第八十六話 悲劇のヒロイン②
「えー……マジこれなんの冗談?」
フレッド様は額に冷や汗を浮かべ、力なく笑みを作りながら両手を上げた。
彼の翠色の瞳が、わずかに揺れている。
お父様の冷たい視線が彼を射抜いていた。
数ミリ先に突きつけられた魔剣の刃先は、光を反射し、まるで氷のように青白く輝いている。ほんの少しでも動けば──その鋭い切っ先が眼球を貫くだろう。
フレッド様はじり、と足を後ろへ滑らせた。けれど意味はない。
彼が退くのに合わせて、お父様は剣を微動だにさせず距離を詰める。
その動きは緻密で、まるで刃先と瞳の間の「ミリ単位の隙間」を完璧に理解しているかのようだった。
(さすが……国を代表する騎士団の団長。遊びでも牽制でもない。本当に狙ってる……)
息を呑む音が、あちこちで重なった。
ニヴィア様が口元に手をあて、青ざめた顔をしている。アレスは剣の柄を握りしめたまま、お父様の一挙手一投足を見逃すまいとするように睨みつけていた。
「で、どうする?」
お父様は低い声で言い放ち、剣を押し込むようにほんのわずか前に動かす。
「リナ。私はお前の言う通りにしよう」
その名を呼ばれた瞬間、リナの肩がぴくりと震えた。
迷っていた。視線は床と私を行き来する。
(ほら……迷ってる。私たちをどうするか、利用価値があるかないか……それで判断しようとしているんだわ)
先日までは、私の処刑を思い浮かべていた顔。
今、彼女は聖女として人前に立ち、どう振る舞うかを必死に計算している。
「わ、わたしは……」
リナは一度目を閉じ、涙で濡れた頬を両手で押さえながら、声を震わせた。
「彼女たちを許します……」
(え……)
私の胸が一瞬止まったように感じた。
驚いた。だってその答えは、前の人生には出てこなかった言葉。
これは漫画で読んだ原作通りのセリフ。
(あのとき……私一人のときには、こんな言葉は出てこなかったのに……)
「私は……聖女です。神に近しい存在。だから……彼女たちに、更生のチャンスを与えます」
声は弱々しく、それでいて教室に染み渡るほど澄んでいた。
リナの大きな瞳には涙が溜まり、光を宿している。
その瞬間、窓が開いているわけでもないのに、ふわりと風が流れ込んできた。
黒髪が柔らかく揺れ、光を受けて輝く。
まるで舞台の照明が当たったかのように──彼女の姿は「聖女そのもの」だった。
私は思わず、喉の奥で小さく吐き出してしまった。
「……こう見ると、ヒロインそのものね」
誰にも聞こえないくらいの声で、ぽつりと。
胸の奥にひりつくような感情が広がっていく。
なぜ、私は悪役令嬢なのだろう。
確かに漫画の中では、彼女に熱い紅茶を掛けたり、クラスメイトに脚を引っ掛けさせ転ばせたり、教科書を魔法で粉々にしていた。
けれど、前回も今回も私はそんなことはしていない。
今回は、フレッド様と婚約すらしていない。お父様との信頼も築いてきたはず……。
──なのに。
なにが不満で、虚言を吐き、私たちを悪者に仕立て上げて……あまつさえ「許す」だなんて、ヒロイン面をするの。
悔しさで胸が焼ける。拳を膝の上でぎゅっと握りしめた。
そのとき、アレスが私の肩を軽く叩き、すっと耳元に顔を寄せてきた。
吐息がかかるほど近くで囁く声は、誰にも聞こえない。
「言いたいことあるなら言ってやれ。どうせ今お前が何を言っても変わらない。だったら好きなだけ言え。あとは……俺に任せろ」
背中を押されるような言葉だった。
私は顔を上げ、まっすぐリナを見据える。
そうだ。どうせ、悪役令嬢なら──。
弁解なんて無意味。信じてくれる保証はない。ならば、私の気持ちをぶつけてやろう。
(ありがとう、アレス)
「私は、許して欲しいなんて思っていません」
声は震えていなかった。胸の奥から響く、自分でも驚くほど強い声。
「何もしていないのに、なぜ私たちがあなたの許しを得なくてはいけないのですか?」
場が一瞬、静まり返った。
私は胸を張ってつづけた。
「虚偽で人を陥れたその時点で、あなたは聖女ではなく“加害者”です。
赦しを求めるのは、むしろ私たちではなく、あなたの方ではありませんか?」
「……」
リナの顔からは涙が消え、驚きと苛立ちが浮かぶ。
けれど私は視線を逸らさない。
(今回は私だけじゃなく、みんなを巻き込んでる。許せないのはこっちだ。今はひとりじゃない。弱気になっちゃダメ)
そのとき、アレスが鼻で笑った。
「そもそも、なんなのお前……」
呆れたように、吐き捨てるように言う。相変わらず口の悪さは天下一品だ。
「わ、私は聖女で──」
「は?」アレスは途中で遮る。「虐められたって嘘ついて、そんなに男にちやほやされてぇのか?だから、売女だって言われんだろ」
空気が一変した。
フレッド様に向いていたお父様の魔剣が、音もなくアレスへと向けられる。
「お前、今なんと言った?」
ピクリと眉を動かし、怒りをあらわにするのはマティアス殿下だ。
瞳に炎を宿し、椅子から立ち上がらんばかりの勢い。
だがアレスは怯まず、むしろ挑むように口角を上げた。
「本当のことを言っただけだ。ステラは、毎日ほぼずっと俺と行動してる。いつこの女を虐める時間がある?
虚言を吐いて、男にかまって欲しい売女のようだって言ってんだ」
「わ、わたし……嘘なんてついていません……!!」
リナは両手を胸に当て、泣き顔を作って声を上げる。必死の演技だ。
その瞬間、それまでずっと黙っていたニヴィア様が一歩前に出た。
彼女のドレスの裾が静かに揺れる。
堂々とした所作でリナに向き直ると、涼しい声で言葉を放った。
「聖女様。わたくし、ノヴァトニー侯爵の娘ニヴィアと申します。失礼ながら、少々質問をしてもよろしいでしょうか?」
「え、ええ……」リナの声がわずかに震える。
「直近で、ステラ様たちに暴言などを吐かれたのはいつになりますでしょうか?」
「え、あ……一週間前とかかしら?正確な日付は覚えていないけど」
「そうですか。それでしたら──」
ニヴィアは口元に手を添え、目を細めた。
「ここ数週間ほど、わたくしは授業以外は毎日こちらに通い、ステラ様方とご一緒しております。もし聖女様が虐めを受けたと仰るならば、それは授業中のことでしょうか?」
「ト、トイレに行った時に……」
「まぁ」ニヴィアは上品に首を傾げ、扇で口元を隠す。
「聖女様は研究クラスの目の前にあるお化粧室にまでお越しになるのですか?同じフロアとはいえ、かなり距離がございますのに」
──ざわ……
空気がざわめく。ニヴィアの言葉には揺るぎない重みがあった。
ノヴァトニー侯爵の娘。
厳格な侯爵によって、彼女の言葉は家の名を背負っている。曖昧さや中途半端さは許されない。
この場の誰もが、それを理解している。
リナを除いて、全員が。
「わ、私は……本当にステラ様たちに……」
リナの声は掠れ、揺れる肩と震える指先は、まるで捕まった小鳥のように必死に羽ばたいても逃げられない姿を思わせた。
「……リナ。なにか、勘違いをしていたのではないか?」
マティアス殿下が静かに言葉を落とす。
その声音は柔らかくとも、有無を言わせぬ圧があった。
それに呼応するように、お父様もアレスへと突きつけていた魔剣を音もなく下ろした。
刃先が空気を切る鋭い音がやけに耳に残る。
「いや、違っ───」
リナは慌ててマティアスを見上げる。
しかし彼の瞳は揺るぎなく、ただひとりを信じる光を宿して彼女を射抜いていた。
「……勘違いかもしれないです」
絞り出すように呟いたその声は、誰の耳にも届くほど小さく、弱々しかった。
「だ、そうだ。では失礼」
マティアスはそれ以上追及せず、裾を翻して踵を返す。
黒靴が床を叩く音が無情に響き、彼とリナ、ディルがそのまま教室を去ろうとした。
だが、その背をアレスの声が射抜いた。
「おい、謝罪はねぇのか? 嘘ついて加害者に仕立て上げられて、剣を向けられて……“勘違いだった”で済むわけねぇだろ」
怒気を孕んだ声に、空気がぴりりと張り詰める。
マティアスは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
その顔には冷笑が浮かんでいる。
「お前が彼女に暴言を吐いたのは事実だろう。……殺されなかっただけ、ありがたく思えよ。リナの慈悲だ」
その言葉を最後に、三人は出ていった。
閉じた扉の音がやけに重く響き、場に残ったのは不快な余韻だけ。
◇◇◇
「ニヴィア様、助かりました。ありがとうございます」
「俺からも礼を」
私たちは同時に頭を下げた。
するとニヴィア様はふんわりと微笑み、首を横に振った。
「いえいえ、そんな。本当の事を言ったまでですわ。……それに、皇太子殿下と公爵閣下のご様子、やはり異常でしたわね。何かご事情が?」
その目はただの好奇心ではなく、冷静な観察者のものだった。
「はい……私たちも詳しくはわかりませんが、聖女様が関わっているのではと推測しています」
「そうですね。まるで物語に出てくる“魅了魔法”のようでしたわ」
「やっぱり、ニヴィア様もそう思うのですね」
「ええ……でも、あれは禁忌魔法。使えるはずがありませんもの」
ため息がこぼれ、肩が少し落ちる。
その時、ニヴィア様の視線が横に流れ、アレスへと注がれた。
まるで探るような、真剣な眼差しだった。
「あの……アレス様」
「はい」
「アレス様は、皇太子殿下と親しかったのですか?」
彼女の問いは正当だ。
あの場で皇太子に対して無礼を口にできる者など、普通はいない。
「いや、親しくないけど……」
アレスは平然と答える。だが、ニヴィア様は納得しきった様子で、さらに言葉を続けた。
「これは私の推測ですので、間違っていたら笑ってくださいね」
「はい……」
なぜだろう、胸の奥に嫌な予感が広がっていく。
「アレス様って……皇子様だったりしますか?」
……その瞬間、空気が一瞬にして張り詰めた。
「あ、バレてた」
横からのフレッド呟きは、あまりにもあっけなく、場の静けさを壊した。




