第七十八話 成長
まだ冬の空色が色濃く残りつつも、ところどころに春色が差し込み始めている。
馬車の窓の外を流れる景色は、どこかまだ冷たい風を孕んでいて、見ているだけで指先がかじかみそうだった。
私の視線は外に向いていても、心はずっと別の場所に囚われている。
──お父様の、あの冷たい眼差し。
脳裏に焼き付いたまま、まばたきの度に蘇ってくる。
気づけば、眉間に力が入り、ぎゅっと皺を寄せてしまっていた。
「ステラちゃん、そろそろ可愛いお顔にシワが着いちゃうわよ?」
不意に、向かいに座るフレッド様が、私の眉間をツンと指で押した。
軽い冗談のようで、でもその瞳にはこちらを気遣う優しい光があった。
「……」
私はゆっくりと息を吐き、眉間を撫でて力を抜く。
けれど、瞼の奥のもやは晴れない。
「フレッド様は……なんで着いてきたんですか?」
思わず、棘のある口調になった。
あまりにも衝撃的な出来事だったせいで、いつものように愛想を作る余裕なんてなかった。
窓の外を見たまま、不貞腐れた子供みたいな言い方をしてしまう。
「……独りにしたくなかったからかな」
「え?」
彼は少しだけ肩をすくめ、私を覗き込むように視線を合わせた。
「なんか、ステラちゃん……消えちゃいそうでさ」
その言葉に、一瞬だけ胸がちくりとする。
けれど彼は、すぐに視線を外し、背もたれに体を預けて腕を後頭部に組み、わざと気楽そうな姿勢を取った。
「──というのは嘘で、実は家に帰っても寂しいから着いてきただけ」
「……」
「大親友は、俺の知ってる人格じゃなくなっちゃったしさぁ」
その口ぶりは軽いけれど、わざとそうしているのがわかる。
いつもなら女装中にそんな格好をすれば「フリエッダと呼びなさい!」としつこく言ってくるはずなのに、今日は何も言わない。
それだけで、彼なりに私を安心させようとしてくれているのが伝わってきた。
「……マティアス様も……」
「うん。ディル様みたいに狂気的じゃないけど……あれはおかしい。俺のことなんて、見えてないみたいだった」
馬車の揺れの中、フレッド様は天井を見上げて小さくため息を吐く。
「普通に考えれば、聖女──リナの仕業だって思うのが自然だろ?」
「どうしてですか?」
「それは……勘だ」
真顔でそう言い切るから、思わず吹き出してしまった。
「勘……ぷっ、ふふ……ははっ」
私が笑うと、彼はほっとしたように、そして私以上に柔らかい笑顔を浮かべた。
「よかった……笑ってくれて。美人の笑顔は一番美しいからね」
その真っ直ぐな言葉に、頬がほんのり熱くなる。
照れもせず、こういうことをさらりと言えるのが、彼の一番ずるいところだ。
「……ありがとうございます」
「いいってことよ。でも、聖女が二人になにかしたっていうのは本気で思ってる。二人だけじゃなく、周りも放っておいてるのもおかしな話だ」
「……はい、私もそう思います」
窓の外では、雪解けの地面に柔らかい芽が顔を出し始めていた。
けれど、胸の中はまだ凍りついたままだ。
確かに物語の中では、リナは早い段階で周囲から愛され、
マティアス様と──そして当て馬なのかはわからないけれど──お父様の溺愛が始まった。
この世界の作法や言葉遣いを一生懸命学び、怪我人を見れば迷いなく助け、何の見返りも求めない……
そんな姿だったから、皆が惹かれたのだ。
けれど、一度目の人生で私が見たリナは違った。
傲慢で、勉強嫌いで、二人がいないところでは人助けなんてしなかった。
──なのに、二人は彼女に夢中だった。
これは、原作ストーリーに強制的に引きずられているのだろうか。
それとも、もっと別の──目に見えないなにかが働いているのか……。
「なんか……魅了みたいなものがかかっていそうな……」
窓の外を眺めていたフレッド様が、ぼそりと呟いた。
その声は低く、普段の軽快さよりもずっと慎重で重たい響きを帯びている。
「魅了魔法、ですか?」
私が問い返すと、彼は小さく頷き、腕を組みながら視線を落とした。
「うん。でも……禁忌の魔法は使った瞬間に、死より苦しい痛みが走るはずだ。普通は有り得ない」
その言葉に、胸の奥で何かがひやりと冷たくなる。
──そう、この国には“禁忌魔法”が存在する。
そのひとつが、人の心を無理やり縛りつける魅了魔法だ。
かつて数百年前、ひとりの魔法使いがその魔法で国中の要人を操り、内政を崩壊寸前まで追い込んだ。
その末路は惨憺たるもので──以後、当時の最高魔力保持者が皇国全体に“誓約魔法”を施した。
禁忌魔法を使えば、誓約が発動し、即座に耐え難い痛みに苛まれる。
例え聖女であっても、その代償から逃れることはできない。
「……それに、リナには魔力がほとんどないはず」
私は小さく首を振る。
「簡単な魔法さえ、まともに使えないはずです」
フレッド様も「だよね」と短く同意したが、その瞳の奥には何か考え込む影が落ちていた。
「……一つだけ、手がかりが見つけられるかもしれません」
「手がかり?」
私が言いかけると、彼はすっと片手を上げて制した。
「話は……公爵邸に入ってからにしよう」
彼の表情から、それ以上口を開くのは危険だと悟る。
そこで初めて、外の景色に視線をやると、馬車はいつの間にか公爵邸の広大な敷地へと足を踏み入れていた。
(……着いたんだ)
胸がざわつく。
アレスに会いたい──けれど、会いたくない。
会えば、きっと安心する自分がいる。
でも同時に、「お父様に追い出されたから戻ってきた」と思われたくない意地もあった。
そんな矛盾が、胸の奥で絡まり合って息苦しい。
俯いた瞬間、そっと温もりが指先に触れた。
顔を上げると、フレッド様が私の手を握っていた。
「大丈夫だよ」
ただそれだけ。
けれど、その短い言葉が、胸の重さをほんの少し溶かしてくれた。
翠色の瞳に映る優しさに、私は静かに頷き返す。
──ガタン。
馬車が緩やかに停まり、車輪の音が消える。
私たちは順番に馬車を降り、まだ冷たい石畳を踏みしめる。
玄関の重厚な扉の前に立ち、深く息を吸い込んだ。
肩を張って前を向く。
そして──ゆっくりと扉が開かれた。
「おかえりなさいませ──お嬢様」
玄関口に立っていたのは、死に戻る前の人生でずっと私の“親代わり”だった乳母であり、侍女長のサリーだった。
あの穏やかで包み込むような笑顔。十年もの間、顔を見せられなかったのに──まるで昨日まで傍にいたかのように、変わらない。
「サリー……久しぶり」
声が、少しだけ震えた。
目の前のサリーは、私の知っている彼女のままだった。
年を重ねても、その瞳は相変わらず優しく、母のようにあたたかい。
「奥様によく似て……お美しくなられましたね」
「ありがとう。サリーが元気そうで、本当によかった」
「ええ、とても元気でございます」
微笑んだサリーの顔に、胸の奥の緊張が少しほどける。
「そうだ、サリー。こちらはフレデリック・マーリン子爵よ」
──言ったあとで、はっと気づく。
あまりにもフレッド様の女装姿に見慣れてしまって、説明をすっかり忘れていた。
「子爵様でございますか?」
戸惑うサリーに、フレッド様が自ら一歩前に出た。
唇に軽やかな笑みを浮かべながら。
「こういう格好が趣味だけど、れっきとした男で、子爵です。新聞で見たことない?“マーリン公爵家没落、国外追放”って記事」
「あ、あのマーリン家でございますか」
「元公爵の孫で、今は家族の不正を告発したおかげで国外追放を免れ、子爵位を賜った──ステラ嬢の友人です」
「それは……失礼いたしました。それでは、お部屋をご用意──」
サリーの言葉が途中で遮られた。
「ステラ!!」
大階段の上から、私の名を呼ぶ声。
顔を向けた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる。
アイスブルーの髪を揺らし、焦ったように駆け下りてくる──アレスだった。
その姿を見た瞬間、息が詰まる。
自分から距離を取ったくせに、愛おしいと思ってしまう。
たった半年ほど会っていなかっただけなのに……ずいぶん大人びて、逞しくなった気がする。
やがて目の前に降り立ったアレスは、大きな肩を上下させ、息を切らしていた。
その近さに、懐かしさと戸惑いが入り混じる。
「なんで……急に前触れもなく来たんだよ。ディルに殺されるだろ……」
「え、あ……」
言葉が喉でつかえる私の代わりに、フレッド様が勢いよく口を挟んだ。
「ねぇ、アレスくん。……なんか、大きくなりすぎじゃない?」
(……え?)
よく見れば──確かに、アレスがやけに大きい。
いや、大きいどころじゃない。半年会わなかっただけで、別人みたいに背が伸びて、体格まで……。
「……アレス、ちょっと……成長スピードおかしくない?」
思わず口から漏れたその言葉に、アレスは眉をひそめ、少しだけ口元を緩めた。




