第九十三話 不敬への罰⑤
鳥の囀りが、まだ薄青い朝の空気を震わせるように窓の外から響いていた。
春先とはいえ朝は冷え込み、吐く息は白く、石造りの部屋にはひやりとした冷気が漂っている。
ふわりと重たい瞼を持ち上げると、目の前に飛び込んできたのは──愛おしくも頼もしい寝顔。
アレスの胸に包み込まれるように眠っていたらしい。
彼の髪は額に張り付き、汗でしっとりと濡れていた。
それでも腕は決して緩まることなく、私を守るように抱き締め続けている。
(私が寒いと感じていたから、こうして離さずにいたのね……)
目の下には濃い隈。
私がどれほど眠っていたのかはわからないが、アレスが眠っていないことは容易に察せた。
張り付いた髪を、指先でそっと耳にかけてやる。
その瞬間、彼の瞼にわずかに力が入り、眉がぴくりと震えた。
「ん……んん……」
かすかな寝息とともに目が開きかける。
「アレス」
私は控えめに声をかけた。
すると、重たげに瞼を持ち上げ、焦点を結んだ瞳がまっすぐこちらを捉える。
「おはよ。起こしちゃってごめんね」
私が微笑むと、彼の瞳が一瞬にして大きく見開かれた。
「……ステラ!! 目が覚めたのか……よかった……っ」
その声には張り詰めた不安がにじみ出ていた。
彼は私を抱きしめる腕にさらに力をこめ、震える吐息を落とす。
「そんなに心配しないで。魔力が抜けただけよ」
宥めるように告げると、アレスは一瞬口を噤み──次に、堰を切ったように言葉を吐いた。
「あのなぁ……お前、一回息が止まったんだぞ? 顔色だって死人そのものだったんだからな……!」
そう言いながら、私の両頬を思い切り引っ張る。
容赦のない力に、思わず声を上げた。
「いたたっ! 痛い〜っ。でも……そうね、これをつけられた時……あ、死ぬなぁ、ってぼんやり思った気がする」
「お前なぁ! そんな軽く済ませるなよ!」
彼は怒鳴り声に近い調子で言い、瞳を細めて私を睨んだ。
けれど、怒りよりも恐怖と心配が透けて見えて、胸が締めつけられる。
「でも結果として死ななかったじゃない。……アレスやお父様だったら、きっと命を落としていたわ。私でよかった……それにヴァルに魔力を分け与えていたのも、功を奏した感じがするの」
そう言って微笑むと、アレスはあからさまに顔をしかめ、呆れ果てたようにため息をついた。
──私が私以外を優先して心配する時、彼らは決まってこの顔をする。
それなのに、アレスもお父様もいつだって私を最優先に考えてくれているのに。
(……お父様。昨日のことは、夢なんかじゃなかったわ。最初は冷たい瞳だったのに……最後は、あの懐かしい表情で私を見ていた。酷く心配そうに……)
「アレス。昨日……お父様が来たの」
口にすると、アレスはぴたりと動きを止めた。
眉がぐっと寄せられ、やがて重たげに目を伏せる。
彼は私から視線を逸らすようにして、静かに上体を起こした。
「それは……夢か幻覚だよ。あいつは、この三日一度もここに来なかった。報せを送っても全部拒否られて返ってきた……」
その声には、押し殺した恨みが滲んでいた。
私よりも、彼のほうが深く傷ついているのが伝わってくる。
「違うの。あれは本当にお父様だったわ。……この魔道具を解除しようとしてくれていた。意識は朦朧としていたけれど……間違いない」
私の言葉に、アレスは長く沈黙した。
否定しようとすればできるだろうに、唇は固く結ばれたまま、声は出なかった。
彼はただ俯き、私を信じたい気持ちと、これまでの絶望との狭間で揺れているように見えた。
(本当のことなのに……)
私はそっと彼の手に触れた。
アレスの手はまだ冷たく、夜の不安が残っているように震えていた。
「それより、体調はどうなんだよ」
不意に話題を変えられてしまった。
その一言で、これ以上お父様のことを口にしてはいけないのだと悟る。
信じてもらえないことを、受け入れるしかなかった。
「うん。魔力不足に体が適応するのには慣れているからね。寒いし、動けないけど……こうして元気に話せるわ。お腹も空いてきた」
「そっか。なら飯にしよう。ここに持ってこさせる……あんまりステラを一人にしたくは無いんだけど、少しだけ時間くれ」
アレスは言いづらそうに視線を逸らし、気まずげに言った。
「ん? うん、自由に過ごして? でも、どうしてそんな顔するの?」
「いや……多分、俺、今すげぇ汗臭いから……風呂に入ってくる……」
その言葉に思わず笑ってしまう。
「なんだ、そんなことかぁ。大丈夫。いい匂いだったよ」
(漫画の中の世界は、汗までフローラルな香りがするのね、って思うくらいにね)
私が冗談めかして笑いながら伝えると、アレスは気を遣わせたと悟ったのか、苦い表情で小さく舌打ちし、
「……なわけねぇだろ」
とだけ呟いて部屋を出ていった。
途端に静けさが訪れる。だがすぐに扉が開き、サリーと数名の侍女が慌ただしく入ってきた。
着替えと体を拭くためらしい。
その時、私は知らされる。
アレスが三日三晩──一度も眠らずに私の傍にいたのだと。
片時も目を離さずに。
布団に潜り込んできたのも、私を温めるためだったという。
何度も魔法で体温を保とうとしたけれど、その度に私の顔が苦しげに歪むからと、すぐにやめてしまったのだと。
胸が詰まった。
彼がどれだけ私のことを思って、ここにいてくれたのかが痛いほど伝わってくる。
(本当に……迷惑ばかりかけてる。いつになったら、私は誰にも心配をかけずに穏やかに過ごせるのかしら……)
サリーに恐る恐る尋ねてみた。
「昨日……お父様を見かけなかった?」
けれど、彼女も、他の誰も見ていないと言う。
──やっぱり幻だったのだろうか。
その疑念を胸に抱えたまま、ひとりきりになった時、私は考え込んだ。
もし本当にお父様が来てくれるのなら……必ず姿を現すはず。
けれど、もし来ないのだとしたら──あれは幻覚だったのだと、きっぱり割り切ろう。
そう決めて、待った。
──────けれど。
お父様が来ないまま、四日が経ってしまった。
(あれは……本当に幻だったの……?)
冷たい風が窓の隙間から忍び込み、胸の奥にまで染み込んでいくようだった。
ベッドの上で過ごした一週間。
アレスはずっと私の傍に居てくれた。
彼は執務をすべてこの部屋に持ち込み、書類を机の上ではなく、窓辺やソファで処理していた。
忙しいはずなのに、外に出ることはほとんどなく、視界の端にはいつも彼の姿があった。
フレッド様やニヴィア様もお見舞いに来てくださり、動けない私を気遣って明るい声をかけてくれた。
だから不思議と孤独ではなかった。
──むしろ、ずっと守られている安心感に包まれていた。
魔力不足には慣れていたおかげで、意識ははっきり保てる。
だからこそ、アレスがどれほど真剣に私を見守っているか、ひしひしと伝わってきた。
そして──ちょうど一週間前、魔道具を付けられたその時刻が来た。
「……あ」
空気に溶けるように、私の腕にあった魔道具が淡く揺らぎ、すっと消え去った。
その瞬間、胸が高鳴る。
「消えたんだな。……体調は?」
アレスがすぐに身を屈め、私の顔を覗き込む。
けれど、体の調子に大きな変化はなかった。
「ここから魔力が生成されるまでは、変わらないってことかな」
そう言ったとき、アレスは無言でベッドに腰を下ろし、私に身を寄せてきた。
近づく瞳。静かに落ちる影。
(あ……魔力を補ってくれるのね)
疑うことなく私は瞼を閉じる。
次の瞬間、額と額がそっと重なり合った。
そこから、温かな魔力が静かに流れ込んでくる。
冷え切っていた体が、春の陽だまりに包まれるように軽くなっていく。
柔らかくて心地よくて、溶けてしまいそう。
アレスは多くの魔力を流してくれたのだろう。
額は長く重なったまま──その温度が私の心まで安堵で満たしていく。
やがて彼の額がゆっくりと離れていき、私は瞼を開いた。
「アレス、ありがとう。すごく身体が軽く────」
言い終わる前に。
ふいに、彼の唇が私の口を塞いだ。
一瞬、時が止まった。
触れたのはほんの刹那。けれど胸の奥が強く跳ね上がり、呼吸さえ奪われる。
彼の顔が離れても、私は呆然としたまま固まっていた。
「……あんま意識されないのは、腹立つ」
低く、拗ねたような声。
(あ……)
確かに、私はアレスの顔が近づいてくるとき、何も感じることなくただ目を閉じてしまった。
信頼しきって、当たり前のように。
それが彼を苛立たせたのだ。
「……改善します……」
絞り出すように答えると、顔が熱に焼ける。
真っ赤な薔薇と同じ色をしているに違いない。
(ああ……今恋人じゃなくても、こういうことって起こるのね……? いや、これはおかしい?)
わからない。わからないけれど──胸の奥は、嬉しさでいっぱいだった。
落ち着かない鼓動を抱えながら、今日もまたアレスは私の傍にいてくれるのだった。




