第八十四話 少しの意地悪くらい
次の日、私は研究クラスの一室で、アレスと二人きりだった。
静かな部屋。机の上にはノートやペン、瓶詰めにした薬草──しかし、私の手の中にあるのはサリーにこっそり頼んで用意してもらった“大人向け恋愛小説”。
研究なんてそっちのけで、私は夢中でページをめくっていた。
「……っ、へっ……ぁ」
思わず、声が漏れる。
自分でも気づかないほど小さな吐息だったけれど、耳に届いたアレスのペンの音が止まる。
「ん……?えぇ……」
頬が熱くなるのを感じながらも、目は文字から離せない。
本の中のアリアとクリフが、熱を帯びた空気の中で肌を寄せ合っていて……知らない世界が、紙の上で広がっていた。
「いや、え!? え、ええぇ!?」
声が少し大きくなった瞬間、隣のアレスがついに椅子から振り返った。
「……はぁ。おいステラ。さっきから何だその声は!!」
彼の顔は真っ赤に染まっている。怒っているのか呆れているのか、判断しづらいほど。
「だって! だってだって……なんでクリフはアリアの全身を、な、な……舐めるの!? 胸とか、その……し、したのところとか……っ」
自分で言いながら、顔から火が出そうだった。机に突っ伏したいのに、知りたい気持ちが勝っていた。
「読めば読むほど理解できないのよ!!未知だわ、未知……っ」
アレスは深くため息をつき、手を伸ばして私の本を奪い取った。
「あ、返して!!」
必死に伸ばすけれど、彼は身長差を活かして高く掲げ、私の指先は届かない。アレスの腕の中で揺れる小説を、悔しさと恥ずかしさで睨み上げる。
「お前なぁ……こんなの、ただのエロ本じゃねぇか」
パラパラとページをめくりながら言うアレスの眉間には皺が寄る。
「違うわ!!大人向けの恋愛小説なの!!」
「はいはい。……ったく、こんな余計な知識つけてどうすんだよ」
呆れ顔で片手を腰に当てながら、本を机に置いた。
でも、私は引き下がらない。両手を握りしめ、力強く訴えた。
「だって! 私、ほんとに子供ができる仕組みしか知らないのよ!? ……親こういう話はしたくないけど、両親は私と同じ歳で私を身ごもったの。だから、私も情事のことは勉強しておかないと──」
言いかけた瞬間。
「そんなこと、その時は男に任せろ」
バン、とアレスが机を叩いて言い切った。
思わず口を閉じる私。
赤くなった顔で真剣に睨んでくる彼に、胸の奥がどきんと跳ねる。
──その時だった。
「任せろって、言うなら私でもいいんじゃない?」
唐突に響いた声。
ギィ、と音を立てて扉が開き、女装姿のフレッド様が颯爽と現れた。
ひらりとスカートの裾を摘まみ、にっこり微笑んで。
その背後からは、耳まで真っ赤にして両手を振るニヴィア様。
「お前っ、勝手に──」
「いやぁ、入るタイミング探してたら……思いっきり聞こえちゃったんだよねぇ」
(わ、どこから聞かれてたの……!?)
私の顔はみるみる赤くなる。恥ずかしくて椅子に沈み込みたい。
そんな私の狼狽なんて気にもとめず、フレッド様は嬉々として続けた。
「そのことを知りたいなら、私が全部教えてあげるよ! だってこういう話、私大好きだから!」
そう宣言すると、彼は手振り身振りを交えながら饒舌に語り出した。
「まずね、なんで触れるのかっていうと──相手を感じさせてあげたいからなんだ。唇で触れるのは愛情の確認、指でなぞるのは支配と快楽の入り混じり。女性が悦ぶのは胸や腰だけじゃない、首筋、耳、太腿の内側……敏感な場所はいくらでもあるんだよ」
ひとつひとつの説明に、私は息を呑んで前のめりになる。
心臓が早鐘を打つけれど、耳は彼の声を逃したくなかった。
「しかも触り方ひとつで感じ方が変わるんだ。優しく撫でれば安心、少し強めに押せば期待と緊張で震える。男性の手がどう動くかで、女性の心と体は簡単に翻弄されちゃうんだよねぇ」
横目でアレスを見ると、彼は片手で頭を抱え、もう片方の手で机をトントンと叩いていた。耳まで真っ赤だ。
一方のニヴィア様は──沸騰寸前。
両手で頬を覆いながら「……フレデリック様!!やめてくださいっ!!!」と悲鳴を上げている。
しかし、フレッド様は止まらない。
「────で、最後はね。色んなパターンで楽しめるんだ。立っても、座っても、寝ても、道具を使っても! ふふ、世界は広いんだよ」
軽やかに両手を広げて、華やかな笑顔で締めくくった。
部屋に残ったのは、沈黙。
「……」
「…………」
アレスは額に手を押し当て、心底疲れた顔でため息を漏らす。
ニヴィア様は椅子に座り込み、両手で顔を隠して小刻みに震えている。
けれど、私だけは──食い入るようにフレッド様を見ていた。
(なるほど……。すごい……)
恥ずかしさで頬を真っ赤にしながらも、目は輝いていた。
胸の奥でくすぶっていた不安が少しずつ消え、代わりに“知りたい”という好奇心が膨らんでいく。
◇◇◇
「……それで、ここまで話せば分かった?」
フレッドは勝ち誇ったように顎をしゃくる。
アレスは眉をひそめ、返事をせずに視線をそらした。耳まで真っ赤。
「んん? どうしたのかなアレスくん。顔がすっごく赤いけど──」
にやりと笑い、わざとらしく囁くように声を落とす。
「……童貞くんには、ちょっと刺激が強かったかな?」
「な、っ……!」
アレスの肩がビクリと揺れる。
「ちょ、ちょっとフレデリック様!? そういう言い方は……!」
ニヴィアは慌てて注意するけれど、ステラはアレスの反応を見ていた。
──けれど。
フレッドは身を乗り出し、ひょいとアレスの机に肘をついた。
そしてステラたちには聞こえないくらいの、吐息に紛れる低さで囁いた。
「ねぇ、今の君で……ステラを満足させられるのかなぁ?」
耳朶をかすめるほど近くで。
にやりと笑う、その唇の端。
「っ……!」
アレスのこめかみがピクリと跳ね、思わず拳を握りしめる。
「ほらぁ、そんなに耳まで真っ赤にして。ねぇ、もしかして──想像しちゃったんじゃない?」
「黙れっ!!」
ガタン!
アレスは椅子を蹴って立ち上がった。
声を荒げた瞬間、ニヴィアがびくりと身を縮める。
「ア、アレス様……?」
「っ……」
アレスは言葉を探すように唇を噛み、視線を逸らした。
そんな彼の反応に、フレッドはにっこりと笑って手をひらひら。
──まるで、誰も見抜けないところで「勝ち誇る秘密」を共有したかのように。
耳元に忍ばせた言葉は、周囲の誰にも届かない。けれど確かにアレスだけを挑発するために放たれた。
……心底うざい。
だが、楽しそうに笑っているのは彼だけだった。
(少しくらいは意地悪させてよね。俺だって不公平だと思ってるんだから──)
心の奥底で苦々しげに呟く。
(告発の協力を条件に、好きな女を目の前にしても決して結ばれないように──あの人に誓約魔法をかけられてる。なら、こうやって茶化すくらいは俺の自由だろ?)
──挑発の笑みを崩さぬまま、フレッドは唇の端を僅かに吊り上げた。




