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第九十八話 騎士団訓練場③

アレスは全身から魔力を迸らせ、握る魔剣にさらに重圧を込めていた。

振り下ろす一撃ごとに、剣先から奔る衝撃波が大地を裂き、砂埃と風が巻き起こる。

それはただの剣戟ではない。魔剣が放つ魔力の奔流は、周囲にいる騎士たちでさえ肌を切り裂かれるような錯覚に襲われるほどの威圧を放っていた。


だが。


「……甘い」


ディルは一歩も動かない。

大地に根を下ろした巨木のように、微動だにせず。

その手に握られた剣は片手のみ。まるで遊戯の延長のような軽さで、アレスの渾身の斬撃を受け止めていた。


金属と金属が噛み合い、火花が散る。

その瞬間、地面に深い亀裂が走り、衝撃に耐えきれない石畳が破裂するように砕け散った。


「……っ、くそッ!!!」


アレスは歯を食いしばり、さらに力を込める。

両腕の筋肉が軋み、足元に魔力を流し込んで踏みしめる。

必死に抗うその顔は赤く染まり、剣を押し込もうとする瞳には強い決意が宿っていた。


しかし。


「まだまだ弱いな」


ディルは口角を僅かに吊り上げ、挑発ともつかぬ言葉を吐き捨てた。

その声音には余裕が滲み出ていた。


次の瞬間、彼の剣がわずかに動いた。

ただ、それだけ。


──轟音。


振り下ろされた斬撃は、まるで雷鳴の直撃のようだった。

アレスが剣で受け止めたにもかかわらず、その衝撃だけで訓練場の地面は大きく抉れ、彼の足は膝下まで地中に沈んでいく。

砂煙が舞い上がり、観戦していた騎士たちが思わず後ずさる。


「ぐっ……!!!」

アレスの喉から苦鳴が漏れる。

腕は痺れ、握る剣は折れそうなほどの重圧を受け止めていた。


「アレス……!!!」


ステラは祈るように胸元で手を組み、必死に彼の名前を叫んでいた。

その瞳は揺れ、蒼白な頬は汗に濡れている。

彼女にはわかっている。勝敗は始める前から決まっているのだと。


──父は強すぎる。


幼い頃から間近で見てきた、絶対的な存在。

誰もが背を追うことすらできず、ただ畏怖するしかない圧倒的な力。

それが、ステラの父──ディル・アルジェラン。


だからこそ、彼女の願いはただ一つだった。


(どうか……アレスが、大きな怪我をしませんように……!)


彼女の震える祈りを余所に、戦場の中心では人の域を超えた剣戟が交わされ続けていた。

アレスの魔剣は、魔力を纏わせることで並の鋼よりも強度を誇るはずだった。

だが、その願いはディルの一撃によって、あまりにも容易く崩れ去った。


金属が裂ける甲高い音と共に、アレスの剣身は砕け、破片が宙を舞う。


「え……」


ステラは声を漏らす。

しかし、次の瞬間には安堵が胸を撫でていた。

――剣が折れた以上、戦闘不能。ここで試合は終わる。


「……っ!!」


折れた瞬間、アレスは咄嗟に浮遊魔法で大きく後ろへと飛び退いた。

地面を擦る風圧に砂塵が巻き上がり、その姿は必死さそのものだった。


「……クソっ!!」


勝敗がついたと悟り、アレスの肩から力が抜ける。

悔しさに顔を歪めたが、それでもどこか気を許してしまった。


だが――終わらなかった。


「っ……は!?」


ディルの影が瞬きの間に消え、次の瞬間にはアレスの至近に迫っていた。

斜めに振り抜かれた剣閃が頬を掠め、鮮やかな血の線を刻む。

確かに本気ではない。だが、その軌跡には殺意がはっきりと滲んでいた。


ほんのわずかに反応が遅れていれば、アレスの命はそこで潰えていた。


「ディル様!!! 終わりです……!!!」


観戦していたエミリオが必死に叫ぶ。

だが、ディルは動きを止めない。

その背に漂う気配は、もはや「模擬戦」を逸脱していた。


魔剣を鞘に収める様子など微塵もなく、ゆっくりとアレスへ歩を進める。

その姿は、狩りを楽しむ獣のように静かで冷たい。


「アルジェラン団長!!!! これ以上は過剰攻撃です!!」


再度、制止の声が飛ぶ。

だが、場にいる誰ひとりとして動けなかった。


理由はただ一つ――死が見えていたから。

訓練場に立ち会う騎士団員は、いかに勇敢でも馬鹿ではない。

戦場で命を落とせば国から多大な援助が下り、家族は守られる。

だが、訓練で死ねばすべては自己責任。遺族は路頭に迷うだけだ。


だから、誰もアレスを助けようとはしなかった。


(誰も助けてくれない……)


ステラの胸を締めつけるその思いの間にも、訓練場の中央では異常な光景が続いていた。

武器を持たない者へも容赦なく斬りかかるディル。

対するアレスは、必死で魔法と脚力を駆使して攻撃を躱すが、その速度は常人の目では追えないほどだった。


だが、明らかに不自然だった。

父の碧眼には光が宿らず、ただ獲物を嬲るように細かい傷を刻みつけているだけ。

そこには「訓練」も「模擬戦」も存在せず、ただ純粋な暴力と殺意だけがあった。


(お父様……やっぱりおかしい……!)


ステラは強く唇を噛んだ。

だが今は父の狂気を糾弾するよりも、アレスをどうにかして助けなければならなかった。


アレスの肩は大きく上下し、荒い息が苦しげに漏れている。

反対にディルは息一つ乱さず、歩みすら崩さない。


「……はぁっ……はっ……!」

「……逃げ回るだけか」


ディルの冷たい声が場を切り裂く。

次の瞬間、アレスの足元が崩れ、彼は転げるように座り込んだ。


(……っ!)


瞬発的な魔法を連続して使い続けた代償。

全身から汗が噴き出し、動きはもはや限界だった。


「ディル様!!!! アルジェラン団長!!!! それ以上は……!」


必死の制止の声が響く。だが、ディルは応じない。

冷たい瞳のまま、剣を振り上げた。


「アレス!! 転移して!! 逃げて!!」


ステラの叫びが訓練場に木霊する。

しかし、アレスは動けない。

まるで目に見えぬ鎖に縛られたかのように、身体が硬直していた。


(封じられてる……! お父様の魔法で……!)


気づいた瞬間、ステラの足は勝手に動いていた。

恐怖も理性も、すべてを置き去りにして。


ディルもそれを見ていた。だが止めなかった。

むしろ、娘が自ら斬り込んでくるのを「利用する」ように、刃をそのまま振り下ろした。


「だめ……っ!!!」


叫びと同時に、ステラは滑り込むようにアレスの前に飛び出した。

その瞬間――額に衝撃。鋭い痛み。

赤い線が走り、真っ赤な血が滴り落ちた。


「お父様……これは騎士として失格とも取れる行為ではありませんか? 相手は武器を持っていないのです。部下も制止の声を上げているのに……」


声は震えていなかった。

血が頬を伝い落ちる中で、ステラはまっすぐに父を見据えた。


その言葉に、ディルは目を伏せ、突然頭を抱えた。

まるで脳を潰されるような激しい痛みに呻き声を漏らす。


「……ゔっ……!」

「お父様?」


ステラの瞳は、血で霞んでいながらも心配の色を浮かべていた。

女の顔の傷は一生消えぬ烙印となる。

それでも彼女は自分のことなど気にもせず、痛みに苦しむ父を案じていた。


その視線が、ディルの心をかき乱した。


本来なら、この場で「事故」として娘を斬り殺すつもりだった。

だが、目の前に立ちはだかった瞬間――どうしても刃を振り下ろせなかった。


なぜなのかわからない。

リナの言う通りに、殺そうと思っていた。憎しみを抱けと囁かれるままに。


なのに――手が止まる。


あの夜もそうだった。

ステラの小さな手に絡みついていた魔道具を、なぜか必死に外そうとした。

放っておけばよかったのに、死ぬべきとさえ……むしろそうあるべきだと、心のどこかで思っていたはずなのに。


殺したいほどに憎い存在のはずだ。

セレーナを奪った、許されざる娘のはずなのに……なぜか、かつては誰よりも愛しく、何よりも大切に守りたい存在だった。


リナに出会ってから、失われていた「本来の感覚」を取り戻したと思っていた。


――あれは、愛する妻の命を奪った娘だ。憎んで当然だ。

そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、記憶は上書きされていく。


それなのに。


時折、不意に蘇るのだ。

どんな理屈でも打ち消せない「かけがえのない娘」としての記憶が。

笑いかけてくれた瞳、泣き顔、幼い指。

何にも変えられないほど大切だった日々の感覚が、まるで呪いのように蘇る。


――どちらが真実なのか。


彼自身にも、もうわからない。

憎悪か、愛情か。

刃を向けるたび、心臓を鷲掴みにされるように痛む。


「ここに、なぜ来た……」

「……お父様と会いたくて……話をしたくて来ました」

「……だったら、十分後に本部に入れ。それまでは休ませろ」


低く吐き捨てるように告げると、ディルは手を伸ばし、額の傷を魔法で縫い上げた。

その所作は、かつて幼いステラに「ハイルドの傷を縫った」と語っていた時と同じだった。


「……血が、止まった……」

「応急処置だ。傷は残る」


短く言い捨て、アレスを縛っていた魔法を解くと、背を向けて本部の建物へと歩いていった。


「ステラ……!! あぁ、また俺のせいで……!」


魔法の拘束から解放されたアレスは、すぐにステラを抱きしめた。

その腕は震え、苦しいほどに強く。


「血も止まったもの。平気よ……それに、私だってアレスの腕を落としたことあるんだから。お互い様でしょう?」


無理に笑おうとするステラに、アレスはなお抱きしめる力を強める。


「全然違ぇよ……顔に傷を付けたんだ……」

「大丈夫よ。そもそも傷を付けたのはあなたじゃなくてお父様だわ。それに、前髪で隠れるし……未来の夫はこんな傷、気にもしないでしょ?」


ステラは強かった。

恐怖を知り尽くした者だけが持つ、本物の強さ。


「……ごめん」


絞り出すようなその声は、訓練場に虚しく響いた。

その声に、見ていた騎士団員たちは大きな罪悪感を覚える。


誰ひとり動かず、弱々しい少女にすべてを委ねてしまった。

そして彼女の顔には、聖女にしか癒せない深い傷が刻まれてしまったのだから――。

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