第八十二話 理想そのもの
(ムカつく……!!!! なんなのよ……どうして、どうしてあの人は私に惚れないのよ!!!!!)
アレスに研究クラスの教室から追い出されたリナは、頬を朱に染めたまま、怒りに任せてヒールの踵を石畳に打ちつけるように歩いていた。
「カッ、カッ」と硬質な音が響き、通り過ぎる生徒たちが思わず振り返るほどだ。
胸の奥に溜まった苛立ちが熱となって込み上げる。
視界の端が滲むほどに悔しさで目を潤ませ、噛みしめた唇には白く歯形が浮かんでいた。
いつの間にか校舎を抜け出し、共有の敷地へ出ていた。
冬枯れの冷気が肌を刺す中でも、花壇には寒さに耐えて咲き誇る冬の花々が並んでいる。
白や薄紫の花弁が風に揺れ、陽光を浴びて静かに輝いていた。
だが、リナの目にはそれすら鬱陶しく映る。
「こんなもの、全部……!」
手を差し入れ、花を引きちぎるように掴んで地面に投げ捨てる。
バラバラに散った花弁が空気に舞い、ひらひらと哀れに落ちていく。
「ずるいっ!! ずるい!! なんであの子は、なんでも持ってるのよっ!!!」
甲高い声が敷地に響き、周囲の生徒たちが思わず足を止めて振り返った。
平民用の制服を着た少年少女たちの視線が一斉に集まり、ざわめきが広がる。
その中で、一人の少年が意を決したように前へ出た。
栗色の髪に、真っ直ぐな瞳。痩せぎすな体を震わせながら、彼はリナの背に向かって声を掛けた。
「……あのっ、聖女様ですよね……?」
リナは苛立った顔のまま振り返る。
「あ? ……アンタ誰?」
「平民校舎の二年で、ジャックと申します!」
彼は胸に手を当て、一歩、また一歩と近づいてから、堪えきれぬように地面へ膝をついた。
「聖女様に、お願いがあるのです……! どうか、どうか母の病気を治してやってください!!」
声は震え、土に手を押し付ける姿は切実そのもの。
やがて彼は地面に頭を擦りつけ、土埃にまみれた額で土下座をした。
ジャックの脳裏には、病に伏せる母の姿が焼き付いていた。
母一人子一人、互いを支え合いながら田舎で暮らしてきた。だが今、その母は痩せ細り、床から起き上がることさえ難しい。
「長くは持たない」と届いた便りに、胸を掻き毟られる思いで今日まで耐えてきた。
だからこそ――彼は奇跡をもたらすと噂の“聖女”に縋ったのだ。
しかし、リナの表情には哀れみの欠片もない。
口元に浮かぶのは、むしろ冷え切った笑みだった。
「平民、ねぇ……」
彼女は足を止め、わざとらしく溜息を吐く。
「お金は? いくら出せるの?」
「っ……実は、そんなに持っていなくて……でも必ず! 一生かけてでもお支払いします!!」
必死の訴え。しかし、リナは髪を弄りながら興味なさげに彼を見下ろした。
聖女の治癒能力は本来、無償で国に捧げるべきもの。皇帝からもそう言い渡され、彼女自身も望むものは全て与えられる立場にある。
だが――リナの心は歪んでいた。
「……残念だけど」
土下座するジャックの頭に、彼女はゆっくりと足を乗せた。
その瞳は愉悦に細められている。
「あなたは顔もイケメンじゃないし、お金もない。しかもプライドまで捨てて、汚らしい……。だから、力にはなれないわ。ごめんなさいね」
踵を高く上げ――容赦なく後頭部へ振り下ろした。
「ゔっ……!!」
鈍い音と共にジャックの体が大地に沈み込む。
頭を押さえながらも、彼は必死に言葉を繋ごうとしたが、リナは一瞥すらくれず、くるりと踵を返した。
(気色悪い……汚い身なりで近寄って来ないでよ)
唇を吊り上げ、吐き捨てるように心中で呟くと、彼女はそのまま背を向けて去って行った。
やがて――耳に届くのは、温かな声。
「リナ!!」
振り返ると、そこに立っていたのは銀髪を煌めかせる皇太子・マティアスだった。
陽光を浴びて輝く黄金の瞳は、まるで宝石そのもの。
完璧な整いを見せるその顔立ちに、リナは胸の奥を甘く締め付けられる。
(あぁ……汚いものを見た後に、この顔は……癒しだわ)
「随分探したんだぞ……どこに行っていたんだ」
低く優しい声が降り注いだ瞬間、リナの瞳に涙が溢れる。
頬を伝い落ちるその涙を、マティアスは驚いたように見つめた。
「マティアス様……」
震える声で名を呼ぶ。
「……ステラ様に、先日のお詫びをしに研究クラスに伺ったのです。でも……彼女がフリエッダ様や弟のアレス様に命じて、私に酷い暴言を……」
「なに……!?」
マティアスの表情が怒りに歪む。
「フレッドとアレスが……? くそっ、アイツら……! 大切な聖女になんて無礼を!!」
怒りに燃えるその瞳は剣のように鋭い。
彼が研究クラスへ向かおうと踏み出した瞬間、リナは慌ててその手を取り、必死に引き止めた。
「待ってください、マティアス様!! アレス様は悪くないんです……ただ、ステラ様に逆らえなかっただけで……!」
「だが……!」
「お願いします。彼だけは……邪悪な姉の元から、救ってあげてください……」
涙に濡れた瞳で必死に訴えるリナ。
その胸には――アレスへの執着が渦巻いていた。
(マティアスも美しい。ディルは彫刻のように雄々しい。……でも、アレスは違う。あの明るいアイスブルーの髪……マティアスよりも眩く輝きく金色の瞳に、美しい顔に対して強靭な肉体に宿る野性と気高さ。理想そのもの……! あぁ、絶対に私のものにする……!!)
そんな歪んだ熱を胸に秘めながら、リナはマティアスを見上げた。
皇太子は彼女の涙を見つめ、ふっと優しく目を細めると、そっと頭に手を添えた。
大きな掌が髪を撫でる感触に、リナは陶然と瞳を潤ませる。
「……やはり、リナは優しいな」
「はい!! この国の聖女ですから……!」
無垢を装ったその笑みに、マティアスは安堵の笑みを返す。
その瞬間、リナの心は――満足げに歪んで笑っていた。




