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第八十五話 悲劇のヒロイン①

魔法学校の貴族塔──特別室。

磨かれた大理石の床に紅の絨毯、重厚なソファに寄り添う二人の影。


リナは涙で睫毛を濡らし、両手を胸に押し当てて震えていた。

「……怖いんです……。ステラ様、すれ違うたびに暴言を……フリエッダ様も、睨んでばかりで……」


彼女の声は震え、こぼれる涙が真珠のように頬を伝う。

それはあまりに儚く、守らなければ消えてしまいそうな姿だった。


「リナ……安心してくれ」

マティアスはすぐに彼女の手を握り返し、真剣な眼差しで答える。

「君がそんな苦しみに耐えていたなんて……僕はなんて無力なんだろう。だが、もう心配はいらない。アルジェラン公爵に報せを送った。必ず力になってくれる」


そう言った矢先、転移魔法の光が室内を満たし、ディルが姿を現した。

黒衣の軍装に身を包み、鋭い眼差しを持つ男。だがその視線も、今は目の前で泣き崩れるリナに囚われる。


「ディルさまぁ……!」

リナは駆け寄り、その胸にしがみついた。


普段ならば迷惑そうに腕を払うはずの彼も──今は彼女を抱き留めるように立ち尽くしていた。


「どうした、なぜ泣いている?」

低い声は、怒りよりもむしろ焦燥を帯びている。


マティアスが真剣な面持ちで告げる。

「ステラたちに、酷い扱いを受けているのです。イジメ紛いのことを……」


「……なんだと?」

ディルの瞳が鋭く細まる。

「……ステラが、そんな幼稚な真似を?」


「そ、そうなんです……私、毎日が辛くて……。でも、信じてもらえないのが一番怖くて……っ」

リナはすすり泣き、震える声で訴える。


ディルは彼女の涙を見てしまった。

マティアスは彼女の震える声を聞いてしまった。


──それだけで、二人には充分だった。

リナの言葉に矛盾があろうと、証拠がなくとも、彼らは疑うという発想すら持てなかった。


まるで真実の女神が告げた声のように、彼女の口から出る一言一句を……彼らはただ信じるのだ。



◇◇◇


いつの間にか、私たちの教室には毎日のようにニヴィア様とフレッド様が足を運ぶようになっていた。

陽の光が差し込む窓際。木製の机の上には整えられた教科書と羽ペン、そして可愛らしく飾られた小箱が置かれる。


「よかったら、これ……アレス様に」


ニヴィア様が両手で大切そうに箱を差し出す。箱には花を模した金色の装飾が施されていて、彼女の指先の震えが伝わってくるようだった。


「ん? なにこれ?」

アレスは首を傾げ、柔らかな笑みを浮かべながら受け取る。


「その……希少なお花を抽出した香水らしくて……アレス様に似合うのではないかと」


アレスは興味深げに蓋を開け、小瓶を取り出すと、手首にひと吹きかけた。

ふわりと漂う香りが教室いっぱいに広がる。甘さの中に爽やかな青葉の香りが混じり合い、春風のように心を撫でていった。


「わ……いい香りだ。使わせてもらうよ、ありがとう」


そのときのアレスは、絵に描いたような好青年だった。明るく柔らかな笑顔で、誰の心にも迷いなく届くような声を響かせる。


「い、いえ……」

ニヴィア様は思わず俯き、頬を真っ赤に染めた。


(ああ……この状況をどうしたらいいのだろう)


胸の奥で、私は小さく呻いた。

ニヴィア様には、私とアレスの関係を話していない。義理とはいえ姉弟だ。恋愛関係など、想像の外に違いない。

それだけではない。アレスが皇子であることも──彼の母が聖女で、彼女を探す旅に出ることも──まだ何ひとつ知らされてはいない。


私とアレスの間にある「秘密」はあまりに多すぎた。

だからこそ、せめて馬車で領地へ向かう道中に、少しずつでも打ち明けようと決めていた。


けれど今の彼女が知っているのは……聖女リナと私たちの関係が険悪だということくらい。


(ニヴィア様には、隠し事をしたくないのに……)


小さなため息を、胸の奥で押し殺した。


すると、ニヴィア様が私の方へと向き直り、再び両手で小さな箱を差し出した。

「はい、これはステラ様にです」


「え、私にも?」

思わず目を見開く。


「ぜひ……開けてみてください」


彼女の期待を込めた瞳に促され、私はリボンを解き、ゆっくりと箱を開けた。

中には、淡いピンク色のリボンの髪留めが入っていた。柔らかな光沢を放つリボンの中央には、小粒の宝石がいくつも埋め込まれ、光を受けてきらきらと瞬いている。


「か、かわいい……」


思わず声が漏れると、ニヴィア様は嬉しそうに微笑み、くるりと背を向けた。

「実は……私とお揃いなんです」


彼女の長い金の髪に結ばれていたのは、氷のように澄んだブルーのリボン。光を受けて透き通るように輝き、その姿はまるで精霊そのもののようだった。


「ステラ様の瞳の色のブルーも素敵ですが……きっと美しいステラ様には可愛らしい色も似合うのではないかと思って……。私のは……その……」


そこで、ちらりとアレスを横目で見やる。

私は瞬時に察した。──彼女は、アレスの髪色を思い浮かべたのだ。

男性に香水を贈るという行為が特別な意味を持つように。ニヴィア様の心は、隠しようもなく彼へと傾いている。


「ありがとうございます。つけてみてもいいですか?」

「ぜひ! つけて欲しいですわ」


私は髪をまとめていた飾りを外し、彼女から貰ったリボンを結わえる。

鏡がなくとも、その場の空気で自分の姿が変わったのがわかった。


「どうでしょうか?」

振り返ると、ニヴィア様の瞳がぱっと輝く。

「とても……とてもお似合いですわ! ステラ様、とっても可愛い」


その無邪気な笑顔に、胸の奥が少しだけ痛んだ。

髪飾りの金具に触れていた指先が、ひんやりと冷たさを覚える。


「ねえねえ、ニヴィアちゃん。私には?」

横から割り込むようにフレッド様が覗き込み、冗談めかして唇を尖らせる。


「まあ、あなたにはなくってよ」

ニヴィア様はきっぱりと言い切り、ぷいと顔を背けた。


「えぇーー、酷いわ」

フレッド様が大げさに肩を落とす。


小さな笑いと温かな空気が教室に広がる、その瞬間。

──ギィ、と扉が軋みを上げて開いた。


「失礼する」


重い扉が開かれる音とともに、マティアス殿下とリナが教室へと入ってきた。

彼らの足取りはためらいなく、まるでこの空間を自分たちのものだと主張するかのように。


(ああ……やっぱり来たのね)


胸の奥がずしりと重く沈む。

予感は確信へと変わる。教室の外にはきっとお父様がいる。

リナの虚言──私から受けている“イジメ”を、直に見届けるために。


それは前の人生でも同じだった。

あの時、皇宮で私が婚約者だった頃、リナと共にマティアス殿下、そして父が私を責めに来た。

弁解を重ねても、リナは涙に濡れた頬で「酷い」と繰り返すばかり。


そしてマティアス殿下の口からは、皇太子とは思えぬ汚い罵倒の数々。

胸を抉るような言葉を浴びながら、私は壊れていった。

その様子を、父は興味もなさそうに冷ややかに見下ろしていた──まるで他人を見るように。


原作漫画では、あの場面は「ヒロインを守る皇太子の初めての見せ場」だった。

聡明で冷静な彼が、悪役令嬢を鮮やかに論破する……華やかな場面。

けれど現実の彼は、ただ人を追い詰める言葉しか選べなかった。


(……やっぱり。これはあの時の繰り返し。違うのは、舞台が皇宮からこの教室に変わっただけ)


私は胸の奥で深く息を押し殺した。


「マティアス皇太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」


丁寧に礼を尽くすと、彼は鼻で笑った。


「挨拶はいい。今までだってしていなかっただろう。なにか卑しいことでも隠していたのか」


(それは、殿下ご自身が『友人として呼べ』と仰っていたからでしょうに)


胸の中で冷ややかに思い返しつつ、私は口に出さずに微笑んだ。


「そうでしたかしら。それは失礼いたしました」


小さく頭を下げた、その瞬間。


「おい、お前な───」


隣からアレスが一歩前に出ようとした。けれど、私は彼の腕を掴み、そっと制した。

その手を止められたアレスは苦々しげに眉を寄せる。


マティアスはその光景を見て、薄笑いを浮かべた。


「はっ、女の言いなりとは。落ちぶれたな、アレス」


「女の言いなりになってるのはどっちだよ」


アレスの声は、氷のように冷たい。

マティアスが吐く言葉を、心底理解できないとでも言うように。


しかし殿下は表情ひとつ変えず、胸を張って告げる。


「今日私は、国の宝である聖女を虐げるその女を、皇太子として忠告しに来たのだ」


「虐げる?……何言ってんだお前」


アレスの美しい声が響き渡る。

透き通ったその音色が、教室の空気を震わせた。


と、そこでリナが一歩前に進み出る。

瞳に涙を浮かべ、声を震わせて──まるで悲劇のヒロインのように。


「本当なんです……私はステラ様に暴言を吐かれ、フリエッダ様に睨まれ続けて……怖い思いをしているんです……」


震える指先でスカートをぎゅっと握りしめ、今にも崩れ落ちそうな様子を見せる。

その演技が、純情な殿下には真実にしか映らないのだろう。


「アレス様も、ステラ様に命令して……あんな酷いことを言ったのでしょう!?」


「……は?」


アレスの目が大きく見開かれた。

呆気にとられ、吐き出したのはただ一言の困惑。


(そう……リナは”悲劇のヒロイン”。原作通りに)


けれど実際の彼女は──ただ周囲を絡め取り、自分を守らせるだけの狡猾な女。


そしてマティアス殿下は、彼女の涙を見つめながら吐き捨てる。


「……はぁ、可哀想なリナ。どうしてこいつまで、あんな女の言いなりになっているのか……」


彼の瞳には怒りと軽蔑が宿り、次に続くのはまたしても容赦のない暴言だった。


「リナを泣かせてなお白を切るのか……本当に卑しい女だな。

公爵令嬢だからと威張っているだけの小娘が、聖女を妬んで虐げるなど、恥知らずにも程がある。


見ろ、お前の父君も外で黙って見ている。

自分の娘の醜態に言葉を失っているのだろう。

……公爵も可哀想にな。最愛の妻を失ったあげく、残されたのはこんな娘か」


その言葉に合わせるように、マティアスは唇を冷笑に歪めた。リナは彼の袖を掴みながら、肩を大げさに震わせ、ますます涙を流している。


やっぱり同じだ。

殿下の私への酷い言葉は、前の人生とそっくり同じ。

そのときの私は……ただ静かに涙を流しながら、「そんなことはしていない」と小さく否定するしかできなかった。


胸の奥が抉られる。記憶が心を刺し、呼吸がひゅっと詰まる。


「お前、本当にいい加減にしろよ」


アレスの低い声が怒りに震えた。彼の拳は血がにじむほどに固く握られ、腰の剣の柄に手がかかる。金の瞳が鋭く燃え上がり、今にも抜刀しそうな気配を放つ。


「ほう、今の身分で、皇太子の私に剣を向けるのか?」


マティアスは薄い笑みを浮かべた。挑発だ。

剣を抜けば即座に反逆者として捕らえられるか、この場で首を刎ねられる。そんな意図が見え透いている。


「アレス、お願い。手を下ろして」

「けど──!!」


私が必死に腕に触れ、震える声で制止すると、アレスは歯を食いしばったまま動けなくなった。


そのとき。


「……はぁ、いつまで時間をかける」


低く吐息まじりの声。黒い軍服の裾を揺らしながら、お父様が教室に入ってきた。

刹那、教室の空気が凍りつく。冷たい鉄の匂いが張りつめたのは、彼がためらいなく腰の剣を抜いたからだ。


「リナ。どうしたい」


氷の刃のような声。父は剣を片手に持ちながら、表情ひとつ動かさず続ける。


「そうだな……ここで誓約魔法をかけさせよう。君に故意的に近付けば腕を落とす。それから、暴言を吐けば舌が抜けるようにしようか」


あまりにも平坦に、当たり前のように、恐ろしい言葉を並べ立てた。


「い、いや……私はそこまでは望んでませんわ……」


リナは青ざめて首を横に振り、必死にマティアスの背に隠れた。

分かりきっていたことだ。誓約を交わせば、悲劇の聖女を演じることができなくなるのだから。


「それから」


父はゆっくりと顔を巡らせ、無造作に剣先をフレッドの瞳の前へ突きつけた。鋭い刃が、紙一重の距離で煌めく。


「こいつの目は──今潰しておこうか」


ぞわり、と背筋を走る殺気。

教室の空気は凍りつき、誰も声を上げられない。

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