第八十七話 皇子
「バレてた……」
よこからくちをはなむかのような零れたその言葉に、ニヴィア様は驚きの素振りを一切見せなかった。
むしろ、彼女は顎にしなやかな指先を添え、静かに頷いた。
「……やはり、そうでしたのね」
細く吐き出すようなその声音は、まるで長い謎が解けた安堵を含んでいる。
「腑に落ちました。以前から少しだけ違和感を感じていたのです。普段からの公爵閣下への言葉遣い、王宮の舞踏会を欠席されたこと……そして──」
彼女はそっと視線を上げ、アレスの顔を見つめる。そこに宿る黄金の瞳が、揺れる蝋燭の光を反射して輝いた。
「なによりも、その煌びやかな瞳。……陛下にそっくりですので」
淡い微笑み。凛としたままの姿勢。
まるで真実を見通していたかのような確信を帯びながらも、軽々しくは口に出さなかった気品がそこにあった。
「けれど、皇子は皇太子殿下お一人だと聞かされております。確証のないまま騒ぎ立てるのは愚か。だから、今日まで沈黙しておりましたの。でも……今は、スッキリ致しましたわ」
にこりと花がほころぶように笑むニヴィア様。
その笑みを前に、私は無意識に視線を落としてしまった。
「隠していてごめんなさい。侯爵領に向かう折には、きちんとお話ししようと思っていたのですが……」
言葉は自然と俯いた唇からこぼれ落ちる。罪悪感にも似た重みが胸を圧していた。
しかし、彼女はなんでもないことのように小首を傾げた。
「あら、そんな……当然でしょう?これは国家の最高機密。公爵家の当主など、知るべき立場の方しか触れられない話ですわ。……むしろ驚きましたのよ、ステラ様。わたくしに打ち明けようとしてくださっていたなんて」
澄みきった声音。責める色は一片もなく、ただ事実を受け止める冷静さと聡明さ。
その姿に、私は改めて思い知らされる。
──この人は、公爵令嬢である私などよりも、ずっと礼儀とをわきまえた、誇り高い女性だと。
「私、まだ言えていないことがありまして……」
躊躇うように言葉を探すと、ニヴィア様はすぐに微笑を返してくれた。
「ステラ様。今、無理にお話しなさらなくて結構ですわ。……伝えると決められたその時に、あなたの口から聞かせてくださいませ」
「……わかりました。お気遣いありがとうございます」
胸の奥に少し灯がともる。受け止めてもらえた安心感に。
その瞬間、彼女はスカートの裾を摘み、くるりとアレスの方へ向き直った。
そして──教本に描かれる挿絵のように優美な動作でカーテシーを捧げたのだ。
「第二皇子殿下に、ご挨拶申し上げます。これまでの不躾な言葉遣い、深くお詫びいたします」
「ニヴィア嬢、やめてください」
アレスは顔を歪め、咄嗟に手を伸ばして彼女を制した。
「俺は皇室を出た身です。ずっと“いないもの”として扱われてきた。今さら皇子などと呼ばれても……」
「いいえ」
ニヴィア様の返事は一瞬だった。
その瞳は揺るぎなく、まるで彼女が皇宮の一角に立つ女神であるかのように真っ直ぐで。
「あなたは確かに皇子です。皇太子殿下に何かあれば、皇位継承権はあなたにございます」
「……いや。俺は継承権を破棄するつもりだ」
重苦しい言葉が空気を震わせた。
継承権の破棄。
それは単なる意志では成り立たない。
──まず、皇帝の許可が必要。許しが下りなければ、どれほど強く願おうとも破棄は叶わない。
──そして、二つ目に必要なのは公の場での宣言。建国記念祭など……国家中枢に属する者たちや国民の前での正式な告知。
それは「皇帝の裁可」であり、同時に「民の承認」でもあった。
だが。
アレスの存在は隠されてきた。
人前に立たせること自体が許されぬのなら、宣言などできはしない。皇帝の許可さえ、取りつけられないかもしれない。
隠していた事実への非難。
生まれを巡る憶測。
そして、彼が表舞台に立つその日から、もう静かには生きられなくなる未来。
彼の母──聖女であり、死んだはずの側妃。
公にできぬことを隠したまま、アレスは「皇室の私生児」と呼ばれる可能性すらある。
彼の母は公称では、平民出身。側妃に召し上げられてなお「卑しい血」と蔑まれたと聞いた。
私生児だと噂が広がればそれよりももっと酷い言葉で蔑まれるだろう。
それはあまりにも、酷く理不尽で……
胸の奥に、鉛のような重みが広がっていった。
「アレス……私は反対よ」
静かに、けれど確かな重みを込めて口にした。
「ステラ、心配してくれているのはわかる。けど、それが最善なんだ。なにも言われようと」
アレスは俯くことなく、まっすぐに私の瞳を見ていた。
その視線は突き刺さるように強く、決意が宿っている。
ニヴィア様が頷きながら言葉を重ねた。
「私も、賛成です。破棄することで心無い言葉を投げられるのでしょうが……命までは狙われなくなります」
さらりと口にされた「命」という言葉が、空気を震わせた。
彼女の声音はあまりにも平然としていて、余計に現実味を帯びる。
(……そうだ。昔、刺客が皇后から送られていた……)
ちらりとアレスを見ると、その横顔は険しかった。
ああ、やっぱり。私が知らないだけで、彼はいまもずっと戦っている。
表には出さないけれど、影では狙われ続けていたんだ。
ただ昔と違うのは、彼自身が強くなり、跳ね除けられるようになったというだけ。
「アレス、もしかして……まだそんな危険な目にあっているの?」
震える声で問うと、彼は一瞬だけ視線を逸らした。
「いや、大した相手じゃない。ただ……」
深く息を吐いて、視線を戻す。
「子供の頃のように、またステラを狙うかもしれない。それが一番怖いんだ」
胸の奥がずきりと痛んだ。
──六歳のとき。私が誘拐されたあの出来事。
アレスを狙ったはずの刺客たちは、代わりに私をさらっていった。
そして魔物を放ち、お父様が駆けつける前に逃げていた。
あの記憶が鮮やかに蘇る。
アレスはあの時の再現を恐れているのだ。
でも、私にとっては違う。アレスが自由に生きられることの方が、何より大事なのに。
「気が付かなくて、ごめんなさい……」
小さく呟くと、アレスは苦笑した。
「いやいいよ、俺が隠してたんだ。不安な思いをさせたくなかったから」
その優しさが胸を締めつける。
フレッド様がふっと肩を竦め、軽い調子で口を挟んだ。
「まぁ、どっちにしろリスクを背負うわね。私は命の方が大事だと思うし、アレスくんに賛成かな」
アレスは静かに、しかし力強く告げた。
「俺は、継承権破棄を辞めるつもりはないよ。ディルにも元々時期を相談していたんだ。ただ、あまり早くにするのは良くないと話していた。マティアスが皇太子としてもっと力を強めてからじゃなければ、魔力が強い皇子がいることを公開したがらないから、時期をみていたんだ。……ステラ、だからお前がやめろと言っても、辞める気はない」
言葉の一つ一つが重くて、胸に沈んでいく。
理解はできる。けれど、不安は消えない。
(皇后陛下……彼女が息子の地位を守るためなら何をするか。
継承権破棄の前に、アレスの存在を潰そうと焦るかもしれない。
彼より強い魔法使いに依頼して──たとえば、お父様のような……)
ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
「受け入れるしかないのは、わかったわ」
唇を噛みしめて答える。
「だけど……少しだけ、頭の中を整理させて」
「うん」
アレスは短く頷いた。
彼の金の瞳には、揺るがない決意が宿り続けていた。




