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第八十三話 食べられちゃう


重たい瞼をゆっくりと開けると、柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中をやわらかく照らしていた。

頬にかかる光が眩しくて、私は思わず顔をしかめる。


「……ん、朝」


寝起きの声は掠れていて、自分でも頼りなげに聞こえる。

伸ばした手で目を擦りながらぼそりと呟いたそのとき──


「いや、昼過ぎだぞ」


静かに落ち着いた声が、私の耳をくすぐった。

低くて、でもどこか心をほぐすような優しい声色。


「お父様……?」


まだ夢の残り香を引きずったまま、私は反射的にそう呼んでいた。

すると、返ってきたのは呆れたような響き。


「寝惚けてるのか、ステラ。俺がディルに見えるのか?」


瞼に力を込め、ようやくしっかりと視界を開く。

そこにあったのは、窓明かりを受けてきらめく銀色の髪。


「ああ……アレス……」


思わず安堵の息をもらした。

彼はすぐ近くでこちらを見下ろしていて、その眉はわずかに寄せられ、けれど瞳は柔らかさを帯びていた。


「なんだよ、俺じゃ不満か?」


拗ねたような調子で言いながらも、アレスの声はどこか冗談めいている。

私は布団に頬をすり寄せ、薄く笑って首を振った。


「ううん、そういうわけじゃないよ。ただ……安心しちゃってさ。あなたは私が突き放しても、結局そばに居てくれるんだなって」


「……なんだよ、急に」


わずかに耳が赤くなり、アレスは視線を逸らした。

その仕草が可笑しくて、私はふっと笑みをこぼす。


夢を見ていた。

けれど、その内容はもう朧げで、細かいところは掴めない。


ただ──幸せだった。

それだけははっきり覚えている。


私とアレス、そしてお父様。

……それから、多分。私にそっくりな、きっとお母様。

四人で過ごす、現実にはありえない光景。


(絶対にありえない夢……お母様がいる時点で)


胸の奥が少し締めつけられる。

それでも、確かにあれは幸せな夢だった。


「なんでもない。けど……既視感あるなぁ、この状況」


私がぽつりと漏らすと、アレスは肩をすくめる。


「去年の対決祭のあとだろ。魔力不足でお前が倒れたから、こうやって俺がそばにいたんだよ」


「ほんとね……今回も魔力切れ、みたい」


軽く笑ってみせると、アレスは真剣な顔でこちらを覗き込んだ。


「それで? 何か見えたのか?」


「うん……リナの目から紫色の光が見えたの。でもね、レッド曰く魔法じゃないみたい。普通の魔法なら少しの魔力でも魔眼を通して見えるけど……今回はかなり注ぎ込まないと、はっきり視えなかった」


そう言うと、アレスは眉をひそめ、息を呑んだ。


「あぁ……それで魔眼だけで魔力切れ、か。そういえば──ステラの魔力、どれくらいヴァルに持ってかれてんだ?」


私は布団の上で指を折りながら、少し考える仕草をする。


「んーっと……好きにさせてるけど、たぶん三分の二以上は……」


「はぁっ!? お前、それ死ぬほど身体ダルいんじゃねぇのか!?」


アレスが椅子を蹴るように立ち上がり、驚きと怒りの入り混じった声を上げた。

その迫力に、思わず私は目を瞬かせる。


「うん、まぁ……でも、慣れれば意外と平気よ。熱も最近は頻繁に出ないし」


そう言って私が微笑んだが、アレスは納得していない様子で、深く息を吐き出した。

肩をすくめ、わざとらしく天井を仰ぐ。


「はぁ……ほんと心配が尽きねぇ。……なんかもう、ステラの親になった気分だわ。ディルの気持ちが少しはわかるよ」


「私はアレスがお父様なんて、絶対嫌だわ」


思わず頬を膨らませて言い返すと、アレスはくすりと笑い、目元を和ませた。


「なんでだよ。結構いい父親になれるかもしれないだろ?」


からかうような声色に、私は唇を尖らせながらも、その笑顔に胸が温かくなる。

けれど──次の言葉はわざと甘く、挑むように。


「……たしかに、良い父親にはなれるかもしれないわ。優しいし、頼りがいもあるし……」


一拍置いて、彼の瞳をじっと見つめる。


「けど、私の父は嫌。できれば……夫になって、私の子供の父親になって欲しいの」


アレスの瞳が一瞬で見開かれ、息を呑む音が聞こえた。

そのまま時間が止まったかのように彼は硬直し──


「……っはぁぁああぁぁ……」


耐えきれないように顔を両手で覆った。

耳の先まで真っ赤に染まっているのが、指の隙間からでもはっきりわかる。


「ほんっと……なんでお前って、急にそんな大胆なこと言うわけ……?」


声はかすれて震えていて、普段の冷静さなんてどこにもない。

私は堪えきれず、小さく笑った。


「えっと……アレスに娘のようには思ってほしくなくて。女性として見てほしいなぁって」


「……だから……そういうことを、言葉にしちゃうのが……大胆なんだよなぁ」


彼は手の隙間から片目を覗かせ、恨めしそうに、でもどこか甘く私を見た。

その視線に胸が高鳴り、思わず身を乗り出す。


「ねぇ、アレス……」

囁くように呼びかけると、彼の肩がびくりと震えた。


「な、なんだよ……」

「……そんなに赤くなってるの、可愛い」


耳まで真っ赤に染まった彼の横顔を、私は布団の端からそっと指先でつついた。

アレスは「やめろ」と呟きながらも、触れられるたびに体を強張らせる。


「……ほんと、からかわれてる気しかしねぇ」

「ふふ、でもね……私、本気よ」


小さく笑いながら囁くと、アレスの手がわずかに下がり、紅潮した顔が少しだけ露わになった。

その視線は揺れて、けれど熱を帯びて私に絡みつく。


布団の隙間からそっと伸ばした私の手を、彼は反射のように握り返していた。

重なった指先がじんわりと温かくて、その小さな接触だけで胸がとくん、と跳ね上がる。


──甘い沈黙。

部屋の中はやわらかい金色に包まれている。

呼吸の音すら響くほど、空気は静かだった。


「……もっと、触れてもいいのに」


囁くように告げた私に、アレスは深く息を吐いた。


「……あのなぁ、俺らは今、恋人じゃないんだぞ」


額に皺を寄せて、けれど耳まで赤くしながら言う。


「それに、俺のことも少しは考えろよ? 前にも言ったけどな。男は女と違って、途中で“はい終わり”って切り替えられるもんじゃねぇの」


(そんなこと、言われたかしら?)


この時の私はすっかり、一年半ほど前にタウンハウスで彼に押し倒されて忠告されたことを忘れていた。


「途中で終わらなければいいんじゃないの?」


挑発するように返すと、アレスは一瞬絶句し、次の瞬間私の額を軽く弾いた。


「……絶対意味わかってねぇだろ」

「わかってるもん!!!!」


(だって……キスなんて途中で終わるとか、ないでしょ?)


拗ねたように言い返したけれど、その思考はどうやら彼には筒抜けだったらしい。


「ふん……じゃあ、本当にいいんだな?」

低く落とされた声に、私は勢いよく頷いてしまった。


「うん!!」


その瞬間、アレスは大きな手で私の肩を押さえ、ゆっくりとベッドに押し倒した。

柔らかな布団に背中が沈み、両手首は彼の手で軽く拘束される。

目の前に降りてくる影。

彼の顔が近づくにつれて、鼓動は早鐘のように打ち鳴らされていく。


──息がかかるほどの距離。

けれど唇は触れ合わず、ぎりぎりのところでピタリと止まった。


(あれ……?)


疑問が胸に浮かんだ瞬間、ぞくりと背筋を撫でる感覚に体が跳ねた。


「ひゃっ!!」


驚いて声をあげる私の反応を愉しむように、アレスの手がネグリジェの裾をそっとかき分ける。

眠っている間に侍女に着せ替えられたそれは、肌を隠すにはあまりにも薄い。

その布の下に指先がすべり込んだだけで、全身に熱が走った。


「ちょ、ちょっと待って……!!」


(途中で終われないって()()()のこと……!?)


胸を叩こうとした瞬間、今度は耳たぶをふいに甘噛みされた。


「ひゃあっ……!!」


息が漏れ、頬が一気に熱くなる。

掴まれていた手首が解放され、アレスは顔を離す。

けれど、彼の視線は真っ直ぐで、逃がすつもりなどなさそうだった。


「……こんな可愛いもんで終わらないのが、お前の言った“途中で終わらない”ってことだ」

「え……っ」


低い声で囁かれ、喉がひゅっと鳴る。


「お前だって、どうしたら子供ができるかくらい、わかるだろ?」

「わ、わかるけど……っ」


(私が知ってるのは“原理”だけであって……耳を噛むとか、太ももを撫でるとか、そんなのは知らない……!!)


「こ、こういうのって……どこから教わってくるの!?」

「そんなもんじゃねぇよ」


彼は苦笑し、私の頬に軽く指を滑らせた。


「触れたくなるから触れた。ただ、それだけ」


顔を背けながら呟いた私は、胸の奥がぎゅっと掴まれるような甘い苦しさに襲われた。


「……もう。アレスに食べられちゃうかと思ったわ」

「……ま、いつか。そのつもりはあるけどな」

「へ……ぁ……」


耳元に落とされた囁きは熱く、言葉以上に体を震わせた。


「そんじゃ、今日はもう寝とけよ……おねえさん」


わざと距離をとるように、彼は微笑みながら私を“姉”と呼ぶ。

それが、今日はここまでだという合図だとすぐにわかった。


残された私は一人、胸に手を当てて鼓動を必死に落ち着ける。

けれど頬の熱は冷めず、甘さと物足りなさだけが残った。


──そして夕方


アレスが部屋を出て行ったあと、私はサリーを呼んで頼んだ。


「……少し、大人な恋愛小説を持ってきてくれる?」


サリーはぽかんと目を丸くしていたけれど、「将来のため」と言うと渋々ながら了承してくれたのだった。

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