第七十九話 手がかり
「……アレス、ちょっと……成長スピードおかしくない?」
目の前に立つ彼を見上げながら、思わず口から漏れた。
半年ぶりに会ったアレスは、背がぐんと伸び、肩幅も広がっている。少年の線の細さはもうなく、変声期を終えた低い声がさらに大人びた印象を与えていた。
彼はわずかに眉を寄せ、しかし照れ隠しのように口元をゆるめる。
「めちゃくちゃ鍛えた。本当は三ヶ月のつもりだったのに……舞踏会後からステラの様子がおかしいってディルのやつが皇都に俺を帰す気ねぇんだよ。
お陰で半年間、訓練漬け。筋力も魔法の精度も上がったし……測ってねぇけど、多分レベルもかなり上がってる」
お父様……。
少し前までは私を心配していたのね
リナがこの国に来ただけで、私はあの時、そんなに不安定に見えていたのだろうか。
「それにしても、身長伸びすぎじゃない?前は俺と同じくらいだったのに。ディル様くらいになってない?」
フレッド様が半ば呆れ気味に言う。
「成長期だしこんなもんだろ。それより──なんで女装野郎がここにいんだ?」
「まぁ、美人は何人いても困らないでしょう?」
「急に女ぶるな。気持ち悪い」
「ステラちゃ〜ん、アレスくんが酷いこと言うぅ。でも爵位下がっちゃったから強く言い返せなくて怖いよぉ」
そう言って、フレッド様は私に抱きついてきた。
「おい!!ステラに触んな──って……なんで?」
アレスの声が途中で止まる。
私に触れたフレッド様を見た瞬間、何かに気づいたように、困惑した表情で私に手を伸ばした。
温もりを知っているはずのその手が、頬に触れた瞬間──胸の奥に冷たいものが走った。
この手は愛おしい。でも、その意味を考えると、ひどく悲しい。
「……どういうこと?」
低い声が、真っ直ぐ私を射抜く。
その真剣な眼差しから、視線を外すことができなかった。
「坊ちゃん、そろそろお部屋でお話を……」
緊張を断ち切るように、サリーが柔らかく声をかけた。
「あ、ああ」
案内され、私たちは応接間に通された。
重厚な扉が閉じられると、部屋の中は静まり返る。そこには薄い香の匂いが漂っていた。
私は息を整え、アレスにこの半年間の出来事、そして数時間前に皇都のタウンハウスで起きたことを話し始めた。
声が詰まるたびに、フレッド様が滑らかに補足してくれる。
「……意味わかんねぇ。じゃあ、その頬の手当は……ディルがステラを傷つけたってことか?」
「……そう」
椅子を軋ませて、アレスが勢いよく立ち上がった。
その眼には怒りの光が宿っている。
「どこ行くの?」
「ディルのとこ」
「やめて。今言っても無駄よ……下手したら殺されるわ」
「殺さねぇよ。ステラのことだって“大罪人になるから殺せない”って言ったんだろ?だったら俺も戸籍上は家族だし……それに──」
俯いた瞬間、フレッド様が軽く笑いながら口を挟んだ。
「皇子だから?」
その言葉に、私もアレスも同時に目を見開く。
「フレッド様……知ってたんですか?」
「うん。マティアスから聞いたんだ。アレスくんが養子だと知らない生徒たちが“双子説”とか言ってて、俺も一瞬信じちゃった時にね」
「……そうだったんですね」
「だから俺のことは気にしないで、どんどん話していいよ。──あ、そうだアレスくん、着替え貸してくれない?もう男モードに切り替わっちゃったから、この格好疲れた」
まるで空気が読めていないような話で、フレッド様は場の緊張を和らげた。
アレスは小さく舌打ちし、深く息を吐く。
「はぁぁぁ……服は用意させる。あと、神官を呼ぶから傷を治してもらえ」
アレスは深く息を吐き、落ち着いた声でそう告げた。
「いいよ、きっとすぐ治るし」
「ダメだ。魔法でついた傷は残りやすい。せっかくのステラの……美人な顔に、傷でも残ったら大変だろ」
───美人な顔。
その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が跳ねた。
頬がじわじわと熱くなっていくのがわかる。
今までアレスに褒められたことは何度もあったけれど、こんなに真っ直ぐで、しかも低くなった声で言われるなんて。
体格も変わり、肩幅も広く、少し伸びた髪が顔に影を落として……まるで別人みたいに、かっこよくなっていた。
そんな私の反応を見て、アレスの口元がほんのわずかに上がった。
「なに顔真っ赤にしてんだ?……弟に」
(そうだった。私が“姉弟”に戻ろうって言ったんだ。弟に褒められてこんなに照れる姉なんて……普通はいない。……けど───)
「……弟に見えない。もっと弟らしくして……」
「やーだ。その方が好都合だし。ディルに勝つために鍛えてたけど……もしステラのタイプだったんなら、それはそれで良かった」
「タイプじゃ───……うそです……タイプです……」
思わず絞り出すように答えた瞬間、頭の中まで沸騰しそうになった。私は両手で顔を覆うように隠した。
すると、空気をぶち壊すようにフレッド様が割り込んできた。
「イチャイチャしててずるい〜!!ねぇ、俺は?俺だって口説きたいけどさぁ、ディル様に“ステラちゃんを諦める”ことを条件に告発手伝ってもらったからなぁ……」
「ほら、着替え来たぞ。着替えてこい」
アレスは応接間に届けられた服を、軽く放るようにフレッドに投げた。
「俺がいない間に変なことしないでよ……!?」
「早く行け……!!!」
押し出されるようにして、フレッド様は渋々別室へと消えていく。
扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかっていく。
───応接間には、久しぶりに私とアレスだけが残された。
少しだけ、静かな空気が流れた。
それは気まずさではなく──冬の午後に差し込む陽だまりのような、優しい温度を帯びた静けさ。
「ステラ、大丈夫か?」
低く穏やかな声が、私を現実へ引き戻す。
「うん。傷はそんなに深くないから」
私は微笑みながらそう答えた。
けれどアレスは、ふっと小さく首を振る。
「違うよ」
その声は、まるで胸の奥の隠れた痛みを見透かすようだった。
彼は私の隣に腰を下ろし、そっと手を握る。
その掌は温かく、逃げ場を失った心にまでじんわりと熱が広がっていく。
「俺は、お前の心の話をしてるんだよ」
正面から見つめてくる金色の瞳は、柔らかな光を宿していた。
それは冬の夜に灯るランプのように、心細さを和らげる温もりだった。
「……正直、大丈夫じゃなかったわ。でも、今回はアレスがいてくれるから……大丈夫な気がする」
私は小さな声でそう漏らし、そっと彼の肩に頭を預けた。
何も言わずに、アレスは私の肩を包み込むように腕を回す。
その包容力に、張り詰めていたものが少しずつ溶けていく。
──愛というのは、不思議だ。
あんなに深く傷ついた心が、大好きな人の瞳や言葉ひとつで癒えていくのだから。
やっぱり、私は死にたくない。
もっと、アレスと一緒にいたい──
そのためにも、今度こそ諦めちゃいけない。
かつて、アレスに会う前は……お父様に殺される未来を避けるため、自ら命を絶つことさえ考えた。
そうすれば、私の処刑を企てたリナや、それを許した皇室、そして処刑を執行したお父様自身が自分憎まずに済めば、国が滅びることも、防げるのではないかと。
けれど──そんな考えは、もう捨てる。
「なぁ、ステラ。ディルを正気に戻したら、俺……あいつに決闘申し込もうと思うんだ」
「……なぜ?」
「そりゃ、ステラとまた一緒にいるために決まってるだろ?」
その即答に、胸がきゅっと締めつけられる。
「でも……私、アレスに酷いこと言ったのよ? “なかったことに”って」
「そんなの気にしてない。あの時はそうするのが最良の選択だったんだろ? それに、端から諦めるつもりねぇよ」
アレスは、悪戯っぽくも真っ直ぐな笑みを浮かべた。
その笑顔があまりにも愛おしく、その言葉が嬉しくて──
私は反射的に彼の胸へ飛び込んだ。
熱い鼓動が耳に触れる。
視界が滲み、こぼれた雫をアレスの胸に押し当てるようにして、しばらく肩を震わせた。
アレスは何も言わず、ただ背中を優しく摩り続けてくれた。
その手の温もりが、決意へと変わっていくのを、私ははっきりと感じていた。
そして、涙も止まり、私の呼吸もようやく落ち着き始めた頃。
扉の向こうから、妙に間延びした声が響いた。
「あのぉ〜……そろそろいいっすか?」
振り返ると、ほんのわずかだけ開いた扉の隙間から、フレッド様が猫のようにひょっこりと顔を覗かせていた。
金色の髪がちらりと揺れ、どうやら随分と前からそこにいたらしい。
「っ……!」
私は慌ててアレスの腕から抜け出そうとした。
だが、その動きを読んだかのように、アレスが素早く私の手首を取り、ぐっと引き寄せる。
「えっ……!」
抵抗する間もなく、私は再び彼の腕の中に収まり、温かな体温と心臓の鼓動に包まれた。
頬が一気に熱を帯び、声が詰まる。
「……はいはい、ラブラブは分かったから」
フレッド様は呆れ半分、諦め半分といった顔でため息をつく。
「もうそのままでいいや。俺はさ、馬車の中でステラちゃんが話そうとしてたことを聞きたいんだよ。……聖女の手がかりだっけ?」
「そんなのがあるのか?ステラ」
アレスが腕をほどきながら問いかける。
「あ、うん。ヴァルに聞いたの」
「ヴァルって?」と首を傾げるフレッド様。
彼はヴァルの存在を知らないので、目を丸くしていた。
「ヴァルは私の使い魔なんです」
「え、でも聞いたって……」
「ステラの従魔はSランクだからな」アレスがさらりと口を挟む。
「はぁあ!? え? は!? Sランクって、あの……っ!?」
フレッド様が仰け反るほどの勢いで驚くが、アレスはその狼狽を完全にスルーして話を続けた。
「それで? ヴァルがなんだって?」
「あ……えっと、西の方面に住んでいるアヤカ・ハセガワっていう聖女を探せって。今はアイリーンという名前で暮らしているらしいわ。その人がきっと私を救うって……それから、アレスと行動するようにとも言っていたの」
私が説明し終えると、アレスの表情が一変した。
さっきまでの穏やかな空気が消え、顔色が見る間に蒼白になる。
「今……なんて言った?」
低い声が、空気をひやりと冷やす。
「アレス……? 大丈夫?」
私は思わず覗き込むが、彼は小さく首を振った。
「大丈夫だから、もう一度言ってくれ。……西にいるってだけ、だな?」
その声は震えていて、彼は片手で額を押さえていた。
まるで強烈な痛みに耐えているかのように。
「西の方面に住んでいるアヤカ・ハセガワっていう……聖女。もともとは皇宮にいたけど、聖女であることは伏せられていたって、ヴァルは言ってたわ」
その瞬間、アレスの瞳の奥に深い影が落ちた。
唇がかすかに震え、言葉を選ぶように沈黙が続く。
私には、その表情が何を意味しているのか──薄々、わかってしまった。
「ねぇ、まさか──」
「……その人は」アレスは息を呑み、そしてはっきりと言った。
「俺の……母だ」




