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第八十九話 不敬への罰①

窓の外は、日に日に春の色を濃くしていた。

やわらかな陽射しが差し込むはずのこの部屋は、なぜだろうか、冷えた空気に満ちている。


目の前に立つのは、怒りを孕んだ瞳の持ち主。

銀の髪は光を弾き、黄金の瞳は燃えるように強く私を射抜いていた。


──マティアス殿下。


なぜ、今このような状況に陥っているのか。

事の発端は、ほんの数分前に遡る。


「はぁ、ちょっと図書室に資料借りてくるわ。すぐ戻る」


アレスは軽い調子でそう言い残し、転移魔法で姿を消した。

彼は誰よりも勤勉で頭が良い。二度目の人生を歩む私のように、記憶に頼った“ずる”をしているわけでもなく、愚直に知識を積み重ね、魔力の流れを研究し続けている。


……その誠実さも、努力も、私には少し眩しかった。


一方の私はといえば、机に肘をつきながら、魔力の感覚を測っていた。

魔力の糸を指先でなぞるように探る作業に集中していた、その時だった。


──バンッ!


授業中には決して開くはずのない研究教室の扉が、鋭い音を立てて押し開けられた。

静まり返った校舎に、その衝撃音はやけに大きく響き渡る。


振り返った瞬間、影が差し込む。そこに立っていたのは──


「マティアス……殿下?」


驚いて名を呼んだ途端、腕を掴まれた。

否応なく力強く引き寄せられ、手首には冷たい輪がはめ込まれる。


「っ……なに、これ──」


瞬間、魔力の流れがぷつりと途絶えた。

内側から流れるはずの力が押し込められ、息苦しいほどの無力感に襲われる。


「放して……!」

必死に振り払おうとしたが、彼の手は鋼のように固く、指一本動かすことすらできなかった。


足音が乾いた石畳に響く。

授業中で誰一人いない廊下は、不自然なほどの静けさに包まれていた。

その静寂がかえって、私が孤立していることを突きつけてくる。


どれほど抵抗しても、この状況を知る者は誰もいない──。


そして辿り着いたのは、学校使われていない前貴族塔の奥にある古びた応接室。

使用されなくなったはずの部屋だが、床に刻まれた魔法陣が微かに光り、扉が閉じられると同時に淡い結界が張り巡らされた。


透明な壁が立ちはだかるかのように、外界は完全に断たれる。

呼吸すら重たくなる閉塞感に、背筋がひやりとした。


「……っ、まさか、こんなやり方をなさるとは」


振り返ると、すでに背後には彼の影が落ちていた。

黄金の瞳は怒りで燃え、口元は強く引き結ばれている。


(ほんと……なんのつもりよ。原作にも、死ぬ前にも、こんなことは一度もなかったのに。状況が変われば、未来も変わる……そういうこと?)


唇を噛み、私は彼を真っ直ぐに見返した。


「殿下、そろそろ──ここに私を拉致同然に連れて来た理由、お伺いできますでしょうか?」

「拉致だと?俺は、皇太子としての権限でここにお前を連れてきただけだ」


低く押し殺した声に、瞳が冷たく光る。


「それなら、呼べばよかったではないですか。それか、殿下ご自身で私を捕まえるのではなく、臣下に命じることではありません?」


私は、わざと胸を張り、顎を少し上げて彼を見返した。

挑発的に響くよう、語尾をはっきりと強める。


「お前は……随分と性格が変わったようだな。それが本性か?」


マティアス殿下の声には苛立ちと戸惑いが入り混じっていた。


「先に変られたのは()()()()()()ですわ」


私はさらりと答える。

──そう、前にアレスに言われたのだ。「言いたいことを言え」と。

あの時の悔しさを思い出す。必死に弁解しても殿下は聞き入れなかった。信じてもらえず、私は心を削られ……リナに付け入られる隙を与えたのだ。


だからもう、泣いて同情を乞うような真似はしない。

悪役令嬢なら──悪役令嬢らしく。


「推測するに──殿下、私とここに二人きりになることを知られたくないのでしょう?聖女様にも黙っておられるのですか? あ……それとも聖女様の命令で?」


紅の唇をわずかに吊り上げ、わざと彼を挑発するように笑う。


「……!! 不敬がすぎるぞ!!」


マティアス殿下の声が怒りに震え、部屋の空気がぴりりと張り詰めた。


「あら、不快な思いをさせてしまいましたか。失礼いたしました──お詫び申し上げますわ」


深々と礼をするふりをしながら、私はわざと芝居がかった笑みを浮かべる。


殿下は大きく息を吐き、苛立ちを抑えるように咳払いした。


「アルジェラン嬢。君はまだリナに陰湿な嫌がらせをしているそうだな」


「……なんの話でしょうか?」

肩をすくめて、心底呆れたように答える。


「以前もお伝えしましたけれど、私はアレスと常に行動を共にしておりますの。教室を出るのは図書室へ行く時だけ。それもアレスの転移魔法で、ですわ。登下校も同じです。私が一人で動くのは──お化粧室に行く時くらいですわ」


「……知っている」


マティアス殿下は唇を歪めた。


「君は自分の手を汚さないやり方が好きだからな。あの日俺と話した直後に魔法で嘘を広め、生徒を唆してリナに泥をかけさせたと聞いている」


「……はい?」


私は一瞬、呆気にとられて瞬きをした。


(……凄いわね。あの後すぐに偽装工作? しかも私の仕業にするなんて……図太い神経にもほどがあるわ)


「殿下……まだ、彼女を信じていらっしゃるのですね」


冷ややかに告げると、黄金の瞳が怒気を孕んでギロリと私を射抜いた。


「どういう意味だ……?」


彼の声が低く唸り、空気はさらに重苦しくなる。


「私が──なんの得があって彼女を虐めるのですか?」

私はゆっくりと声を強める。


「それに……私と殿下は、数ヶ月前まで友人だったはずです。そんな愚かなことをする人間に、私が見えていたのですか?」


「はっ……」マティアス殿下は鼻で笑い、唇を吊り上げた。


「本当に……なぜ君のような人間の本性に、気づけなかったのか。自分でも驚いているよ」


「私も驚いておりますわ」私はきっぱりと返す。


「出会ってたった数ヶ月の女性に魅了されて、殿下がこうも簡単に判断を誤るなんて。……最近ご令嬢方が噂していると聞きましたけれど?」


私は意地悪く目を細める。


「皇太子殿下は聖女様に付きっきりで──皇太子としてすべき最低限の責務すら果たしていない、って」


声を潜めて囁くように言いながらも、はっきりと響くように。

──実際にその噂を耳にしたのは、死ぬ前の人生でのことだ。

当時は普通クラスにいたからこそ、あちこちで囁かれる陰口が耳に届いた。


だが、噂を聞かずとも私は知っていた。

自分の婚約者が他の女に夢中になり、皇太子としての矜持を失っていく姿を。

だからこそ妃教育は日に日に厳しくなった。

──息子心配した陛下が、私の教育をさらに厳しくするように命じたからだ。


「……っ」


殿下はきつく唇を噛み、怒気を滲ませた。

拳が小さく震えているのが見える。


腹が立っているのは──誰の目にも明らかだった。


「不敬な発言を続けるとは……君は本当に愚かだな」

「大変失礼いたしました」


私は静かに一礼した。だが背筋は伸ばしたまま、頭を下げる角度もわざと大きく。


「罰は──重んじて受け容れます」


カシャン、と金属の音が響いた。


「っ!?」


次の瞬間、左腕に冷たい重みが絡みつき、身体が鉛のように重くなる。

呼吸すら浅くなり、立っているだけで精一杯だ。


(な……なに!? 魔力が……抜けていく?)


慌てて左腕を見やると、そこには重厚な金属のブレスレットが嵌められていた。

黒い紋様がじわじわと光り、私の魔力を吸い取っていくのがはっきりと感じられる。


「それも魔道具だ」


マティアス殿下は淡々と告げた。


「先程の魔力封じとは比べものにならない。君の魔力を──完全に抜き取る」


「……魔力を完全に、抜く……?」

声がかすれる。


「ああ。君の魔力は今、この瞬間“無”だ。これを不敬への罰とする。一週間後に外してやる」


そう言って、殿下は先につけられていた方の魔道具を外した。


……身体の奥から急激に何かが失われていく。

普段の魔力量が、呼吸や血の流れのように身体に馴染んでいるのに、それが唐突にゼロになる。

魔力不足で幾度も倒れたことはあるが──「ゼロ」など経験したことがない。


(……これ……本当に……死ぬ……)


体が急速に冷えていく。

アレスやお父様なら、即座に意識を失い、最悪死んでいたかもしれない。

そんなもの……殺人未遂と変わらない。


「っ……はぁ……」

足に力が入らず、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。


「効果覿面だな」


殿下は見下ろし、わずかに満足げに目を細める。


「……こんなもの……皇国の……宝のようなものでは……」

震える声で絞り出す。


「皇国宝庫にある魔道具を、皇太子である俺が使って何の問題がある」


呼吸は荒く、胸の奥から寒気が這い上がる。

全身が小刻みに震え始め──もうまともに意識を繋ぎとめていられない。


「……殿下、ひとつ……お願いが……」


「願い?」殿下の声が冷ややかに落ちる。

「俺に、君の願いを聞く理由など──」


「この事を……聖女様は、ご存知で……?」

「……」


返事がない。

その沈黙こそが答えだった。

きっと彼は「俺が懲らしめてくる」とでも言って、一人でここに来たのだ。


「……なら、聖女様には……魔道具のこと……言わないでください」

「なぜだ?」

「……私は……一週間……起き上がることも……できません……。彼女に危害を加えるなど……不可能です……」


だから、彼女が吐く言葉が虚言かどうか……自ずとわかるでしょう。


──そこまで言うのが精一杯だった。


視界が揺らぎ、音が遠ざかる。

私はそのまま、深い闇に引きずり込まれるように意識を手放した。

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