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第九十二話 不敬への罰④

忙しい日々を送っていた。

マーリン公爵家が没落し、公爵位は二家のみとなった。

その結果、マーリン家が担っていた政務や公務の大半が俺のもとへ押し寄せてきた。


もっとも、領地経営はアレスに任せたままにしてある。

俺自身が陣頭指揮を執る必要はない。

だが──それでも、以前とは比べものにならないほどに机の上は文書で埋め尽くされ、都にいる間は息をつく暇さえ奪われていく。


ただ、今の俺には……何よりの癒やしがあった。

それが、聖女リナだ。


彼女は俺の心の痛みを拭い去り、救ってくれた。

「妻を奪った娘」から距離を置くべきだと、優しい声で諭してくれたのも彼女だった。


なぜ、俺があそこまで娘に執着していたのか。

思い返しても分からない。

セレーナの忘れ形見だから──そのはずだ。

だが、もしそれ以上の理由があったのなら……今の俺には、もうどうでもよかった。


リナがいる。

その存在だけでいい。

あの娘の影など、もう俺の目には映らない。


……なのに。


ステラは、俺の視線が自分に注がれなくなったことを逆恨みでもしているのか、リナを虐げていると聞いた。


噂では、直接手を下すことはせず、他の生徒たちに指示を飛ばしているらしい。

実に姑息だ。


責任を感じた。

父として。……いや、かつての父として。


だが、簡単に家族を処分することはできない。

情ではない。

アルジェランの名を背負った存在を、俺の一存で切り捨てれば、貴族社会に余計な波紋を広げるだけだ。


皇太子殿下も、リナのために動いているらしい。

「それでもステラは虐げをやめない」と。

そして、ついに俺のもとへ命令が届いた。


――皇太子としての命令。


『ステラに分からせてやってください。少しくらい痛い目を見てもらって構いません』


その一言は、俺にとって十分すぎる口実となった。


胸の奥に燻る重苦しいものを、ようやく行動で解き放てる。

リナの澄んだ瞳と声が脳裏をよぎる。

彼女を守らねば。


俺は立ち上がり、長く息を吐いた。

そして、転移魔法を使った。

王都の喧噪は一瞬で遠ざかる。


次に足を踏みしめたのは、久方ぶりのアルジェラン領の屋敷。

石畳の冷たい床が靴底から伝わる。

窓から差し込む夕日の赤が、長く伸びる影となって俺を迎えた。


静まり返った空気に、屋敷が息を潜めているように思えた。

帰ってきたのは俺だ。

だが、待ち受けているのは父としての再会ではない。


冷徹な処断者としての俺だ。


まだ時刻は二十一時前。

いつもなら、あの娘はまだ起きている時間のはずだ。


だが、ステラの部屋は灯り一つなく、重苦しい暗闇に包まれていた。


(……居ないのか?)


一瞬そう思った。

しかし、足を忍ばせて寝台へ近づいた時、目に飛び込んできた光景に思わず息を止める。


アレスとステラが、ひとつのベッドに横たわっていた。


胸の奥に、理由の分からない重さが走る。

痛みに似た感覚だった。

まるで、最近まで抱いていた執着が蘇るようで──苦々しく奥歯を噛んだ。


(……情事、か)


そう決めつけかけた瞬間、違和感に気づいた。

春先だというのに、寝台の上には真冬でも暑すぎるほどの分厚い布団が幾重にも重ねられている。


アレスは額に玉のような汗を浮かべながら、それでも腕を解かずにステラを抱きしめていた。

守るように。縋るように。


ステラの方は──顔色が青白く、唇は紫に染まり、身体は小刻みに震えている。


(……病か)


胸の奥がざわついた。

本来なら、気にかける必要などないはずの娘。

忌むべき存在のはずだ。


なのに、リナが傍にいないからだろうか。

どうしても気になって仕方がなかった。


じっと見つめていると、閉じられていた瞼がわずかに震え、うっすらと開かれる。


「……お父様……? 来てくださったのですか……」


か細い声。

伸ばされた手が、暗闇の中で俺を求めるように揺れた。


その腕に──妙な光沢を帯びた腕輪があった。


ただの装飾品ではない。

魔道具だ。

触れた瞬間から、背筋に嫌な気配が走るほどの危険な代物だと直感した。


俺は静かに、だが確かにその腕輪へ指先を伸ばした。

魔力を込め、内部を探るように意識を潜り込ませる。


次の瞬間。


強烈な抵抗が、俺の魔力を押し返してきた。

跳ね返るように、鮮烈な光景が脳裏に流れ込んでくる。


──皇太子殿下の姿。

──強気で立ち向かうステラ。

──それを「不敬」と断じ、罰として与えられる腕輪。


これは……国宝級の魔道具だ。

魂を縛り、力を奪う類のもの。

下手に干渉すれば命すら削りかねない。


俺は静かに息を呑み、握った拳を震わせた。


(……殿下が。リナを守るために……)


頭の奥が、砕かれるように痛んだ。

焼け付くような痛みと共に、忘れていたはずの感情が奔流のように溢れ出す。


──あんなにも大切だったステラの姿。

──どんなに拒絶しても、心の奥で守りたいと願っていた感情。


ここのところ、あの子が忌むべき存在にしか思えなかった。

俺が目を離すと、他人を虐げるようなくだらない人間に堕ちてしまったのかと、そう思い込んでいた。


……違う。

おかしくなっていたのは、俺の方だ。


なぜ、リナを想っていた?

リナの何が癒しだ?

おかしい。

あれほどの強さを持つ俺が、まるで操られるように感情をねじ曲げられていた……?


背筋を氷刃でなぞられるような寒気が走る。


正気に戻った瞬間、目の前で眠るアレスとステラの姿を引き剥がしたくて仕方がなかった。

だが、それ以上に──まずはこの魔道具をどうにかしなければならない。


ステラの苦しみの原因は、間違いなくこれだ。


俺はベッド脇に腰掛け、震える娘の腕を両手で包み込む。

指先から魔力を注ぎ、内部の構造をひとつひとつ読み解く。

眠りに落ちたステラの手の温もりが、僅かに震えながらも俺の掌に伝わってくる。


……だが、解析は難航した。

魔道具は幾重にも結界を張り巡らせており、触れるたびに反発し、まるで嘲笑うように魔力を跳ね返してくる。


気づけば、窓の外の月は傾き始めていた。


「……クソッ……っ」


額に浮かぶ汗を拭い、奥歯を軋ませる。

国宝もの。さすがに俺でもどうにもならないのか。


何度も拳を握り、布団の端を掴んで押し殺した怒りを吐き出した。


どうやら、この魔道具は一週間。

残り四日を耐えるしか手はないらしい。


──それでもいい。

せめて俺は、この四日間、ステラのそばにいよう。


最近の自分の態度は、謝ったところで許されるものではない。

だが──あの時、俺に向かって伸ばされた手。

あの震える声で呼ばれた「お父様」。

それが、あの子の気持ちのすべてのように思えた。


(もし……まだ俺を父と認めてくれるなら──)


強く、静かに心に誓う。


聖女リナの能力を問い詰め、皇太子を操っているのなら必ず解除させる。

そして、二人にはステラへ謝罪させる。


窓の外に朝焼けが差し込み、薄闇を赤く染めていく。

俺は立ち上がり、転移魔法で皇宮へと向かった。


──まずは皇帝陛下に報告する。

皇太子が国宝の魔道具を無断で使用したと。

その罰は、必ず陛下によって下されるはずだ。


聖女については……どう処断すべきか。


思案を巡らせながら、まだ早朝の宮廷の廊下をコツコツと歩いていく。

石畳に響く靴音が、やけに冷たく耳に残った。


「……あ、ディル様?」


背後から声がした。


その声は、昨日まで──いや、つい数時間前まで癒しだと思い込んでいた女のものだった。


俺の足が止まる。

振り返った先にいたのは、柔らかな笑みを浮かべる聖女リナ。


胸の奥が再び、ズキリと痛んだ。

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