。机の脚に膝をぶつけたはずだが、その痛みすら鈍い。代わりに、胸の圧迫感が増し、脈が暴れる。
――あ、これ、帰れないやつだ。
妙に冷静な自己分析が、頭の片隅で響く。
体が横に倒れ、床に肩と頬がぶつかる。視界の端で、まだ湯気を立てているカップラーメンが見えた。
熱々のまま残された麺とスープ。その匂いだけが、現実と私をかろうじて繋いでいる。
意識が沈み込む直前、私は奇妙な感情に包まれた。
――なんか、私らしい最期だな。
軍オタで医学部生、そしてジャンクフード好き。その全部を象徴するような死に方だ。
暗闇が完全に視界を覆い、音も匂いも消えた。
代わりに、何か別の世界の扉が、音もなく開き始めているのを感じた。
暗闇。
それはただの暗闇ではなかった。
光がない、色がない、音がない。温度も匂いもなく、空気すら存在しないはずなのに、なぜか呼吸はできている――いや、そもそも「呼吸」という行為をしているのかも怪しい。
上下の感覚もなければ、重力もない。
右を向いているのか、逆さまなのかすら分からない。
ただ、意識だけが水の中に沈んでいるように、ゆらゆらと漂っていた。
時間の感覚がすぐに狂い始める。
1秒が1時間にも感じられ、1時間が一瞬で過ぎるようにも思える。
私の脳は、周囲の情報を受け取れないことで、勝手に幻覚を作り始めた。
光の残像のようなものがちらついたかと思えば、次の瞬間には消え、耳鳴りのような音が遠くでこだまする――しかし、それが自分の脈なのか、この空間の「音」なのかすら判断できない。
(……死んだ、んだよね)
ぼんやりと思考が浮かぶ。
あの胸の痛みと意識の断絶、そして目を開けたらこの暗闇。
医学的に考えれば、これは心停止後の脳内活動、もしくは低酸素状態による幻覚かもしれない――でも、それにしてはあまりにも鮮明で、そして妙に「長い」。
ふと、自分の体を意識しようとする。
……ない。
腕を動かそうとしても、肩を回そうとしても、何もない。まるで肉体を置き忘れ、意識だけが漂っているようだった。
「これは、魂ってやつなのかな……」
声を出したつもりなのに、音は返ってこない。だが、確かに自分の言葉は「存在した」と分かる。不思議な感覚だった。
このままでは、いずれ自分の存在すら薄れて消えてしまう――そう直感した瞬間だった。
闇の奥に、微かな変化があった。
ほんの小さな、星屑のような光が、遠くに瞬いている。
最初は気のせいだと思った。だが、その光はゆっくりとこちらへ近づいてくる。
近づくにつれて、別の感覚も戻ってきた。
――匂いだ。
香ばしい匂い。
焼き海苔の香り、乾燥したエビの香り……いや、この組み合わせは……。
(カップラーメン……?)
思わず自分でも呆れる。死後の世界で最初に嗅ぐ匂いが、それなのか。
しかし、その香りは確かに現世で私が最後に口にしたものと同じで、何とも言えない安心感を与えてくる。
光は次第に形を持ち始めた。
柔らかな白い光が人の輪郭を形作り、その中心からさらに温かな光が漏れ出している。
やがて、それは完全に一人の男の姿へと変わった。
光の中から現れたのは、一人の男だった。
年齢は三十代前半くらいだろうか。白いシャツにジーンズという、どこにでもいそうな格好。しかし、瞳の奥に広がるのは、夜空を閉じ込めたような深い星々の輝きだった。
その輝きが、私の意識の奥に直接触れてくる。見られている、というより、魂の芯まで覗かれている感覚だ。
男はニヤリと笑った。
「やっと来たか。待ってたぞ」
その声は、深夜のラジオのパーソナリティのように落ち着いていて、しかしどこか軽薄さも混ざっている。
私は反射的に問いかけた。
「……誰?」
「俺? 地球の神だ」
あまりにさらっと名乗ったので、一瞬意味が理解できなかった。
「……は?」
「ほら、君が生まれて死ぬまで暮らしてたあの星、地球。あれを管理してる神様ってやつ」
私は半目になった。
「そんなの、いたの?」
「いるよ。だって誰かが管理してなきゃ、惑星ってすぐぐちゃぐちゃになるからな」
男――いや、神は肩をすくめて笑った。まるで「何を今さら」という顔だ。
彼の右手がひらりと動くと、私たちの周囲の闇が波紋のように揺れ、突然、小さなキッチンのような空間が現れた。流し台、コンロ、そして……テーブルの上には新品の激辛海鮮カップラーメンが鎮座している。
「な、なにこれ……」
「頼む、一杯作ってくれないか。魂状態でも物理干渉できるように設定してやったから」
私は呆気に取られた。
死後の世界で神に会ったと思ったら、開口一番カップラーメンを作れと要求されるとは。
「……もしかして、私を呼んだのってラーメン食べたいからじゃないでしょうね?」
「半分はそれ」
即答。悪びれる様子はまったくない。
私はため息をつきながら、カップの蓋を剥がし、粉末スープを入れる。赤い粉末がふわりと舞い、香りが鼻をくすぐる。
ケトルの横には、既に湯が沸騰していた。神が指を鳴らすだけでお湯が出来るのだ。
なら直接カップラーメンを作れよとは思う。
湯を注ぎ、蓋を閉じる。三分のタイマーがカウントを始めた。
「しかし、死後の世界で調理する羽目になるとはな……」
「お前、軍オタだろ? 戦場でも飯は大事だって知ってるはずだ」
「……まあ、否定はしない」
神は満足げに頷いた。
三分後、蓋を開けると、スープの赤が輝き、湯気が立ち上る。神は箸を手に取り、一口すする。
「……うん、これだ」
まるで戦争を終えた兵士のような安堵の顔を浮かべる。
「なあ、次は味噌バターコーンも作ってくれ」
「……神様のくせに俗っぽすぎる」
そんなやり取りの後、神は急に表情を真剣にした。
「さて、本題だ。実はな、俺の姉がいる。別の世界の管理者だ」
私は箸を止める。
「姉?」
「ああ。お前がこれから行く世界は、姉が管轄してる。面白い奴を探してたらしいんだが……お前でいいかなと思ってる。お前、ちょうど死んだしな」
「……なんか悪用されそうな気しかしないんだけど」
「まあまあ。向こうでも役立つように、俺からは贈り物を一つやる、カップラーメンの礼だ」
神は私をまっすぐ見た。
「2025年までの地球の全技術知識、頭に入れてやる。それと――これは姉への贈り物だが、あっちで『シュークリーム』を作ってやってほしい」
「……シュークリーム?」
「そう。姉さん、神々の噂で聞いてからずっと気になってるらしい」
私はしばらく絶句した。
死因:カップラーメン。
死後:神と取引。
目的:異世界でシュークリーム作り。
どうやら、私の来世は波乱しかなさそうだ――。
カップラーメンを食べ終え、湯気がすっかり消えたころ、地球の神は真剣な表情を浮かべて私を見た。
「さて……ここからが本題だ」
先ほどまでの軽薄な笑みは影を潜め、声には重みが宿っている。
「お前は、これから姉さんの世界に行く。あそこは俺の地球とは違う。魔法があって、剣があって、空は二つの月が照らす。そしてな――危険は地球よりはるかに大きい」
私は無意識に息を飲んだ。
「……なんで私なの?」
「理由は三つ。ひとつは、姉さんが面白そうな奴を求めてたこと。ふたつめは、お前が軍オタかつ医学生っていう珍しい組み合わせで、あっちの世界で戦場にも医療にも対応できるってこと。そして最後……」
神はゆっくりと笑った。
「お前、死ぬ間際までカップラーメンに夢中だっただろ?」
「……それ、関係ある?」
「面白かったんだよ。そして俺は思った、“その集中力と執念は何かに使える”ってな」
呆れ半分、興味半分で神の言葉を聞く。
すると、足元から柔らかな光が広がり始めた。
白でも金でもなく、淡い水色。光は波紋のように広がり、私と神を包み込む。
同時に、空気が変わった――いや、空気というより「世界の圧」が変わった感覚だ。
「来たな……姉さんだ」
神が視線を上げる。
私もつられて光の上方を見上げる。
そこにあったのは、巨大な門。
彫刻のように繊細な文様が刻まれ、中央には円形のエンブレム――翼を広げた女神が描かれている。
門の向こうからは、草花の香りと小川のせせらぎの音が漂ってくる。足元に流れていた無色透明の光は、次第に水のような質感を帯び、ゆらゆらと揺れた。
「この先に姉さんがいる。言っとくが、あの人は俺と違って真面目だぞ」
「真面目って、それ褒めてる?」
「警告だ」
軽口の応酬を最後に、神は私の背を軽く押した。
門が音もなく開き、まばゆい光が私を包み込む。
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。心臓の鼓動が戻ってきたような、そんな感覚。
光の中で、ふと神の声が耳元に届いた。
「忘れんなよ、知識はもう入れてある。2025年までの人類の技術、ぜんぶだ。それと……シュークリーム、ちゃんと作れよ」
呆れる間もなく、私は光の渦へと吸い込まれた。
やがて、全ての感覚が再び溶け、何もない「始まり」に似た空間へ――そして、柔らかな鼓動音が遠くから響いてきた。
初めまして、続くかはわからないですけどとりあえず第一話です。
できる限り失踪はしないように最後まで書ききりたいとは思います。
誤字脱字等あればご指摘お願いします。