第九話 父娘喧嘩
青空の下、春の中月。暖かくなってきた陽気の中に、まだ冬の名残のような冷たい風が時折、強く吹いていた。
「来いっ!!ガーロ!!」
アスレが指先から一滴の血を地面に垂らすと、それに応えるように白く巨大な魔獣――私の三倍はあろうかというライオンのような姿をした魔獣が、土を押しのけるようにして現れた。
この魔獣にアレスはガーロと名付けたらしい。
「ちょっと行ってくる!!」
そう言って、アスレはガーロの背にひらりと乗ると、風を切って宙を舞いながら気持ちよさそうに空を駆けていった。
「いいなぁ……アレス、あんな高位魔獣と契約できるなんて……」
「ステラ、お前は中位以下の魔物としか契約するなよ。高位以上の契約や召喚には血が必要になる。それだけでなく、覚悟もいる」
お父様の声には、どこか切実な響きがあった。
魔物には四段階の格付けがある。
F~Eランクの低位、D〜Cランクの中位、B〜Aランクの高位、そしてSランク――最高位の魔物たち。
低位の魔物は、まるで子犬のように単純で素直だ。人の差し伸べる手に触れれば、それだけで契約成立。森に棲むことが多く、気まぐれではあるが人懐っこい。
中位の魔物になると、契約には“通り道”が必要となる。魔力の匂いを頼りに、その通路を渡って人の元へ現れる。彼らが現れた時点で、すでに心を許した証だ。
高位の魔物となると、そうはいかない。通路を渡って目の前に現れたあと、彼らは人間の心に直接語りかけ、契約の条件を交わす。魔物の方から噛みつき、血を飲むことで契約は成立する。召喚のたびに血液が必要となり、その量が多ければ多いほど強い力を貸してくれると言われている。
そして、Sランク。
彼らは選ばれし存在にしか姿を見せない。自らが“仕えたい”と感じた者の前に、唐突に、運命のように現れる。契約には高位以上の血と代償を必要とし、一度契約すれば魂に刻まれる。呼び出せば血を求め、命を削るようにして力を貸してくれる。
もちろんチートすぎるお父様は、そんなSランクの魔物と契約している。
それがどれほどすごいことか、私は知っていた。
だからこそ、憧れてしまう。
「でも、血液を使えば使うほど強固な契約ができるんですよね?」
「まあ、そうだな。魔物は気まぐれだからな。低位の魔物などは、契約を破棄して勝手に消えることも多い」
「じゃあ、私も――」
「ステラ。俺の大事な娘に、これ以上、傷を増やさせたくない。血を伴う契約なら、俺と……もう、しただろう」
お父様は腰を屈めて私と目線を合わせ、そっと私の肩を抱き寄せた。その手のぬくもりに、胸がぎゅっと締めつけられる。
もう、あれから一年半が経とうとしている。
お父様の教え方も、最初の頃よりずっと優しくなった。私たちの魔力量はこの国でも上位一パーセントに入るほどになった。そして――私は、いよいよ来週で八歳になる。
アレスが勝手に使っていた、あの物騒な誓約魔法もようやく期限が切れる。ほんの少しだけ、安心して生活ができる。
「ディル様~!!いますか~!?」
公爵家の訓練広場にエミリオ様の明るい声が響いた。私たちが見えていないのは、お父様が結界と認識阻害の魔法を張っていたからだ。
「……エミリオか。せっかくステラといるというのに……」
呟きながら手をかざすと、エミリオ様はこちらに気づいて近づいてきた。
「ディル様~! 認識阻害魔法かけてたんですね。そりゃ気が付かないわけだ……あはは」
「わあ!アレス様、高位魔獣と契約されたんですね!すごい!」
エミリオ様は相変わらず明るくて優しい人だ。お父様だけでなく、私にもいつも優しい。使用人にも偉そうにせず、誰にでも笑顔を向ける――まるで、太陽みたいな人。
ふと、口をついて言葉が漏れた。
「エミリオ様って、綺麗なお顔をしていて、優しいですし……将来は、エミリオ様みたいな旦那様がほしいな」
それは、ただの褒め言葉のつもりだった。
けれど、空気が凍りついたような気がした。
「ス、ステラ様は僕なんかより、もっと皇子様とかの方が……ねえ、ディル様?」
エミリオ様が気まずそうにお父様を見る。だが、お父様は答えなかった。俯いたまま、目元を前髪で隠して、その表情はまるで……影のようだった。
「お父様……?」
私が覗き込むと、お父様は無言で私の手を取り、そのまま屋敷の方へと足早に歩き出した。
「エミリオ、アレスを頼む」
その一言だけを残して。
「えっ、あ、はい……!」
お父様の歩幅は大きく、私は手を引かれたまま、ほとんど駆け足でついていくしかなかった。
やっとのことでお父様の執務室に辿り着くと、ドアを閉めた瞬間、彼は振り返った。
「……ステラ。ずっと、お前に言わなければと思っていた」
「……?」
「俺は、お前を嫁に出す気はない」
一瞬、時が止まったように感じた。
私はお父様の言葉の意味をすぐに理解した。
「……私を、お母様みたいにしたくないからですか?」
「……セレーナのようにならないとは、言えないだろ」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。私は、初めてお父様に対して、怒りの感情を覚えた。
「じゃあ……私が生まれてこなければ、お母様は死ななかったから。そう思ってるんですね」
「違う。それは――」
「違わない!!今のは、そういう意味です!」
「俺が……結婚を焦ったせいなんだ。別に結婚せずにそばにいられれば良かったはずなのに」
「お父様とお母様が結婚したのが遅かったら、子供をもうけたいと思うタイミングが違かったら、私は生まれていません!!」
お父様は苦しげに髪をかきあげ、言葉を失った。
「私は……お父様の言う通りにする気はありません」
「ダメだ……。お前を他所にやるなんて、もう……耐えられない」
「六年も私を領地の屋敷で一人にしたではありませんか」
声が震えた。あの寂しかった十六年間はお父様にどう思われていようと、私が産まれたせいでお母様が亡くなってしまったからと諦めていたのに。
お父様から受ける愛情を知ってしまったからこそ、その言葉がひどく哀しく感じた。
「……だったら、私に“生きることに執着しろ”なんて言わないでください!!それを言うなら、お父様こそ、私をちゃんと愛して!」
「俺はちゃんとステラを愛してる」
涙が、頬をつうと伝った。怒りと悲しみと悔しさが渦を巻いて、止まらなかった。
「お父様は、生きて欲しいと言う割に私のすべてを縛って、私の人生を閉じ込めようとしている……!それが“愛”なら、私、そんなのいらない!!」
「私を通してお母様をみないで、ちゃんと私を愛してください!!」
私は叫ぶようにそう言って、勢いよく扉を開けた。
大きな音を立てて閉まった扉の向こうで、お父様は何も言わなかった――ただ、沈黙だけが、そこにあった。
◇◇◇
ステラが執務室を出て、しばらく。
ただそこに、茫然と立ち尽くしていた。
『私を通してお母様を見ないで、ちゃんと私を愛してください!!』
初めて、あんなに怒鳴ったステラの声。
その顔。涙を浮かべながら、まっすぐに俺を睨みつけてきた姿が、網膜の奥に焼きついたまま、離れない。
(俺は……ステラを通してセレーナを見ていたのだろうか?)
思い返すたび、胸の奥に重く鉛のような何かが沈んでいく。
ステラの顔が、セレーナの面影と重なっていたのは事実だ。
だが、それだけではない。あの子自身を、ちゃんと見ていたつもりだったのに。
外から、アレスが使い魔の上ではしゃぐ声が風に乗って届いてくる。
その明るい声が余計に、胸に痛かった。
そして段々と日が沈んでいく。
ガチャ。
「ディル様~、戻ってくると──わぁっ!!そんなところに立って何してるんですか!?」
エミリオが扉を開けた瞬間、立ち尽くしたままの俺を見て目を丸くした。
「顔、死んでますよ!?大丈夫ですか!?ほらほら、座ってくださいって」
「お茶、飲みます?認識阻害魔法かけっぱなしなら、僕が入れましょうか?えーと、これ外して──」
やたらと明るく気を遣いながらも、慌てるでもなく、いつもの調子で向かいに座ってくれるエミリオ。
無言のまま椅子に腰を下ろした俺に、彼はしばらく一人で喋っていた。
「……気を遣わせたな」
ようやく出た一言に、エミリオはふっと優しくため息をついた。
「ステラ様のこと、ですよね」
「ああ……ステラが、初めて俺に怒ったんだ」
そう口にした瞬間、胸の奥が締めつけられる。
「自分を通して、セレーナを見るなと。……確かに、俺はそうしていたのかもしれない」
「セレーナ様のようにしたくないと、そう言ったんですか。結婚させたくない理由に」
「……やっぱり、ダメだっただろうか」
「ダメですね、全然ダメです」
エミリオの口調は、いつになく容赦なかった。
「この際、ハッキリ言わせてもらいます。セレーナ様が亡くなられたことと、ステラ様が生まれたことは、切り離して考えるべきです」
「確かに、ご出産の負担が原因だったかもしれません。でも、だからといってステラ様に罪があるわけじゃない。悔やんでも、誰も救われないんです」
「セレーナ様が命を懸けてこの世に残してくださった子です。なら、ディル様がなすべきことは、ステラ様と向き合うことです。支え、愛することです。それが、セレーナ様への誠意でもあるはずです」
重く、確かに、真っ直ぐに胸を突いてくる言葉だった。
俺は、セレーナを救いたいと思い続けていた。
でも、もし時を戻せるとして、セレーナを救えるとして、その代償にステラが生まれないというなら――俺はその魔法を選ばない。
今の俺にとって、すべてはステラを中心に回っている。
夢に見ていたのは、ステラを真ん中に、セレーナと三人で笑い合う未来だった。
なのに、その夢を叶えるどころか、ステラの心に傷をつけてしまった。
「……それは、ちゃんとステラに謝る」
俺の中に沈んでいた後悔が、静かに溢れていく。
「六年間も放置していたくせに……」
「……どうしても、たった一人の娘を手放したくないんだ。恋をして、結婚して、遠くに行って……大人になって……俺の手の届かない場所へ行ってしまうのが怖い」
「……ディル様が、駄々っ子みたいですね」
エミリオがそう言って笑った。
だけど、その通りだとしか思えなかった。
情けなくても、未練がましくても、何でもいい。
ステラには、ずっと俺のそばにいてほしい。
「……それでもいい。なんでもいいから……ステラに、そばにいてほしいんだ」
声がかすれるほど、本音だった。
ステラと向き合わなければ。
けれどその前に――自分自身と、俺は向き合わなければならない。
この想いは、執着ではなく愛だと、いつかステラに伝えられるように。
初めて、人前で、こんなにも情けない姿を晒した。
俺は額を押さえ、椅子に沈むように頭を抱えた。
◇◇◇
「なぁ、本当に行くのか?」
「うん!!私は今、猛烈に腹が立ってるの!!気分転換よ!」
その夜。私はアレスと一緒に、彼の部屋のバルコニーにいた。
ガーロが静かに浮遊しながら、私たちを背に乗せている。
「……ステラ。ディル、すっごく後悔してる顔してたぜ?」
「……見たの?」
「ちょっとだけな。……でも、あんな顔のディル、初めて見た」
アレスの言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
だけど今はまだ、許せなかった。
それでも――
「……もうちょっとだけ、怒っていたいの。私も、子供だから」
「そっか。じゃあ、気が済むまで空、飛び回ろうぜ!」
「うん!」
私は前に乗るアレスの背にぎゅっとしがみつきながら、大きく頷いた。
冷たい夜風が頬を撫で、怒りを少しだけ連れ去っていく気がした。