表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/113

第九十六話 騎士団訓練場①



次の日、私たちは学校に行かず、広い皇城の敷地内にある騎士団本部へ足を運んでいた。


まだ朝の空気は少し冷たく、吐く息が白い。敷地内を歩く軍人たちの靴音が整然と響いて、胸の奥が自然と引き締まる。


私の隣を歩くアレスは、いつもと違って無口だった。

姿勢こそ崩れてはいないけれど、その歩みはどこか重く、心ここに在らずといった様子だ。


敷地の奥に、ひときわ高くそびえる塔が見えてきた。

黒ずんだ石壁には苔が生え、細い窓がいくつも縦に並んでいる。


アレスの視線は、そこに釘付けになっていた。

表情はまるで凪のようで、けれど……私は気づいてしまう。

その無表情は、痛みを隠すための仮面だということに。


(あれが……アレスが六歳まで幽閉されていた場所なのね……)


胸の奥がきゅうっと苦しくなった。

どんなに笑っていても、彼の過去は消えない。塔は、アレスにとって傷そのものなのだ。


「アレス、付き合わせちゃってごめんね」


おそるおそる声をかけると、彼は振り向かずに言葉を返す。


「俺がついていくって言ったんだぜ。謝んな」


その声は少しだけ掠れていた。

次の瞬間、彼の手が私の頭に伸びてきて、ぐしゃりと髪を乱暴に撫で回した。

わざと雑に、子供みたいに。顔を見られたくないから。


胸が熱くなって、何も言えなくなってしまった。


やがて、訓練場に近づくと──乾いた木のぶつかり合う音が響いてきた。


カンッ、カンッ、と規則的に。

力強い掛け声、汗の匂い、熱気。

覗いてみると、軍人と見られる騎士たちが木刀で模擬戦を繰り広げている。


アレスは足を止めて、その光景をじっと見つめていた。

瞳がきらりと光り、ほんの少しだけ顔に色が差す。


「……ディルが通ってるっていうのに、皇城の敷地にあるからって来たことなかったな」


低く呟く声。

その目は、幼い頃に父から手ほどきを受けた記憶を追っているようだった。


タウンハウスにいた頃、よくお父様とアレスが木剣を交わしていたのを私は見ていた。

領地に一人で住まうようになってからも、彼は黙々と鍛錬を続け、剣術も磨いていたと聞く。

だから今、彼の瞳には──懐かしさと誇らしさが滲んでいた。


「え!! 団長のお嬢さん!?」

「バカ、声が大きい……!」


訓練場の端から飛んできた大声に、場の空気が一変する。

気づけば、皆の視線が私とアレスに注がれていた。


「……あれが団長が溺愛する……?」

「確かに、溺愛するだけあるな。可愛い」

「おい、団長に殺されるぞお前」


小声のはずの会話が、不思議とよく耳に届く。

ヒソヒソと交わされる言葉に、思わず頬が熱くなる。


(……お父様、騎士団でこんなにも慕われていたんだ)


もっと無骨で、緊張感漂う人ばかりだと思っていた。

でも意外にも明るく、温かな空気がここには流れている。


「ステラ様、アレス様」


聞き慣れた声がして振り向くと、そこに立っていたのは──


「エミリオ様……!」


お父様の側近、エミリオ様だった。

いつも柔らかく微笑んでいる人。その優しさは、数年ぶりでもまったく変わっていなかった。


「お久しぶりでございます。お二人共、ご立派に成長されましたね」

「ええ、本当にお久しぶりですね」


私も自然と笑顔を返していた。


タウンハウスにいた頃はよく顔を見ていたけれど、戦争からお父様と帰還してからはめっきり会わなくなっていた。


「見かけないので、どうされているかと気になっていました」

「……たしかに、ここ数年会ってなかったな」


アレスも記憶を辿るように呟いた。


「はい。団長──ディル様は、ステラ様との時間を大切にしたいからと、僕は公務などの補佐に回りました。それに、アレス様が領地経営や執務をこなしてくださるので、負担がだいぶ減ったのでしょう」


にこやかに語るエミリオ様の言葉に、胸が少しだけ締め付けられる。

それは優しい気遣いのはずなのに……どこか寂しさが滲んでいたから。


「そうですか……」

「ディル様はあまり話してくれませんが……何かあったことは、なんとなく分かっています。今日は……そのお話に?」


私は小さく頷く。


少し曇った彼の表情を見て、胸の奥にざわめきが走る。

彼の前での父は──どうなのだろう。

変わらぬ団長として振る舞っているのか、それとも……。


「そんで、ディルはどこに?」

アレスが静かに尋ねる。

「今は、聖女様のことで席を外しております。帰ってくるまで、よければ見学していってください」

「……はい」


私の口から漏れた返事は、少し硬かった。


(やっぱり……また、リナのところにいるのね)


心臓がどくん、と大きく跳ねた。

訓練場の熱気の中で、ひとり寒さを感じてしまう。


エミリオ様と話している間も、アレスの視線は訓練場に注がれていた。

砂煙を蹴立てて打ち合う騎士たち。その中に、ひときわ鋭い剣筋を放つ男がいた。


鍛え上げられた体躯、無駄のない動き。

剣を振るたびに、周囲の空気が張り詰める。

……それはどこか、私の父を思わせるものだった。


アレスの瞳が揺れる。

憧れでも恐れでもなく、喉の奥にせり上がる衝動に突き動かされているように見えた。


「エミリオ。……あの人は?」

「彼はルイス。副隊長を任せられるほどの腕利きですよ」

「……そうか」


短く答えたアレスは、ぐっと拳を握ると前へ出た。


「アレス……?」

私が呼び止めるより早く、彼は訓練場へ歩み出ていた。


木剣を振る騎士たちが次々と動きを止め、ざわめきが広がる。

団長の娘と義息子――視線は一気に彼に集まった。


「おい……あれ、団長の坊ちゃんじゃないか」

「義息子だって聞いたことあるが……手合わせでもする気か?」


ヒソヒソ声が飛び交う。


アレスはそのざわめきをものともせず、木剣を持つルイスの前に立った。


「……ルイスだな。俺はアレス・アルジェラン。ディルの……義息子だ」


低く、揺るぎない声だった。


「少しでいい。俺と手合わせしてくれないか」


ルイスは驚いたように目を細めた。


「……手合わせ? なぜ私と?」

「お前の剣を見て、思った。――アイツの影を感じたから」


一瞬、静寂が落ちた。

団員たちの表情が変わり、ざわりと空気が揺れる。


アレスは振り返らない。

きっと私が止めようとしても、意味はないだろう。


「……団長の義息子、ですか」

ルイスは一度木剣を見つめ、そしてアレスを真っ直ぐに見返した。


「いいでしょう。ただし、手加減はしませんよ」

「望むところだ」


木剣を受け取ったアレスは、構えを取る。

背中に宿る意志は揺るぎなかった。


訓練場の空気がぴんと張り詰め、誰もが次の一瞬を見守る。


私は胸をぎゅっと掴まれる思いで、その背を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ