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第八十一話 ヒロイン訪問

「「「一ヶ月半後……!?」」」


前は私とアレスしかいなかった教室に、三人分の驚きの声が重なって反響した。

声の余韻が窓ガラスをわずかに震わせ、春先の柔らかな日差しが差し込む室内が、一瞬だけざわめきに包まれる。


「はい……父は厳格な人でして、普段やるべきことをしていれば大抵のことは許してくれるのですが……学校をお休みして友人を領地に招待するのは言語道断だと……」

肩を小さく落とすニヴィア様の横顔は、気品を保ちながらもどこか申し訳なさそうだった。


「春休みまでは無理ってことね……侯爵らしいわ。あの人ちょっと怖いのよね」

窓際でひょいと身を乗り出し、いたずらっぽく笑った女装したフレッド様が、軽口を叩く。


(はぁ、またフリエッダ様、余計なことを……)

案の定、ニヴィア様に射抜くような視線で睨まれ、彼は肩をすくめて口を噤んだ。


それにしても……侯爵がそんなに厳しい方だったなんて、今まで知らなかった。

社交界で何度かすれ違い、礼儀正しく挨拶を交わしたことはあったけれど──

そういえば、あの時のニヴィア様は、一度も私に柔らかな笑みを向けたことはなかった。

今ならわかる。あれはきっと、厳しい父の前で、公爵令嬢に軽々しく話しかけることが許されなかったからなのだろう。


「申し訳ありません。こればかりはどうにも……」

「ノヴァトニー嬢が気にすることではありません。むしろ無理を言ってしまって」

「い、いえ……!! あ、アレス様……良ければ私のことは……ニヴィアと」


頬を紅く染め、視線を逸らしながらも必死に言葉を紡ぐニヴィア様。

そんな彼女に向けられるアレスの笑顔は、春の陽だまりのように温かく、優しかった。

普段より少し丁寧な口調と整った所作が相まって、本当におとぎ話の王子様みたいだ。


──胸が、ズキズキと痛む。

対決祭のとき、ニヴィア様がアレスに興味を持っている素振りを見ても、私は何とも思わなかった。

けれど今は違う。

私も、アレスのことが好きだからこそ。

しかも、アレスが私を想ってくれているのがわかっているからこそ──ニヴィア様に対して、ほんの少し罪悪感を覚えてしまう。


「───テラ、ステラ」


ぼんやりとした思考を破るように、低く優しい声が耳に届いた。

気づけばアレスが、私のほうをじっと覗き込んでいる。


「え、なに!?」

「なにぼーっとしてんだよ」

「いたっ!!」


額に軽く指が弾かれ、思わず顔をしかめる。

アレスは口の端を上げ、悪戯っぽく笑った。


「もう! 痛い……なにするのよ」

「なんか余計なこと考えてそうだったから」

「う、それは……」

「今は余計なこと考えないで、旅行の計画だと思って楽しもうぜ。──少ない友達なんだろ?」


ふっと、からかうように笑いながらも、その瞳はまっすぐ私を見ていた。

そこには、私に心から楽しんでほしいという願いが、真剣に宿っている。

きっと、お父様の件で私が落ち込んでいるのを察しているのだろう。


胸の奥にあった重さが、少しだけふわりと軽くなる。


「うん……!!」


笑顔を返すと、アレスの瞳がほんの少し柔らかく揺れた。

窓から差し込む春の光が、私たちの間にあたたかな空気を満たしていく──はずだった。


──コン、コンッ。


突如として響いたノックの音に、弾む空気が一瞬にして凍りつく。

この教室は二年フロアの片隅、人通りも少なく、わざわざ訪ねてくる者など滅多にいない。

今までここを訪れたのは、歴代の担任教師か──あるいは、リナだけ。


胸が嫌な予感でざわめいたその時、無邪気な声が返事をした。


「どうぞ」


ニヴィア様だ。何も知らずに。


ガチャリ、と扉の金具が回る音。

軋む蝶番。

ゆっくりと開いた扉の隙間から差し込む影。

そこに立っていたのは──私の予想通りの黒髪。


聖女リナ。


「……っ」

心臓が一瞬、跳ねる。

隣のアレスも、フレッド様も、同時に息を呑むのが伝わった。

この空間にだけ、ぴたりと重い沈黙が落ちた。


「……あら、噂の聖女様ですね。ご機嫌よう」


張りつめた空気を破るように、ニヴィア様が淡々と挨拶をする。

その声音は、まるで大したことのない相手に礼を尽くすだけの冷静なもの。

気に留めていない──本当にそう見える。


けれど、私たち三人は違った。

重くのしかかるような視線と気配が、互いに交錯している。


「ご機嫌よう。えっと、お名前をお伺いしても?」

「私はノヴァトニー侯爵家の娘、ニヴィアと申しますわ。今日は研究クラスに御用ですか?」

「ええ。友人の、ステラ様に会いに来たのです」


リナはにっこりと、絵に描いたように美しい笑顔を浮かべる。

さすがヒロイン──と、心のどこかで冷静に思ってしまう。

日本から来たという設定を抜きにしても、この美貌と演技力。

もし本当に舞台に立てば、一瞬で観客を虜にしてしまうに違いない。


「ステラ様、それから、えっと……」


彼女の視線がフレッド様に向く。

首をかしげ、名前を探しているようだった。


「フリエッダよ」


フレッド様は自分の女装時の名を、毅然と名乗った。


「フリエッダ様。二度目ましてですね」

「二度と会いたくなかったですけどね」

「まぁ……ひどいわ──」


リナがまるで被害者のように目を潤ませ、表情を作る。

その瞬間、ふと彼女の瞳が別の方向へと吸い寄せられ、動きが止まった。


視線の先は──窓際。

腕を組み、無造作に寄りかかるようにして様子を見ていたアレス。

逆光の中、アイスブルーの髪が淡く輝いている。


「……っ」

リナの瞳が、初めて本気で揺らいだ。


「わぁ……超メロい」


小さく、確かにそう呟いた。

その声は誰にも聞かれまいとするほどかすかで、けれど私にははっきり届いた。


すぐに彼女は上品に姿勢を整え、笑顔を取り戻す。

ゆっくりと歩み寄り──まるで舞台の幕が上がるように、アレスの前に立った。


「ご機嫌よう。聖女のリナと申します。良ければ、お名前を伺ってもよろしいですか?」


リナがスカートの裾を摘み、カーテシーをした。

けれどその動作は子供が真似をしたような不格好なもの。背筋も手の位置も甘く、形だけだった。

本来なら十五歳にもなれば、令嬢たちは一日で美しい礼を身につけるものだ。どれだけ遅くとも二、三日あれば整う。

それができていないのは、日頃から学びを避け、面倒事から逃げている証だった。


(アレス……どう出るのかしら……)


私は胸を高鳴らせながら彼を横目で盗み見る。


リナは長い睫毛を伏せ、アレスを見上げていた。まるで獲物を狙う魔法使いのように、瞳に執拗な光を宿して。

数秒の沈黙の後、アレスもゆっくりと姿勢を正した。


「名は、アレス・アルジェランと申します。いつも義父がお世話になっているようで」


声音は丁寧だが、冷気を帯びた硬質な響き。

彼の瞳は氷のように冷ややかで、リナを一切歓迎していなかった。


「え……ディル様の……貴方がアレス様だったのですね。お噂は伺っております」

「ええ、先日は義姉もお世話になったようで」


視線はまるで見下ろす刃のよう。

けれどリナは鈍感にそれを好意と誤解しているらしい。


「ステラ様は大切なお友達ですから、当然ですわ」


微笑みながら、リナはアレスの手を取った。

その白い指先が触れた瞬間──アレスは即座に振り払った。


「えっ……なんで……」


彼女の小さな呟きを、私ははっきりと聞いた。


「急に異性に触れれば、勘違いされますよ」

「……勘違いしてください」


上目遣いに媚びる声。

それにアレスは、一切の容赦をしなかった。


「勘違いしているのは、あなたの方ですね。私が言う"勘違い"とは……周囲から、あなたが男を誑かす売女だと見做されることを指しています」


突き刺さるような言葉。

リナの表情から余裕が削がれ、焦燥が滲む。

彼女は必死に取り繕うように、再びアレスの瞳を射抜くように見つめた。


「そ、そんな酷いこと……おっしゃらないでください」


──その時だった。

リナの瞳が、淡い紫にかすかに光った気がした。


(……今、光った?)


私は咄嗟に左眼へ魔力を込める。

視界が赤く染まり、淡い光の筋が人の輪郭を彩っていく。

魔力の色が、ひとりひとり異なる色彩となって溢れ出す。


さらに力を込めた瞬間、脳裏にレッドの声が響いた。


『お嬢様、無理のない範囲で……もう少しだけ魔力を』


私は言葉もなく従い、限界ぎりぎりまで魔力を注ぎ込む。

すると──リナの瞳から、紫の輝きが確かに漏れていた。


(これは……?)


『……お嬢様、これは魔法ではありません。私には正体までは……』


レッドの声を最後に、私の魔力は急速に削られ、頭が重くなる。


「とにかく、もうここには来ないでください。義姉と友人との時間を、邪魔されたくはないので」


アレスの声は冷ややかで、決定を告げる鐘の音のようだった。

指先がひらりと降ろされた瞬間、リナの身体はふわりと浮き上がり、まるで羽根のように教室の外へ押し出される。


「きゃっ、えっ!!ちょっと!?待っ……」


(……あれ、私が研究していた魔法の応用……。それで追い出すなんて、ちょっと嬉しい)


最後に「ピシャリ」と魔法で扉が閉じられる音。

そこで、私の脚から力が抜け、その場に崩れ落ちてしまった。


「ステラ……!? どうした?」

「ステラ様、顔色が……!」

「水を取ってくるわ!」


三人の声が重なり、教室が一気にざわめきに包まれる。


「ごめん……ちょっと、左眼を強く使い過ぎちゃって」

「左眼? でも、レッドはもう……」

「ううん。いるんだよ。お父様にも言ってないけど……魔眼を使うと、会話ができるの」

「……そうだったのか。じゃあ魔力切れ、ってところか?」

「……うん」


ニヴィア様は話についていけず、首を傾げたまま不安げに私を見つめている。


私はふとアレスに額を寄せた。

彼がそっと魔力を分け与えてくれる。

温かな流れが身体に染み込み、胸の奥のざわめきがほどけていく。


「……あったかい……」


そのまま、まぶたが重く閉じてしまう。

最後に耳にしたのは、アレスの小さな安堵の吐息だった。

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