第八話 ディルという男
コツコツと地下労働に響く、力強く迷いのない足音。
「どいつだ?」
「はっ! 406の牢におります二人でございます」
皇城の地下牢の見張り番の兵に居場所を聞くと、ディル様はステラ様を誘拐した犯人が待つ牢へと、まるで躊躇いなど一切ない様子で向かっていった。
僕は、この男の恐さをこの国で一番知っているだろう。
ずっと、そばで見てきたのだから。
怒りの底にあるものを、他人はただの冷酷と呼ぶが、僕にはわかる。それは、愛と喪失が織りなす凶器だ。
誘拐犯の牢にたどり着くと、壁付きの枷を両手足に着けた状態のふたりが並んでいた。
既に顔は腫れ上がり、ムチで打たれた痕が皮膚を裂いて赤黒く浮き出ている。
(拷問されて、だいぶ憔悴してるな……)
痛々しい姿を目にしても、ディル様は一切容赦がなかった。
男の頭を無造作に蹴りつけ、床に頭をぶつけた音が乾いた音を立てた。
「起きろ。死にたいのか」
「ゔ……ぅ」
やっとのことで腫れ上がった瞼を持ち上げた男の目には、もう焦点すら合っていない。声は掠れきっていて、ひと息吐くのもやっとだった。
「誰の指示で、俺の娘を連れ去った」
「頼ま……れたの、おとこ……コドモっ……」
「アレスか。では、依頼者は皇后か?」
「俺ら……しらな、デスラのギルドで……懸賞金が……」
(デスラ……!? まさか……)
「はぁ、隣国と押し付けあってる殺し屋の街か……面倒だな」
そう、ディル様が言った通り、デスラは殺し屋の町と言われている。
無法地帯と化したあの町は、秩序もなく、正義もない。誰もが無責任に命を奪っていく。
しかも、隣国のサダーシャ帝国との国境に位置しているため、両国ともにその土地の所有を押し付け合っており、現実的には誰も完全に掌握できていない。
領有権が曖昧なため、下手に手を出せばあの町を我がリンジー皇国に押し付けられ、国際問題になりかねない。
デスラから来たとなれば、この男たちもサダーシャ帝国出身の可能性もある。
もし、国外追放されていない罪人だった場合、サダーシャ帝国への報告義務が生じることになる――本来であれば、だが。
「エミリオ、これは俺が勝手にやったことだ。お前はなにも知らない」
「はい……?」
ディル様は突如、訳のわからないことを言い出したかと思えば、止める間もなく、躊躇いもなく――
男二人の胸を、無造作に、確実に、剣で貫いた。
「え……」
血が音もなく広がり、命の灯火が音もなく消えていく。
「行くぞ。靴が汚れる」
それだけを言い残して、ディル様は何事もなかったかのように地下牢を後にした。
「……良かったんですか? サダーシャ帝国の人間であれば……」
「俺はアイツらの名前も知らない。サダーシャ帝国の人間かなんて、可能性なだけで確定したわけじゃないだろう。わざわざ調べまい」
そう言い放つディル様の背には、罪悪感も葛藤も見当たらなかった。
それは覚悟と諦念、そして「二度と奪わせない」という怒りだけが形を成した後ろ姿だった。
皇城の敷地内――騎士団本部の一角にて、血で汚れた、普通の人間が両手でも持ち上げられない重量のある魔法剣を、ディル様は片手で軽々と持ち上げていた。
魔法で血を浮かせながら、無言で丁寧に剣の手入れをするその姿は、ひどく静かで、だからこそ、恐ろしい。
セレーナ様がお亡くなりになった当時のディル様は、心が死んでしまったようだった。
まるで人間の皮を被った悪魔のように豹変し、かつての優しさを捨てた。
強く、気高く、そして何より優しかったディル様は――セレーナ様を、愛しすぎていた。
戦争の最前線に立ったときでさえ、彼は躊躇うことなく、神の縛りのない者にしか使えない、死に直結する魔法を行使した。
その魔法で、何十人の命を焼き尽くし、何百人の命を斬り裂いてきた。
普通の人間なら、そんな状況は辛く苦しいものであるはずなのに、彼はむしろ――生き生きとしていた。
何かに縋るように、何もかもを壊してやるかのように。
そんなディル様が、娘のステラ様と暮らすようになったときは、心底驚いたものだ。
けれど、時間をかけて、彼は少しずつ以前の姿を取り戻しつつあるように見える。
……ただし、大切な人間を何度も失ってきたが故に、彼の行動はたまに、あまりにも極端で度を越している。
セレーナ様が生きてさえいれば。
彼はきっと、真っ当に、誰よりも立派な人生を歩んでいたのだろう。
――ステラ様が、あの人の代わりになってくれないだろうか。心の底から、そう願わずにはいられない。
「セレーナ様に似てますよね」
「ステラか……そうだな。顔も、髪も似ている」
「違います。性格の話です」
僕がそう言うと、ディル様は手の動きを止め、剣を静かに鞘へと納めた。
「似ているから、困っている」
「なぜです?」
その問いに返ってきた答えは、僕の知らないセレーナ様の一面だった。
「セレーナは……生きる事に固執していなかった。他人の命は大切にするくせに、自分の幸せには無頓着だった。幸せになればなるほど、“もう、いつ死んでもいい”と、笑っていた」
まるで、過去に地を這うような絶望を経験したことがあるかのように。
日常の中の些細な幸せに、満ち足りているようで――どこか、諦めていた。
「その姿が、ステラに重なる。だから、怖い」
ディルド様の瞳が、一瞬だけ、寂しげに揺れた。
それは、セレーナ様の面影を、ステラ様に重ねたくないという拒絶か。
あるいは、娘にまで同じ運命が降りかかることを恐れている父親の本能か。
「全然気が付きませんでした。違和感は感じますけど……」
「違和感?」
「はい。喋り方や仕草が、六歳にしては大人っぽ過ぎるな、と」
「普通の六歳はどんな感じだ?」
「ん〜、アレス殿下のように嫌なことは嫌だと逃げ回ったりとかですかね?もっと夢見る年頃なのでは?死なんて、深く意味もわからない年齢だと思います」
「そんなものか……」
ディル様がため息をつく。
それは疲労ではなく、戸惑いを含んだ、父親としての不器用な溜息だった。
ディル様――今では、こんなふうに、普通の父親として悩むことができるようになられたのですね。
そう口に出しかけて、けれど、やっぱりやめた。
最恐とも謳われる、温情をかけない国一番の魔法騎士にかけるには――あまりにも場違いな言葉に思えたから。
だから僕は、心の中でそっと願うしかない。
ディル様がこれ以上、命を奪わずに済むように。
どうか、セレーナ様――天から、見守っていてください。
◇◇◇
出血によって貧血で倒れたあと、守護魔法の契約で私の中に流し込まれた魔力があまりにも多すぎるお父様の血液。
その強すぎる力に、私の身体が拒否反応を起こしてしまったらしい。結果、一週間もの間、私は高熱にうなされて寝込むこととなった。
意識が朦朧としていたあの間、ぼんやりと覚えているのは──
部屋の隅に立ち尽くし、何度も私の額に手を当てて体温を確かめてくれたお父様の姿。
そして、毎日のように入れ替わる花瓶の中、明るい色のガーベラをそっと置いていったアレス。
「ふふっ、アレスったら……花を供えるなんて、とても可愛いわ」
そう独りごちながら、胸がふわりと温かくなった。
病気になったとしても、私のことを気にかけてくれる家族がいる。それがとても嬉しかったのだ。
そんな穏やかな気持ちの中、ふと思い出したのは、お父様がかけてくれたあの言葉。
『やりたいことを見つけなさい』
……だけど、私は何も思いつかなかった。
この人生でやるべきこと──それは、聖女カナに嵌められる前に、最恐のお父様を味方につけることだった。
そしてそれは、思いのほかあっさりと成功してしまったのだ。
……それなのに、心のどこかで私は、生きることに対する執着をなくしていることに気づいてしまった。
前はあんなにも「生きたい」と思っていた。
でも今は、もう──何もやり残した気がしない。
前世と、やり直し前の人生。
二度の人生を歩んでしまったから、三度目の今に「もう、長いよ〜」と身体のどこかが訴えている気がする。
「……ま、ゆっくり探しますか」
気を取り直して、ソファに“ぼふんっ”と沈むように座った、その時。
「ステラステラ!! 今日から外で特訓だってよ!!」
コンコンと小さなノックのあと、勢いよくドアを開けてアレスが駆け込んできた。
顔は期待に満ちていて、目はきらきらと輝いている。
「……はい?」
突然の報せに固まる私。
(特訓……? なにそれ、聞いてない)
ぽかんとしていると、開けっぱなしの扉の向こうから、ゆっくりとした足取りでお父様が現れた。
「今日からお前たちには、俺が魔法を教える。アレスには塔の中で少し教えたことがあったが、今日からは外で思い切りやってくれ」
「よっしゃぁぁあ!! 存分にやってやる!!」
アレスは大喜びで拳を振り上げ、まるで戦士のようなテンション。
「ちょっと待ってください、私もですか?」
あまりにも唐突すぎて、思わずお父様に尋ねてしまう。
「……ああ。お前は魔力を制御できてはいるが、レベルは高ければ高いほどいい。魔法は星の数ほどある。多く覚えれば、その分だけ選択肢が増える。……危険から身を守れるようにしておけ」
その口調はいつも通り淡々としていたけれど、ふと目が合った瞬間、瞳の奥に切なさのような、どこか沈んだ光が見えた。
──私のことを、心の底から心配してくれている。
誘拐事件を、誰よりも深く悔いている。そんな想いが伝わってきた。
「……わかりました! 自分の身は自分で守ってみせます!!」
思わず、気を張って背筋を伸ばす。
「ああ。そうしてくれ。死なれたら困る」
小さく、けれど確かに言葉に込められた想いに、胸がじんと熱くなる。
「はい!!」
こうして、私たちはお父様に魔法を教わることになったのだが──
「こうして、こうだ。やってみろ」
「ん?なぜできない……?」
「これはこうだ。簡単だろう」
──お父様、絶望的に教えるセンスがありません。
完全なる天才肌。
“感覚で覚えるもの”を、理屈で教えようとしないのだ。
空に手のひらを向けると、一瞬にして火の雨を降らし、雷を空気から引き寄せて見せて、「ほら」と言う。
「いや、ほらって言われても……」
私はぽそっと呟き、アレスと目を見合わせた。
アレスも目を泳がせながら、こっそり肩をすくめる。
──とはいえ、これはこれで悪くない。
魔法の訓練がどれだけ過酷でも。
お父様の教え方が下手でも。
こうして少しずつ、家族の中に自分の居場所ができていくのが、たまらなく嬉しかった。