第九十九話 絶対に取り戻す。
あれから、私とアレスは手当を受けた。
私は魔法で縫われた額の傷を消毒され、アレスは身体中に走る切り傷の処置を受けていた。
縫わなければならない傷もあったが、「抜糸が面倒だ」と言って結局お父様の真似をして、自分で魔法で縫い上げてしまった。
お父様には「十分後に本部に入れ」と言われていたけれど、気持ちを整える時間が必要だった。
だからエミリオ様に言伝を頼み、私たちが本部内の会議室に着いたのは、結局三十分後のことだった。
案内されたその部屋は、作戦会議に使われるだけあって余計なものがほとんど置かれていなかった。
大きな机を中心に、周囲は広く空けられている。端に簡素な椅子が一つ置かれているだけで、他には何もない。
石壁に取り付けられた窓からは柔らかい光が差し込み、その光を受けるようにお父様が立っていた。
「……お待たせいたしました」
私が一歩進み、声をかけると、お父様は窓の外を見たまま短く返事をした。
「……あぁ」
視線は合わせず、声に感情もない。
冷たい一言だけが、空気を切り裂くように響いた。
「それで、なんの話をしに来た?」
背を向けたまま放たれる言葉。
突き放されているのはわかる。けれど、今は退くつもりはなかった。
「……お父様と、関係修復を試みたくて参りました」
言った瞬間、部屋の空気が少し重くなった気がした。
ほんのわずかな沈黙のあと、お父様は鼻で笑うように声を漏らした。
「随分真正面から大胆にきたな」
それは皮肉にも聞こえたし、本気で呆れているようにも感じた。
――わかっている。
関係修復なんて、時間をかけて少しずつ積み上げていくものだ。
「したい」なんて正面から口に出すことは、子供じみていて何の意味も持たない。
だって私は、六歳に戻ってから、それを実際にやってきたのだから。
ゆっくりと、信頼を積み上げて、心を近づけて……それが一番の道だと知っている。
それなのに――今回は真正面からぶつかる方がいい気がしていた。
「お父様との関係がきっかけなく崩れて……私は仕方がないのだと受け入れていました。逃げていたんです。だけど……」
私の声はわずかに震えていた。けれど、視線だけは逸らさなかった。
「だけど、私たちには……お互いにお互いが必要だと思うんです」
窓辺に立つお父様は、わずかに肩を揺らした。だが振り返ることはなく、冷ややかに鼻で笑う。
「曖昧な理由で靡くか。それとも……なんだ? セレーナにでも会わせてくれると言うのか?」
母の名を口にしたその声音には、嘲りと同時に、ほんの一瞬だけ痛みに似たものが混じっていた。
――死んだ人間はどんな魔法でも蘇らない。もし叶うとすれば、それは禁忌に触れる術だけ。
私みたいに、時を越えるような奇跡でもない限りは。
だけど――会える可能性が完全にゼロではない。ヴァルがいるから。
「……はい。会わせます」
静かに告げた私の言葉に、お父様は眉を吊り上げた。
「さっきの怪我で頭がおかしくなったか」
呆れとも怒りともつかぬ声が投げられる。
無理もない。そんな事例など記録に残っていないのだから。
「いいえ。必ず……お父様をお母様と会わせてみせます」
「……あまりふざけたことばかり抜かすな」
ギロリ、と鋭い眼差しが突き刺さる。刃のように冷たく、容赦のない睨み。
横に控えるアレスが口を開きかけた。けれど私は、ここに来る前に頼んでいた――「なにも言わないで、ただ聞いていてほしい」と。
その約束通り、彼は拳を握りしめ、必死に言葉を飲み込んでくれている。
「ふざけてなどおりません。必ずお会いさせます」
私はまっすぐに答えた。胸の奥が焼けるように熱い。
「ただ、その前に……条件をつけさせてください」
「こんな虚言に、条件だと?」
冷笑するお父様に、私は真剣に頷いた。
「はい。――聖女様とは、距離をお取りください」
一瞬。お父様の瞳が大きく見開かれた。
それは驚きと……そして、わずかながら警戒の色。まるで希望に手を伸ばしかけた直後、毒蛇が絡みついていることに気づいたかのように。
「……お父様はおかしいと思いませんか?」
私は必死に言葉を紡ぐ。
「六歳の頃からずっと、皇都で一緒に暮らして……お父様は私をとても愛してくださいました。結婚や彼との関係を認めてくださらず、私たちを引き剥がすほどに」
「それがどうして、聖女様と出会われてすぐに……私が疎ましく、憎く、嫌いになられたのですか? しかも――母が私を産んで亡くなったことを理由に? お父様はその死を……もう乗り越えていたではありませんか。私のせいではないと……そう言ってくださったはずです」
必死に訴える私を、お父様の眼差しが射抜く。だが私は怯まず、言葉を続けた。
「……あまりにも、不自然すぎます。だからどうか――聖女リナ様とは距離を置いてください」
部屋に沈黙が落ちる。
私はお父様の瞳を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥に、ほんのわずかでも迷いが映ることを願って――。
「リナのせいだって? まるで俺が魅了魔法にかかっているような言い草だな」
お父様の低い声が、静まり返った会議室に落ちた。
「そう考えています……」
私は怯まず答える。
「……過剰に魔力を持つ俺に? 魔法がかけられるとでも?」
お父様の口調は嘲りを含んでいたが、その瞳の奥に一瞬、僅かな揺らぎを見た気がした。
「はい……では、なぜいきなり私を疎むようになられたのですか?」
その問いに――お父様の動きが、ピタリと止まった。
背を向けたままの肩がわずかに硬直する。
「リナが……俺に素直になっていいと囁いた。……セレーナの死がお前のせいだと、思い出した……憎くて、見ているだけで胸を抉られるような存在だと」
「では――」私は一歩踏み出す。
「なぜ、あの夜……私の部屋に来て、私に付けられた魔道具の解除を試みたのですか? あの時……お父様は必死に、私を助けようとしていた」
「それは……」
言葉に詰まるお父様。
滅多に感情を表に出さないはずのその顔に、明らかな動揺が走った。
自分の心が自分のものではないように――思考をどこかへ引っ張られ、現実さえ曖昧にされているかのように。
私は静かに問いかける。
「お父様は……本当に、私のことがお嫌いですか?」
「……あぁ。お前が居なければ、セレーナは生きていたのに」
胸がズキリと痛んだ。
何度言われても慣れることのない言葉。心臓を握り潰されるように苦しい。
「……では、私をどうしたいのですか? 殺したいと……そう思われますか?」
「───おい、ステラ!」
堪えきれず、アレスが声を上げる。
私は静かに手を差し出して彼を制した。
そして――お父様は低く、重く答える。
「……家族を殺すのが罪にならないのなら……とっくに殺していた」
空気が凍り付く。
それでも私は、震える唇を強く噛みしめて言った。
「そうであれば……私が十六歳になった次の冬の初月までに。もしその日までに、お父様をお母様に会わせられなければ――私を殺して構いません。事故に見せかけて……」
「ステラ! ふざけんなよ!! そんな約束───」
アレスが声を荒げた瞬間、お父様の魔法が放たれ、彼の口を塞いだ。
「……良いだろう」
氷のように冷たい声。
「お前が十六歳になった冬の初月までに、俺にセレーナを会わせられなければ――その時は俺がこの手で殺す。その代わり……それまではリナと距離を置こう」
「誓約魔法を結んでも構いません。その期間を過ぎれば……私の心臓が潰れるようにすれば、病死に見せられます」
(そうすれば、もう一度お父様に殺されずに済む……)
だが、その願いは一蹴された。
「いや……いい。妻の仇だ。自分の手でやろう」
「……わかりました」
そう返した途端、視界がぐらりと揺れる。
額の傷から流れた血――失った量は思ったより多かったのだろう。体の力が抜け、床へ崩れ落ちそうになった。
だが――ふわりと浮遊感に包まれる。
アレスの魔法だと思った。けれど違った。
彼よりも早く魔力を放ったのは――お父様だった。
「……っ」
浮遊魔法をかけた本人が、一番驚いた顔をしていた。
そのまま私を小さな椅子に下ろす。
「……話は終わったな」
背を向け、扉へと歩き出す。
その広い背中が遠ざかっていくのを見て――私は堪え切れず、声を張り上げた。
「お父様……!! 私、あなたを信じています! きっと……また必ず、一緒に幸せに暮らせると!!」
最後に、震える声で言葉を絞り出す。
「大好きです……愛しています……!」
お父様は振り返らない。
まるで何も聞こえていないかのように、アレスへの魔法を解いて、そのまま会議室を出ていった。
けれど私は信じている。
今は届かなくても――心の奥底に残る本物のお父様の心が、必ず聞いてくれていることを。
(もう……あの女になんて、私たち家族を壊させない。絶対に取り戻す。私の大好きなお父様を……)




