カハウソ
〈螢來ひ光に生きる眷屬よ 涙次〉
【ⅰ】
運命に翻弄された男、安条展典は、琵琶湖の畔、滋賀県の實家に帰つてゐた。
ここでなにもかもやり直さう。八重樫火鳥が* 寢盗られた事、または** 彼女が死んだ痛手を忘れて。*** だうせ一度は身を滅ぼしたのだ。
安条はボートに乘り琵琶湖に出てみた。すると、何やら彼は、躰の變調を覺えた。手を見ると、毛むくじやらになつてゐる。さう、彼は失意のあまり、一匹の巨大なカハウソに變化してゐたのだ。 こゝで云ふカハウソとは、動物としてのそれではなく、妖怪としてのカハウソ(河童の仲間)の事である。
誰もゐない(父も母も既にない。たゞ、實家だけがハウスキーパーの手に依り、守られてゐたのだ)家で、鏡を見る。驚愕した。自分は妖怪になつてしまつたのだ。
日本全國、失望、或ひは悲しみの極みに、妖怪變化に身を變へる者の、傳説が傳はつてゐる。さう珍しい事ではない。然し、椿事と云へば椿事。彼は、琵琶湖の水が戀しかつた。
しかし、湖はカハウソが生きるには、余りに汚れてゐた。水質汚濁のせゐで、彼は帰る場所を失つてしまつたのだ。
* 当該シリーズ第134話參照。
** 当該シリーズ第162話參照。
*** 当該シリーズ第147話參照。
【ⅱ】
彼はふと、あのお坊様(白藏主、年経た狐の化け物である)の「法話」を聴きたく思つた。あのお坊様の有難い「法話」を聴いてゐると、法悦境に浸れると云ふか、云ふに云はれぬ快感を覺える。要するに、彼は妖怪に(今は自分がその仲間であるけれど)誑かされてゐたのだ。
白藏主は、カンテラに斬られたのだが、蘇つてゐた(「全く、日本古來の妖怪は、斬つても斬つてもまるで効かないから始末が惡いんだよな。成佛しない事には」とは、カンテラの弁)。そして、何処で安条の心の叫びを聞いたか、こゝ近江の國に迄までやつて來てゐた。「ご免」、その聲は!「お坊様、生きてゐらつしやつたのですね!」白藏主は、狐の魔物たちをぞろぞろ率き連れてゐた。
「法話」は、人間の醜い世界の事、を主に語つてをり、安条のカハウソは、すつかり人間不信に陥つた。考へてみれば、自分が琵琶湖に帰れないのも、元々人間たちが水を汚したのが、いけないのだ。
【ⅲ】
その人間界は、安条には(カハウソには、と云つた方が良からう)カンテラ一味、及びその係累(憎つくき永田め!)に代表されてゐるやうに思へた。
そこで、カハウソと、白藏主の狐軍團の、東京侵攻が始まつたのだ。闇夜に乘じて、彼らは旅立つた。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈貴方今昔むかしと云つたわねわたしは今を語りたいのよ 平手みき〉
【ⅳ】
カンテラ事務所には、平凡の忘れ形見、白虎が居坐つてゐた。と、云つても、彼の獰猛さはなりを潜め、今では君繪の顔を舐めて、きやつきやつとはしやぐ君繪の良き遊び相手。じろさんが首輪とリードを付け、タロウと共に散歩に連れて行く- 地元民は皆恐る恐る眺めてゐたが、じろさんは全く意に介さなかつた。
カハウソと、狐軍團、東京到着- その報せを聞いたのは、やはりテオが一等最初だつた。「兄貴、白藏主、蘇つたみたいです」-「奴一人か?」-「だうやら狐の軍勢を率いてゐるみたいですよ」-「白虎を試しに使つてみやう。折角平が置いて行つてくれたのだからな」
【ⅴ】
と、云ふ譯で、白虎、カンテラ一味としての初陣である。「虎の威を借る狐」と云ふ言葉もある通り、狐は極端に虎を怖がる。白藏主以外は皆散りぢりに逃げてしまつた。白藏主、「これでは手勢を連れてきた意味がないではないか」と憤慨したが、それも後の祭りである。
「しええええええいつ!!」彼は再びカンテラに斬られた。-尤も、また直ぐに蘇生するであらうが。
さて、カハウソ。カンテラの顔を見、悦美の顔を見ると、人間界への懐かしさが蘇るのを押さへきれなかつた。どつと疲れが出た。寢食を忘れ、滋賀から東京まで歩いて來たのだ。「ぼ、僕は-」さう、彼はその瞬間、安条展典に戻つてゐた...
【ⅵ】
安条は、人間の愚行を全て許した譯ではなかつた。然し、「これ、僕にはもう要らない物ですから」と、彼の(自ら火を放つた)スタジオ址の権利書を、カンテラに手渡した。これで、カンテラが人體に危険な「修法」を使つたりする事が出來る方丈の敷地を、都内の好立地に、カンテラ一味は手にしたのである。
「あんたは、だうするんだい?」カンテラが訊く。「四国の四万十川には、まだ清流が殘つてゐる、と云ひます。そこでカハウソとして、暮らしますよ」
【ⅶ】
今回のキイパースンは白虎。彼は、カンテラ一味の仲間として、温かく迎へ入れられた。と、云ふ譯で。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈山頭火汗には酒のにほひ哉 涙次〉
お仕舞ひ。安条の流離ひは續く。全て水に流す事の出來ぬ、人間としての業が、まだ彼には殘つてゐた。