第九十話 不敬への罰②
「……私は……一週間……起き上がることも……できません……。彼女に危害を加えるなど……不可能です……」
かすれた声を吐き出すと同時に、ステラの身体は崩れ落ちた。何を伝えたかったのか、よくわからないまま。
その瞬間、俺の背筋に氷を流し込まれたような冷気が走る。
「……おい……?」
床に横たわった彼女の顔は死人のように青ざめ、まるで命が抜け落ちたかのように動かない。
さっきまで乱れていた呼吸も途切れて──音が消えていた。
(……まさか、死んだ? こんなことで……?)
胸の奥が急にざわめき、手が勝手に動いていた。
信じられない気持ちで彼女の首筋に触れる。
冷たい肌。その下に、命の鼓動を探す。
──何も感じない。
「……っ」
思わず息を呑んだ、その刹那。
「……はっ……!!」
途切れていた胸が大きく上下し、彼女の喉が痙攣するように息を吹き返した。
まるで水面から無理やり引き上げられたかのように、荒く苦しい呼吸を繰り返している。
俺はしばらく呆然と見下ろしていた。
噂には聞いていた……魔力の多い者にこの魔道具を付ければ命を落としかねない、と。
だが実際に目の前でその危うさを突きつけられると、背中を汗が伝う。
(……アルジェラン公爵のような化け物に嵌めたら、確実に死ぬ……いや、即死だな)
思った以上に危険な代物。
俺の選択は……軽率だったのかもしれない。
だが。
(……いや、リナを虐げた女だ。ここまで痛い目を見せて当然……! 俺は間違っていない)
自分にそう言い聞かせた、そのときだった。
「……ステラ!」
外から少年の声。ドアを激しく叩く音。
俺が張った結界に阻まれているのだ。
だが次の瞬間──轟音。
光が弾けるような爆裂音と共に、俺の結界が砕け散った。
振り返った俺の視界に、魔力を迸らせて部屋に飛び込んでくるアレスの姿が映る。
肩越しにほとばしる魔力の残滓が火花のように散り、空気を震わせていた。
「……意外と遅かったな」
咄嗟に口をついたのは、皮肉めいた挑発だった。
だがアレスの瞳は俺ではなく、ただ床に横たわるステラへと一直線に向かっていた。
まるで俺など存在しないかのように。
「ステラ!!」
叫ぶと同時に駆け寄り、その小さな身体を抱き上げる。
ぐったりと力の抜けた彼女の姿に、アレスの顔は蒼白に染まっていた。
俺はただ、その光景を見下ろしていた。
拳を握りしめながら。
「マティアス、お前。ステラに何をした?」
低く鋭い声が空気を裂いた。
アレスの瞳は怒りに燃え、鮮烈な光を放っている。
その眼差しが、ひどく父上を彷彿とさせる。
(……またかよ。あの目。あの声。父上と同じ──)
吐き気がするほど似ているそれに、無性に腹が立つ。
「魔力を抜いただけだ。安心しろ、さっき息を吹き返した。生きている」
できる限り落ち着いた声で告げた。だがアレスは眉を吊り上げ、喉の奥で怒気を押し殺したような声を返す。
「……殺す気だったのかよ」
その一言に、胸の奥がかすかに揺れる。
だが俺は表情を崩さず、肩をすくめた。
「いや。ただ魔道具で魔力を抜いたら、一瞬、息が止まっただけだ」
アレスはステラの腕に目をやり、魔道具を確認すると顔を歪めた。
怒りを孕んだ吐息を吐き出し、低く言い放つ。
「大丈夫、外せば魔力は一気に戻る」
「なら今すぐ外せ」
重く響く声。
次の瞬間、彼の手の上に氷が集まり、鋭利な氷柱がいくつも形作られた。
殺意を帯びた冷気が肌を刺す。
俺は思わず目を細め、唇の端を吊り上げる。
「お前こそ……俺を殺す気みたいだな」
氷の先端が今にも俺の喉を貫きそうな距離で止まっている。
冷たい殺意の矛先に、背筋が微かに粟立った。だが、退く気はない。
「命が惜しいなら、外せ。今すぐだ」
その声は、抑え込んだ怒りで震えていた。
だが俺は首を横に振る。
「それは一週間外せない。その魔道具は、つける前に期間を定めて魔力を込める。期間が過ぎれば腕から消え、魔力を込めた者の元へ戻る仕組みだ。俺でも外せないし……公爵ですら無理かもしれない」
言葉を吐き捨てると同時に、自分の中の優越感がじわりと膨れ上がる。
これは皇帝から許可と得ずに持ち出したものだ。
甘い処罰などではない。徹底的に後悔させるためのもの。
アレスの目が揺らぐ。
それでも、氷柱はすぐには消えなかった。
俺の言葉を吟味するように、鋭い光のまま宙に漂い続け──
カランッ──と音を立てて、一斉に床に落ちた。
安堵する間もなく、アレスはステラを抱き上げる。
その腕の中でぐったりとした彼女を、必死に守るように抱きしめて。
「……お前がそんな脳なしのクズだなんてな。こんなやつが皇太子だなんて、この国も終わりだ」
吐き捨てるように低く言い残すと、アレスは迷いなく転移魔法を発動させ、光に包まれて消えた。
──静寂が訪れる。
ただ俺だけが残された部屋。
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込むほど強く。
(よく言う……)
脳裏に浮かぶのは、塔を出てから自由に生きてきたアレスの姿。
努力もせず、好きに振る舞い、公爵家の養子という立場に甘えてきた男。
対して俺は……広すぎる宮殿の中で、孤独に、ただ必死に勉強ばかりしてきた。
耐えて、耐えて、皇太子としての役目を果たすためだけに。
「……お前に俺を蔑む資格なんてない」
低く呟いた。
俺の心を埋めてくれたのは、リナだ。
天使のような笑顔。優しい声。
孤独を忘れさせてくれた、ただ一人の光。
(そんな彼女にあんな顔をさせたお前らを……許せるわけがない)
そうだ。俺はちゃんと見たんだ。
それは、リナと学校の廊下を歩いている時だった。
いつものように、生徒たちの視線が俺たちに集まる。
皇太子と聖女──二人が並んで歩くだけで、周囲はざわつき、羨望や憧れの眼差しが突き刺さる。
「マティアス様、なんだか注目ばかりされてしまうので……今日は別々に教室に入りましょう」
小さく笑いながらそう提案する彼女の頬は、ほんのりと赤い。
その照れた仕草が愛らしくて、同時に少し寂しさも覚えた。
だが、すぐに頷く。
「……わかった」
「じゃあ、ここにいてくださいね。一分以上たったら来てください」
そう言って、俺を廊下の角に残すと、振り返りざまににこりと笑い、彼女は歩いていった。
胸が温かくなる、花のような笑顔だった。
──だが、直ぐに足音が止まる。
「きゃ……!!」
短い悲鳴。
嫌な予感が走り、廊下の角から身を乗り出す。
リナが床に倒れていた。
その腕を乱暴に掴み、髪を引っ張っている男子生徒の姿が見えた。
「やめて……」
震える声。涙をにじませた瞳が、必死に助けを求めている。
頭より先に体が動き、俺は走り出していた。
「こいつが、アルジェラン嬢が言ってた聖女様か」
その男が吐き捨てるように言った一言が、耳に刺さった。
瞬間、頭の中で何かが切れた。
次に気がついた時、俺の手は雷を放ち、男は地面に崩れ落ちていた。
更に拘束魔法で身体を縛り上げる。
息を荒げ、睨みつけた俺の腕の中で、リナは小さく震えていた。
「……またステラ様が……」
涙を流し、怯えた声を漏らす彼女を抱きしめる。
胸の奥が灼けるように熱くなった。
その後、男は聖女への暴行として地下牢へと放り込まれた。
子爵家の三男坊──大した地位も権力もない。
ステラと結びつきがあるとは到底思えない。
だが──俺はあの言葉を、確かに聞いていた。
「アルジェラン嬢が言ってた」──と。
疑念に駆られ、自ら尋問を行った。
机を叩き、冷たく睨みつけ、答えを吐かせようとした。
だが、男は顔を青ざめさせ、頭を下げ続けるばかり。
「なぜ、自分でもあのようなことをしたのか……わからないんです……」
「アルジェラン公爵令嬢に頼まれたのだろう!!」
「アルジェラン公爵令嬢……?話したこともありません。魔法祭で一度お見かけした程度で……俺なんかが恐れ多いくらいです」
必死の言葉。震える声。
嘘にしては迫真すぎた。
(……なら、なぜだ?理由がなければ、聖女に手をかけるはずがない)
脳裏をよぎるのは「誓約魔法」という可能性。
ステラが口止めをしているのかもしれない──そう思えば思うほど、彼女への疑いは強くなった。
俺はその話をリナに伝えた。
すると、彼女は眉を寄せ、真剣な顔で答えた。
「魔法で……指示を送っているみたいなの」
その表情が胸に突き刺さる。
怯え、不安に揺れる瞳。
俺は彼女を守らなくてはならない──そう強く思ったんだ。
◇◇◇
気づけば授業が終わり、休み時間になっていた。
特別室に戻ると、リナが小さな鼻歌を歌っている。
どこか調子外れの、不思議な旋律だった。
「リナ」
呼ぶと、彼女は振り返り、ぱっと表情を明るくした。
「あ、マティアス様!!」
嬉しそうに駆け寄ってくる姿が、たまらなく愛おしい。
「どこに行っていらっしゃったのですか?」
「ああ……少し、アルジェラン嬢を懲らしめにな」
その言葉に、リナの瞳が大きく揺れる。
「え!? ステラ様を……?いったいなにをしたのですか?」
俺は言いかけて、ふと脳裏に浮かぶ声を思い出した。
──『聖女様には……魔道具のこと……言わないでください』
胸の奥で警鐘のように響き、舌が止まる。
言えば彼女は安心するだろう。
だが、なぜか俺は言わないことを選んだ。
「……魔法で脅して、ガツンと言ってやったよ。きっと反省したさ。明日から穏やかな日々が送れる」
嘘を重ねる俺に、リナはなおも不安げな表情を浮かべた。
その頭を、そっと撫でる。
柔らかな髪の感触が指に伝わり、心が少し落ち着く。
次の瞬間、リナが俺の首に腕を回し、抱き寄せた。
「ありがとう、マティアス様……大好きです」
その言葉に胸が満たされる。
自分の行いは間違っていなかったのだと、強く確信できた。
俺も力いっぱい彼女を抱きしめ返す。
腕の中にある温もりは、幸福そのものだった。
世界から奪い取ってでも守りたい──そう思わせるほどに。
(きっと……すべてが上手くいく。俺とリナなら)
そう信じて疑わなかった。




