第九十六話 騎士団訓練場①
次の日、私たちは学校に行かず、広い皇城の敷地内にある騎士団本部へ足を運んでいた。
まだ朝の空気は少し冷たく、吐く息が白い。敷地内を歩く軍人たちの靴音が整然と響いて、胸の奥が自然と引き締まる。
私の隣を歩くアレスは、いつもと違って無口だった。
姿勢こそ崩れてはいないけれど、その歩みはどこか重く、心ここに在らずといった様子だ。
敷地の奥に、ひときわ高くそびえる塔が見えてきた。
黒ずんだ石壁には苔が生え、細い窓がいくつも縦に並んでいる。
アレスの視線は、そこに釘付けになっていた。
表情はまるで凪のようで、けれど……私は気づいてしまう。
その無表情は、痛みを隠すための仮面だということに。
(あれが……アレスが六歳まで幽閉されていた場所なのね……)
胸の奥がきゅうっと苦しくなった。
どんなに笑っていても、彼の過去は消えない。塔は、アレスにとって傷そのものなのだ。
「アレス、付き合わせちゃってごめんね」
おそるおそる声をかけると、彼は振り向かずに言葉を返す。
「俺がついていくって言ったんだぜ。謝んな」
その声は少しだけ掠れていた。
次の瞬間、彼の手が私の頭に伸びてきて、ぐしゃりと髪を乱暴に撫で回した。
わざと雑に、子供みたいに。顔を見られたくないから。
胸が熱くなって、何も言えなくなってしまった。
やがて、訓練場に近づくと──乾いた木のぶつかり合う音が響いてきた。
カンッ、カンッ、と規則的に。
力強い掛け声、汗の匂い、熱気。
覗いてみると、軍人と見られる騎士たちが木刀で模擬戦を繰り広げている。
アレスは足を止めて、その光景をじっと見つめていた。
瞳がきらりと光り、ほんの少しだけ顔に色が差す。
「……ディルが通ってるっていうのに、皇城の敷地にあるからって来たことなかったな」
低く呟く声。
その目は、幼い頃に父から手ほどきを受けた記憶を追っているようだった。
タウンハウスにいた頃、よくお父様とアレスが木剣を交わしていたのを私は見ていた。
領地に一人で住まうようになってからも、彼は黙々と鍛錬を続け、剣術も磨いていたと聞く。
だから今、彼の瞳には──懐かしさと誇らしさが滲んでいた。
「え!! 団長のお嬢さん!?」
「バカ、声が大きい……!」
訓練場の端から飛んできた大声に、場の空気が一変する。
気づけば、皆の視線が私とアレスに注がれていた。
「……あれが団長が溺愛する……?」
「確かに、溺愛するだけあるな。可愛い」
「おい、団長に殺されるぞお前」
小声のはずの会話が、不思議とよく耳に届く。
ヒソヒソと交わされる言葉に、思わず頬が熱くなる。
(……お父様、騎士団でこんなにも慕われていたんだ)
もっと無骨で、緊張感漂う人ばかりだと思っていた。
でも意外にも明るく、温かな空気がここには流れている。
「ステラ様、アレス様」
聞き慣れた声がして振り向くと、そこに立っていたのは──
「エミリオ様……!」
お父様の側近、エミリオ様だった。
いつも柔らかく微笑んでいる人。その優しさは、数年ぶりでもまったく変わっていなかった。
「お久しぶりでございます。お二人共、ご立派に成長されましたね」
「ええ、本当にお久しぶりですね」
私も自然と笑顔を返していた。
タウンハウスにいた頃はよく顔を見ていたけれど、戦争からお父様と帰還してからはめっきり会わなくなっていた。
「見かけないので、どうされているかと気になっていました」
「……たしかに、ここ数年会ってなかったな」
アレスも記憶を辿るように呟いた。
「はい。団長──ディル様は、ステラ様との時間を大切にしたいからと、僕は公務などの補佐に回りました。それに、アレス様が領地経営や執務をこなしてくださるので、負担がだいぶ減ったのでしょう」
にこやかに語るエミリオ様の言葉に、胸が少しだけ締め付けられる。
それは優しい気遣いのはずなのに……どこか寂しさが滲んでいたから。
「そうですか……」
「ディル様はあまり話してくれませんが……何かあったことは、なんとなく分かっています。今日は……そのお話に?」
私は小さく頷く。
少し曇った彼の表情を見て、胸の奥にざわめきが走る。
彼の前での父は──どうなのだろう。
変わらぬ団長として振る舞っているのか、それとも……。
「そんで、ディルはどこに?」
アレスが静かに尋ねる。
「今は、聖女様のことで席を外しております。帰ってくるまで、よければ見学していってください」
「……はい」
私の口から漏れた返事は、少し硬かった。
(やっぱり……また、リナのところにいるのね)
心臓がどくん、と大きく跳ねた。
訓練場の熱気の中で、ひとり寒さを感じてしまう。
エミリオ様と話している間も、アレスの視線は訓練場に注がれていた。
砂煙を蹴立てて打ち合う騎士たち。その中に、ひときわ鋭い剣筋を放つ男がいた。
鍛え上げられた体躯、無駄のない動き。
剣を振るたびに、周囲の空気が張り詰める。
……それはどこか、私の父を思わせるものだった。
アレスの瞳が揺れる。
憧れでも恐れでもなく、喉の奥にせり上がる衝動に突き動かされているように見えた。
「エミリオ。……あの人は?」
「彼はルイス。副隊長を任せられるほどの腕利きですよ」
「……そうか」
短く答えたアレスは、ぐっと拳を握ると前へ出た。
「アレス……?」
私が呼び止めるより早く、彼は訓練場へ歩み出ていた。
木剣を振る騎士たちが次々と動きを止め、ざわめきが広がる。
団長の娘と義息子――視線は一気に彼に集まった。
「おい……あれ、団長の坊ちゃんじゃないか」
「義息子だって聞いたことあるが……手合わせでもする気か?」
ヒソヒソ声が飛び交う。
アレスはそのざわめきをものともせず、木剣を持つルイスの前に立った。
「……ルイスだな。俺はアレス・アルジェラン。ディルの……義息子だ」
低く、揺るぎない声だった。
「少しでいい。俺と手合わせしてくれないか」
ルイスは驚いたように目を細めた。
「……手合わせ? なぜ私と?」
「お前の剣を見て、思った。――アイツの影を感じたから」
一瞬、静寂が落ちた。
団員たちの表情が変わり、ざわりと空気が揺れる。
アレスは振り返らない。
きっと私が止めようとしても、意味はないだろう。
「……団長の義息子、ですか」
ルイスは一度木剣を見つめ、そしてアレスを真っ直ぐに見返した。
「いいでしょう。ただし、手加減はしませんよ」
「望むところだ」
木剣を受け取ったアレスは、構えを取る。
背中に宿る意志は揺るぎなかった。
訓練場の空気がぴんと張り詰め、誰もが次の一瞬を見守る。
私は胸をぎゅっと掴まれる思いで、その背を見つめていた。




