第八十八話 素晴らしい異世界
(なんで……なんでなんでなんでッッ!!!!!!!)
爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、庭園を歩き回る。
高価な制服の裾が泥を跳ね上げ、靴音が荒く石畳に響いた。
足元に咲き誇っていた花々は、無惨に踏み潰されていく。
赤い薔薇の花弁が靴に潰され、黒泥と混じってぐしゃりと潰れた。
「はぁ、はぁ……っ」
息は荒く、胸の奥で怒りが渦巻いて抑えられない。
頬は紅潮し、唇は噛みしめすぎて血が滲む。
それでも止められない。
この世界に来てから、私の人生は薔薇色に変わったはずだった。
──そう、あの日までは。
最初こそ、マティアスは警戒していた。けれどすぐに私の虜になった。
私の顔は可愛く、声は澄んでいて、現実の日本とは比べものにならない身体を私は与えられた。
長い脚、引き締まった腰。貴族の少女たちにも負けないほどの美貌。
そして能力。特別な「力」を、この私だけが持っていた。
(私の物語は、完璧に進むはずだったのに──!)
けれど私は出会ってしまった。
マティアスを凌ぐ美貌の持ち主、ディル様に。
さらに……私の理想をそのまま形にしたような、超絶顔整いのアレス様に。
胸が焼けるように熱くなる。
脳裏に浮かぶアレスの横顔は、まるで光を纏っているみたいに美しい。
マティアスは蝶よ花よと私を大切に扱い、
ディル様は影からすべてを排除し守ってくれる。
二人とも、私を世界の中心に据えてくれる存在。
(そう、私に相応しい男たち……!)
だから、私は決めていた。
皇太子マティアスと結婚し、この世界の頂点に立つと。
彼の顔と立場は、私の未来に相応しい。
ディル様は惜しいけれど……歳が離れすぎている。
妻を亡くした未亡人で、娘までいる。
(それに……死人には勝てないもの)
それでも、彼には私に夢中でいて欲しかった。だから邪魔なステラを排除して──
──それで、全ては完璧になるはずだったのに。
「アレス様……」
名前を呼ぶと同時に、胸がちくりと痛む。
彼の存在が、全てを狂わせた。
皇太子妃なんて責任が重すぎる。
四六時中、国のために働かされるなんてまっぴらごめん。
けれどアレス様の隣、次期公爵夫人なら──
美貌も権力も財も手に入れたまま、楽に遊んで暮らせる。
(そうよ……それが最高の人生!)
なのに。
なのにどうして。
「なぜ……なぜアレス様は私を好きにならないのよッッ!!」
喉が裂けるほどの叫びが庭に響いた。
花を踏み砕く音がやけに耳障りで、余計に苛立ちを募らせる。
蹴り飛ばした白百合が泥にまみれ、無惨に崩れた。
怒りで震える手を胸に押し当てる。
瞳には涙がにじむが、それは悲しみではない。
悔しさと憎しみで、目尻が赤く染まっていく。
──今日。なぜか、マティアスもディル様も、私の言葉を信じなかった。
いつもなら、何があっても庇ってくれるはずなのに。
いつもなら、私だけを見ていてくれたはずなのに。
「……そう。全部あの女のせいね」
低く、唇を歪めて吐き捨てる。
ステラ。いつも邪魔なあの女。
そしてフリエッダという妙な女
それに、今日出てきたニヴィアという女まで。
「許さない……絶対に許さない」
血走った瞳で、泥に沈む花弁を踏み潰す。
ぐしゃり、と音がして、濁った水が飛び散った。
口元には笑みが浮かぶ。狂気を帯びた、醜悪な笑み。
「絶対にアレス様を手に入れる……!顔整い三人に囲まれる最高の人生は、私のものなのよ……!」
庭園に吹いた風が、怒りで紅潮した頬を撫でる。
けれど冷やすことはなく、彼女の瞳に宿る執着の炎は、ますます燃え盛るばかりだった。
◇◇◇
泥でぐちゃぐちゃになった靴が、廊下に汚れた跡を残す。
制服にまで泥が跳ね、ぐっしょりと濡れて重い。
歩くたびに泥が床に滴り落ち、生徒たちがひそひそと囁きながら私を見た。
「なにあれ……」
「泥まみれ……?」
「まさか、誰かにかけられて?」
ジロジロと浴びせられる視線に、私は背筋を伸ばして歩き続ける。
心臓が高鳴る。──でもそれは恥ずかしさなんかじゃない。
彼らの視線は、私を舞台の主役に押し上げる照明みたいなもの。
(さあ、次の幕が開くわ──)
特別室の扉を押し開けると、マティアスが優雅に紅茶を口にしていた。
淡い光を受け、銀色の髪が輝いて見える。
その姿すらも、私にひれ伏す観客のように思えた。
「リナ、どこに行っていたんだ? 心配───それは!?」
マティアスの目が大きく見開かれる。
その驚きの顔を見て、私は胸の奥でくすりと笑った。
けれど顔の表面には、震える唇と涙を浮かべる。
「……ぅ、ステラ様の味方の生徒の方に泥をかけられて……」
「なんだと……!? つい先程のことだろう、どういうことだ!」
「ですが……私がステラ様の嘘を吹き込んだと……きっとさっきの会話がいいように改竄されて広められているんです……」
ぽろ、ぽろ……と頬を伝って落ちる涙。
私は椅子にも座らず、彼の前で俯いた。
演技の女神が降りてきたように、私は自然に泣けた。
──いや、違うわね。私の顔も声も美しいから、泣くだけで絵になるのよ。
マティアスの拳が震えた。
「……クソ、あいつら……」
(よかった。さっきとは違う。今は完全に私だけしか見えていない)
「でも……我慢するわ。だって私、彼女たちを許すと言ったんだもの。更生のチャンスを、と……」
「リナ……慈悲深いのは分かっている。だが、いつ君が危害を加えられるか……。どうにか証拠を集め、罰するべきだ」
──証拠? それがあれば彼女を排除してくれるの?
なら、作ればいい。私の手で、彼女を罪人に仕立て上げられる完璧な証拠を。
「罰だなんて……そんな……」
「いや、この世には罰を与えねば分からぬ者がいるのだ。愚かなことにな」
私は一瞬だけ、口角をつり上げた。
そしてすぐに涙で濡れた瞳を上げ、甘く震える声で囁いた。
「それでも……わからなかったら?」
「……暴言程度なら社交界からの追放で済むだろう。だが、暴行ともなれば捕らえられ、体罰を受けることになる」
体罰、ね。
私の胸にぞくりとした愉悦が走る。
甘い罰遊びみたいなもの? そんな生温いもので済むと思っているの?
ディル様は言っていた。──処刑囚になれば家族すら殺せると。
(ああ、いいこと思いついた……)
本当、この国は甘くない。むしろ、好都合すぎるくらいだわ。
「もし……もしも、私の命が狙われたら?」
「リナ……!? まさかそんなことまで……!?」
「いえ……ただ、怖くて……」
再び涙を溢れさせる。震える肩。弱々しく見せかけた姿。
マティアスはすぐに立ち上がり、私を抱き寄せた。
温かな胸に顔を埋めながら、私は目を閉じる。
「大丈夫だ。俺が守る……。だが、もしそんな恐ろしいことが起きたら──その者は処刑台に立つだろう。皇帝も必ずお許しになる……」
「ああ……恐ろしいわ、マティアス殿下……」
──笑いを堪えるのに必死だった。
現実世界と違い、この国は「尊き身分」のために、処刑が容易に選ばれる。
なんて素晴らしいシステムなの。
(はやく、はやく……)
皆が私を愛せばいい。
そのためなら何でもしてやる。
──私より美しい女は、全員、消してしまえばいい。
私の口元には、涙と相反する妖しい笑みがこぼれていた。




