第八十話 登校
俺の母が聖女であったことは、国民には決して知らされなかった。
皇城の敷地の片隅、陽の差さない高い塔──そこが幼い頃の俺の世界だった。
湿った石壁はいつもひんやりとし、窓から差し込む光は細く、埃の粒が宙に漂っていた。
その塔に、時折マーリン公爵が現れた。
黒いマントを翻し、ゆったりとした歩みで石畳を踏みしめる音が、やけに大きく響く。
そして、あの低く乾いた声が落ちてくる。
「君の母親は、他の世界から来た……言わば“異物”だ。卑怯な手で陛下の寵愛を奪い、君を身籠った」
顔を近づけ、薄く笑った唇が、さらに冷たい言葉を紡ぐ。
「だから──お前も異物同然だ」
淡い金の髪が肩で揺れるたび、石壁の影がその顔を不気味に切り取った。
俺は小さく首をすくめたが、足は動かなかった。
「アヤカ・ハセガワさえいなければ……皇子は一人で良かったのに」
吐き捨てるような声が、塔の中で反響する。
マーリン公爵の瞳は、まるで汚れでも見るように俺を見下ろしていた。
「まさか、死ぬ直前に子を産むとはな……」
その時、五歳ほどだった俺にも、何となく理解できた。
──俺に母がいないのは、この男が奪ったからなのだろう、と。
だが、胸に湧き上がるはずの憎しみは不思議と訪れなかった。
子供だったからなのか、それとも会ったことすらない母だったからなのかは分からない。
ただひとつ覚えているのは、マーリン公爵がいる間、塔の石畳がひどく冷たく感じられたことだ。
足の裏からじわじわと凍りつくようなその冷たさは、あの頃の俺にとって──母の温もりを知らないことよりも、ずっと現実的で、確かな孤独だった。
◇◇◇
それがまさか──生きているだなんて。
信じられなかった。
もしそれが本当なら……俺は捨てられたのだろうか。
あの塔に幽閉されていた幼い日々が、どれほど長く、寒く、孤独だったか。
ステラたちの前で、ほんの少しだけマーリン公爵との記憶を口にした。
語る声は自分でも分かるほど低く、胸の奥に沈殿した澱をすくい上げるようだった。
「アレス、あなたのお母様がどんな人かは……きっと会ってみたら分かるわ」
目の前のステラは、一瞬たりとも俺に同情の色を見せなかった。
ただ真っすぐに、静かで確かな声でそう告げる。
──その顔を見た瞬間、胸の中の霧が少しだけ晴れた気がした。
今考えても答えが出ないことに、これ以上心を囚われるのはやめよう。
「そうだな。それに、ステラの助けになるんだったら……母がどんな人でもいいか」
視線を伏せて呟くと、フレデリックが気まずそうに肩をすくめ、俺を見た。
「……まじでごめん。クソジジイのせいで──聞けば聞くほどろくでもない家族だ」
「いや、別にお前は関係ねぇだろ。それに、もうアイツは国外追放済みだしな」
俺は本当に、フレデリックを恨んだことも、マーリン公爵と重ねたこともなかった。
ただ──マティアスと同じで、どうにも気に入らない。
だから少しだけ顔を背けて言葉を落とした。
「ゔぅ……身内がやったことに比べたら、俺への態度がちょっと悪いくらい何でもないや……」
フレデリックは上を向くと、両手で顔を覆った。
その仕草が、かえって不器用な後悔を物語っていた。
「それで……西に側妃を探しに行くってことになると?」
「うん。地図を見たんだけど、西は広大なノヴァトニー侯爵領があるの。
でも、側妃様を探していることは悟られたくないから……ご令嬢のニヴィア様に頼もうと思っていて」
「ノヴァトニー嬢か……」
フレデリックの口元がわずかに引きつる。
その表情に、また面倒な事情の匂いを感じて、俺は少しだけ苛立ち混じりに問う。
「……また厄介事か?」
「いやぁ……一応、元婚約者候補っていうか……ほぼ決まりそうなところで公爵家没落……みたいな?」
「「あー……」」
俺とステラの声が見事に重なった。
そんな中、ステラが何かを思い出したように顔を上げた。
「でも、大丈夫じゃないですか? ニヴィア様はフレッド様のことタイプじゃなさそうでしたよ。
彼女がタイプなのは……アレスみたいですし」
「は?」
「えぇ、それはそれでちょっと辛辣すぎない? ステラちゃーん……」
「というか、こいつも来る必要ないんじゃね?」
「酷すぎるぅ……! 確かにそうかもしれないけどぉ……」
くだらないようで、妙に温度のそろったやり取りが続いた。
やがて話は落ち着き、明日からこの屋敷を拠点に学校へ通うことが決まり、
ステラがノヴァトニー嬢に話を通して都合をつけてもらうことになった。
◇◇◇
翌朝──食堂には香ばしいパンとスープの匂いが満ちていた。
窓から差し込むやわらかな光がテーブルクロスにまだら模様を描き、銀器の縁をきらりと光らせる。
「なんか、学校なんて久しぶりだな。行っても何の役にもたたないけどな」
パンをちぎりながら俺がぼそっと漏らすと、ステラが向かいでスープを軽くかき混ぜ、ふっと笑った。
「まぁ、そうだけど……あそこは卒業したって学歴に意味が出るから」
「まぁ、魔法なんて知識一、二で技術が八、九って感じだし、技術がある人達にはやることがないわよね」
聞き慣れない声が会話に割って入った。
視線を横に向ければ──目の前で金髪ロン毛が優雅にナイフを動かしている。しかも女装姿で、やたら上品ぶった仕草付きだ。
「なんでお前まだいるんだよ」
「だってぇ、アレスくん宛にして転移魔法で帰ろうと思ってたから、送ってくれないんじゃ泊まるしかないじゃない?」
フレデリック──いや、今は“フリエッダ”と名乗っているらしい──は、わざとらしく上目遣いで見上げてくる。
その声も一段高く、妙に甘ったるい。
「誰がお前を送ってくか!!てか、その気持ち悪い声やめろ!!」
「まあまあ、フリエッダ様と三人で登校すればいいじゃない」
ステラがさらっと提案してくる。その自然さに、思わず眉をひそめた。
「ステラ……お前はこいつに適応しすぎなんだよ」
「だって、こっちのほうがかわいいし」
「「ねぇ〜」」
二人が笑いながら声をそろえる。
……仲が良さそうなのは別にいい。いいけど、胸の奥で微妙なざらつきが広がる。
ステラの笑顔は確かに可愛い。けれど、フレデリックと並んでいるときの笑顔は、素直にそう思えない。
それに──無理して明るくしているのも、薄々わかっていた。
(まぁ、実の父親が狂っちまったら……すぐに元通りには行かねぇよな)
「ほら、アレスご飯ちゃんと食べて!!食べないと調子でないよ」
「ばぁか、俺はそんなか弱くねぇよ」
そう言って、向かいに座るステラの額を軽く人差し指でつつく。
彼女は一瞬きょとんとした後、頬と耳をほんのり赤く染め、ふいっと顔をそらした。
(ふっ、かわい)
その反応に、胸の奥で少し前の記憶が疼く。
短い間だった──けれど確かに存在した、あの“恋人”の時間。
何度も俺の理性を試すように微笑んでくる顔。
初めて手を握ったときの、指先に伝わる小さな温もり。
抱きしめたときの華奢な身体の軽さ。
重ねた唇の柔らかさと、そこから溢れる甘い息。
俺にとって、あれは間違いなく人生で一番幸せだった瞬間だ。
何もできなくても、何も進まなくても──ステラのそばにいられることが、俺の全てだ。
だから今は、何も求めない。
彼女が必要とするとき、手を差し伸べる。それだけだ。
……それがきっと、俺が生かされた意味だから。
◇◇◇
冬が春へと変わろうとしている頃、まだ肌寒い空気が校舎の隙間を抜ける午後。
授業を受けていた私の目の前に、ふいに黄色い小鳥が現れた。
造形魔法で作られたもので、羽を震わせながら小さく鳴き、私の机の上に一通の封筒を置く。
その瞬間、蝋細工のような体がほろりと光にほどけ、跡形もなく消えた。
(……なにかしら)
周囲をそっと見回したけれど、先生も生徒も誰も気づいていない様子だった。
私は心臓の鼓動を少しだけ早めながら、封を切る。
――ステラ様の名。
便箋に走る、流れるような筆致。
“ニヴィア様、急な手紙驚かせてしまって申し訳ございません。
時間がある時で構いません、今日のどこかの時間に二年の研究クラスに来て頂きたいです。
お待ちしております。”
要件は何も書かれていない。
けれど、その一文だけで不思議と心は落ち着いた。
理由もないのに、“きっと行った方がいい” と思わせる力が、ステラ様にはあった。
授業が終わり、お昼休みになると、いつも一緒に食事をする友人に軽く理由をつけて席を立つ。
二年生の研究教室は人通りの少ない廊下の奥。
四年生になって久しいはずなのに、なぜか足取りは少し緊張で硬くなっていた。
ゆっくりと扉を開く。
その瞬間、私の視界は光に満たされた。
そこにいたのは――空に瞬く満天の星を人の形にしたような輝きを持つ少女と少年とは言えない体つきの男性。
淡い光に包まれたその姿に、思わず息を呑む。
「ご機嫌よう、ニヴィア様。不躾に手紙で呼び出したりしてごめんなさい」
「……いいんです。ステラ様は、お友達ですから」
言葉を返しながら、頭の中ではまだ目の前の神々しさに今の一言を整理できずにいた。
「こんにちは、ノヴァトニー侯爵令嬢。去年の魔法対決祭以来ですね」
低く、落ち着いた声が響く。
顔を上げると、そこにいたのはステラ様の義弟――アレス・アルジェラン様。
あの時より背は伸び、鍛えられた体は制服越しにもわかるほど逞しくなっていた。
伸びた髪が首筋をかすめる仕草に、大人びた色気が漂っている。
……私の、ど真ん中。
(駄目、落ち着きなさい、ニヴィア)
心の中で自分を叱咤した瞬間、冷水を浴びせるような存在が現れた。
「ニ、ニヴィア様……ご機嫌よう」
「あ……はい。ご機嫌よう」
金の長髪を揺らすその人物は、女よりも美しい顔立ち――そして、間違いなく男。フレデリック・マーリン。
かつては婚約がほぼ確約されていた相手。
家同士の縁も、父親同士の友情も、マーリン公爵家の没落と罪で全てが霧散した。
巻き込まれる形で、ノヴァトニー家も疑惑の目を向けられた。
だから、私は彼に――少なくとも以前のような好意的な態度は取れない。
「はぁ、みんな私に冷たいぃ……」
マーリン子爵はそう言って落ち込んだ様子を見せたが、スルーした。
視線をステラ様に戻すと、彼女はまっすぐに私を見据えていた。その瞳に宿る熱に、自然と背筋が伸びる。
「それで、私をここに呼んだ理由を聞いても?」
「はい。実はニヴィア様に協力してほしいことがあるのです」
「協力……ですか?」
首を傾げる私に、ステラ様の声が一段低く、しかし熱を帯びた。
「理由を詳しくお話しすると長くなってしまうのですが……アレスの母を探しに行きたいのです。
西方に住んでいるという情報を得まして……その西には広大なノヴァトニー侯爵領があります。
人目につきたくありませんので、ニヴィア様に内密でお願いしているのです」
言葉を聞き終える前に、私の口が動いていた。
「ぜひ……協力させてください!」
彼がどんな家の出なのかも、母を探す理由も、この際どうでもよかった。
ただ――なんとなくだけど、この人たちのために力になりたいと、心が迷いなく告げていた。
それだけだった。




