第九十一話 不敬への罰③
「……ステラ……」
掠れた声がまた漏れる。
握る手は、冷たい。けれどほんの時々、かすかに熱を宿す。
そのたびに俺の心臓も大きく跳ね上がる。
三日。もう三日も目を覚まさない。
青白い顔で浅い呼吸を繰り返す姿は、見ているだけで胸が潰れそうになる。
魔力不足が体にどれだけの負担をかけるかなんて、誰より俺が知っている。
ステラが今までどれだけ魔力を失って、ぐったりしていたか見てきたからな。
あの時はまだよかった。自分で魔力を消費しただけだ。
ヴァルツォリオに吸われる分があっても、残りの魔力でどうにかやり繰りして……。
それならコップの水が少しずつ減るのと同じだ。
でも、今回は違う。
奪われた。強引に抜き取られた。
水が減ったんじゃない。コップの中身そのものが一瞬で消えた。
その落差が体を、魂を……壊しかけている。
だから三日も眠り続けているんだ。
……いや、それでも生きているのは奇跡に近い。
俺は祈るしかできなかった。
手を握り、何度も額を合わせ、魔力を送り込んでみた。
一瞬だけ顔が楽になったように見えた時もあった。
でも、すぐに苦しそうに眉を寄せ、息を詰まらせて……。
俺は慌ててやめるしかなかった。
「……意味がねぇ……」
力なく呟き、歯を食いしばった。
額を押さえ、深く息を吐く。
目の奥が焼けるように痛む。眠ってないからだ。
それでも、離れられない。
「……あと四日……」
思わず零した声は、情けないくらい掠れていた。
その時だった。
静かな部屋の扉が、コン、コンと鳴る。
音に振り向くと、ゆっくりと開いた。
入ってきたのはサリーだった。
ステラを六歳まで育ててくれた乳母。
彼女もまた、ずっとステラのことを案じている。
「……アレス坊ちゃん。そろそろお休みください。酷い顔色ですよ」
俺は鼻で笑った。鏡を見なくても、自分の顔がどれほどひどいか分かる。
血の気のない頬。真っ赤に充血した目。
数日眠れず、ただ傍に居続けた男の顔だ。
「……いや、どうせ心配で眠れないんだ。ここにいさせてくれ。……着替えがあるなら一度出る」
「いえ……ですが、お嬢様が目を覚まされた時に、そのお顔を見たら心配なさいますよ」
分かってる。サリーの言葉は正しい。
ステラは、そんなことで心を痛める子だ。
目を覚ました時に、俺の疲れ切った顔を見れば、きっとまた自分を責める。
……でも。
「無理だ……」
思わず低く、喉の奥から言葉が洩れた。
「離れるなんて……怖すぎる……」
マティアスの言葉が頭をよぎる。
――息が止まった。
またあの瞬間が来たら? 俺が傍にいなかったら?
考えただけで心臓が握り潰されそうになる。
俺は唇を噛んだ。
そして、どうしても浮かんでしまう。
「……はぁ……なんで……」
(なんでこんな時に、ディルは……あのザマなんだ)
本来のあいつなら、マティアスを即座に殺していたはずだ。
リナだって無事で済むはずがない。
場合によっては皇室ごと潰していたかもしれない。
それほど恐ろしい男だった。
でも、そんな恐ろしい男だけど……ステラが求めている相手なんだ。
あんなに怖い父親なのに、ステラはあいつに執着している。
一緒にいる時のステラはいつも、嬉しそうだった。
何かを取り戻そうとするような……いや、時には、世界で一番恐ろしい出来事を乗り越えてきた人間のように。
俺は、彼女の寝顔にそっと手を伸ばす。
冷たい髪を指先ですくい上げ、震える指で撫でる。
「……どうして……あんなやつばかり……」
声が滲んだ。
涙が目の奥に溜まって、どうしても零れそうになる。
「なぁ、サリー。ディルって……昔からあんなやつだったのか?」
口から勝手に零れた。
ステラの寝顔を見ていると、どうしても我慢できなかった。
「あんなやつ、とは……どのようなことでしょう?」
サリーは落ち着いた声で問い返す。
俺は吐き捨てるように言った。
「……娘に危険があろうと帰ってこず、挙げ句の果てには……法律さえなければ殺そうとしているようなやつ、だ」
胸の奥に渦巻く憎悪が、舌に乗せた瞬間に苦かった。
でも俺は引っ込めなかった。
俺がステラに出会った時には、もうディルは彼女に異常なほど重い愛情を向けていた。
……なのに、今はどうだ。
こんな時ですら、帰ってこない。見向きもしない。
どうして――。
サリーはしばらく沈黙した。
深い溜息をついてから、ゆっくりと話し出す。
「……旦那様は、確かにお嬢様を六歳までこの屋敷に置いておられました」
俺は黙って聞いた。歯を食いしばった。
「ですが、戦争から帰還なさった際には、まず最初にお嬢様が流行病に侵されていないかを確かめにいらっしゃいました。その後も、お嬢様に関することはすべて逐一報告するよう、私どもに命じておられました」
言葉が胸に引っかかった。俺が知らない話だったからだ。
「それから……お嬢様が熱を出された時は、すぐに駆けつけておられました。寝ているステラ様の傍に、夜通しずっとおられましたよ」
「……え?」
思わず声が漏れた。信じられなかった。
「ステラは……月に一度の夕食だけだと言っていたぞ?」
サリーは静かに首を振った。
「はい。旦那様は認識阻害の魔法をお使いになっていました。お嬢様には見えないようにして、傍で過ごしておられたのです。熱の時だけではありません。普段も度々、様子を見に来ておられました」
胸がざわついた。どうしてそんなことを……?
「なんでわざわざ……」
声が掠れた。問いというより、呟きだった。
サリーは少しだけ柔らかく微笑んだ。
「今まで無干渉で過ごしてきたのに、急に顔を合わせるようになれば……お嬢様も困るだろうと、そう仰っておられました。だから――ステラ様から『一緒にいたい』と伝えられたその時まで、ずっと……我慢してこられたのだと思います。」
俺は言葉を失った。
耳の奥が熱い。心臓がひどく重い。
「……だから、今の旦那様がそんな……お嬢様を蔑ろにしているなんて……」
サリーは小さく首を振り、しぼり出すように言った。
「……私は信じられません」
部屋に沈黙が落ちた。
俺は視線を落としたまま、ステラの細い指を握り直した。
俺は、ずっと六歳以前のステラに向けていた感情がまた呼び起こされたのかと予測していた。聖女リナの仕業で。
だが、ディルはずっと――見えない場所で彼女を愛していたのか?
じゃあ今目の前にいる、ステラを拒絶するあの男は……一体何なんだ……?
「さむぃ……」
か細い声が、布団の奥から漏れた。
分厚い布団を何枚も重ねているのに、ステラの体はガタガタと震えている。
「ステラ……!」
思わず身を乗り出す。
――起きたか?と一瞬期待したけれど、目は閉じたまま。
ただ魘されているように、苦しげな顔で寒いと呟いているだけだった。
「サリー、布団を……追加でかけてやってくれ」
俺は焦って声を上げる。
しかし、サリーは首を横に振った。
「坊ちゃん。これ以上布団を掛ければ重さで苦しくなります。それに……布団だけでは、悪寒はなかなか取れませんから」
冷静な声に、胸を掴まれたような気持ちになった。
確かにそうだ。もうすぐ春だというのに、彼女の体に掛けられた布団は真冬でも暑すぎるほどだ。
なのに、まだ震えている。
俺は奥歯を噛んで、一瞬だけ迷った。
そして――黙って布団をめくり、自分もその中へ潜り込んだ。
ステラの細い体を、そっと両腕で包み込む。
驚くほど冷たくて、思わず息が詰まった。
「……坊ちゃん」
サリーの声が背後からした。
俺は顔を伏せたまま、かすれ声で言った。
「……サリー、ごめん。見逃してくれ」
本当なら、侍女長である彼女が真っ先に止めるべきことだ。
俺とステラは、世間から見れば義姉弟。
こんなふうに抱き合って眠るなんて、許されるはずがない。
けれど――そんな建前なんてどうでもよかった。
今はただ、ステラの震えを止めてやりたかった。
俺の体温で少しでも楽にしてやりたかった。
サリーはしばし沈黙した。
俺の背中に、じっとした視線を感じる。
……きっと分かっている。
俺とステラが、ただの義姉弟では終われないことを。
それでも彼女は、ゆっくりと息を吐いてから言った。
「……坊ちゃん。お嬢様を……よろしくお願いします」
低く、けれど確かな声だった。
俺は思わずサリーの方を振り返りそうになったが、振り返らなかった。
代わりに、腕の中で震えるステラを強く抱き締めた。
「……あぁ。絶対に」
サリーは静かに一礼し、音を立てずに部屋を出て行った。
再び訪れた静寂の中、俺はただステラを抱き寄せる。
氷のように冷え切った体が少しずつ温まっていくのを感じながら――。
夜が明けるまで、彼女を離さないと誓った。
◇◇◇
アルジェラン嬢に魔道具をつけて三日が経った。
俺とリナの学校生活に、ようやく平穏が訪れたかに思えた────
……いや、訪れてなど、いなかった。
「やっぱりステラ様、皇太子殿下であるマティアス様から注意されても、辞める気はないみたいです……」
俺の腕に寄り添うようにして、リナがそう呟く。
声は震えていて、まるで耐えきれないほどの不安を押し隠しているようだった。
「今度はどうしたんだ?」
問いかけると、彼女はすぐに鞄を探り、ボロボロに破られた一冊の本を取り出した。
角は潰れ、ページは無惨に裂かれている。
魔法で焼かれた痕はなく、明らかに人の手で力任せに引き裂かれたものだった。
「ステラ様に支持された生徒から……」
「支持……だと?」
眉を寄せた。
今のアルジェラン嬢には魔法は使えないはずだ。
むしろ、まともに学校に通えているかどうかも怪しいのに。
「それは本当にアルジェラン嬢の仕業なのか?」
無意識に口をついて出た俺の言葉に、リナはぴたりと動きを止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめてきた。
「……どういうこと? もしかして、疑っておられるのですか?」
その瞳は、光を宿した宝石のようだった。
揺れるでもなく、逸らすでもなく、ただ真っ直ぐに俺を射抜いてくる。
抗いようのない確信を、強引に胸へと押し込んでくるようで。
……疑うなど、とんでもない。
俺がそんなことを口にしたのは、ほんの一瞬の気の迷いだ。
「いや……懲りないやつだと思っただけだ」
そう答えた時、リナの表情がぱっと和らいだ。
胸の奥にじんわりと広がる安堵が、なぜか彼女のものと混ざり合う。
リナがまだ我慢を強いられているなんて。
ほんとに、しぶといやつだ……あの女は。
「……公爵に身をもって分からせるか。皇太子命令でも出すべきかもしれんな」
そう口にした瞬間、リナの唇が小さく綻ぶ。
その笑みを見ていると、どうしようもなく正しい選択をしている気がした。
――ただ、その確信が本当に自分の意思なのか。
それを考えることすら、今はもう出来なくなっていた。




