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第七十七話 大好きな父はいない





お父様が帰らなくなって、三週間が経とうとしていた。

皇宮へ直接出向くことも考えた。けれど──今の状況がまるで掴めない中で飛び込むのは、火の中へ裸足で駆け込むようなものだと、足を止めていた。


魔法学校には、こうして今も通ってはいるけれど、何も手につかない。

魔法研究のための時間は、いつの間にか──死に戻る前の人生を頭の中でなぞり、答えのない問いに悩む時間に変わっていた。


「……ふぅ、少し休憩しよう」


小さく息を吐き、私は教室を出る。

外の空気を吸おうと、庭園の東屋へ向かう廊下を歩いていた、その時だった。


背後から、鼻にかかった甲高い声が響く。


「ステラちゃぁぁあん!!」


振り向けば──そこに立っていたのは、絢爛なドレスに身を包んだフレッド様……いや、女装中のフリエッダ様。

あの事件の後、彼は陛下から子爵位を授かっていた。マティアス殿下と幼いころから親しく育ってきたこともあり、陛下なりの親心だと聞いている。


けれど、今の彼の顔はいつもの余裕を失っていた。

頬はこわばり、唇は落ち着きなく開閉し、瞳の奥には焦りが滲んでいる。

そのままの勢いで駆け寄ると、がしっと私の肩を掴んだ。


「フリエッダ様……どうされましたか?」

「どうしたもこうしたもないよ!!」

語尾を整える余裕もない。女性らしい言葉遣いも吹き飛ばし、切羽詰まった声音が飛び出す。

「どうしたの?ディル様!! マティアスもだけど……あいつら、おかしいって!!」


「おかしい?」私は眉を寄せる。

「……実は、お父様、ここ三週間ほど帰っていないんです。手紙も送ったんですけど、返事もなくて」


「それ、絶対リナちゃんのせいだと思うよ」

フリエッダ様は吐き出すように言った。

「子爵位を授かる時に登城したんだ。そこでマティアスに会ったら……なんか胡散臭い笑顔でリナちゃんと一緒にいてさ。俺の目の前で、あいつ、彼女に愛の言葉を囁いて、抱きしめ始めたんだぜ?」


頭の奥で、冷たい音がした気がした。


「そんで、昨日また行ったら……敷地内でリナの悪口を言ってた使用人に魔剣を突きつけててよ。片手にはリナ抱えてたんだ。あのディル様が……ステラちゃん依存だったあの人が、他の女にエネルギー使うなんて、普通じゃないよ」


胸の奥がぎゅっと締めつけられる。息が苦しい。喉が詰まり、声が出ない。

──それは、知っている光景だ。死に戻る前の私が、嫌というほど目に焼き付けた姿。


マティアス殿下は、どこであろうとリナに愛を囁くようになった。

それは──私の目の前でも、婚約者という立場などなかったかのように。


そして、お父様は……リナを侮辱する者を容赦なく切り捨てるようになった。

腕を落とす噂も、刃を向ける話も、すべて現実だった。

私も一度だけ、はっきりと見たことがある。

魔法学校まで足を運んできた父が、リナに婚約者を奪われたと責めていた女生徒を、血の飛ぶ勢いで傷つけていた──あの瞬間を。


その場を凍らせるほどの威圧感。

あの時、父がどれほど恐ろしい存在かを理解し、二度と逆らうまいと決めた。


皇帝陛下もまた、それらの惨状を知りながら、聖女の意志を第一にと肯定していた。

それが、私たちの世界だった。


足がガタガタと震える。

指先から血の気が引き、視界の端が少し白む。

──嫌な予感が、現実の形を取り始めていた。


「ステラちゃん、大丈夫?」

「……ええ」


フレッド様は、私の顔を覗き込むように視線を落とし、そっと背中に触れた。

その仕草はまるで羽毛のように柔らかく、温もりが指先から広がってくる──


けれど私の全身を走ったのは、じんわりとした安堵ではなく、鋭い寒気だった。


(……結界魔法が、解けてる)


息を呑む。

お父様が私にかけていた“見えない結界”──異性が触れれば発動し、相手を大きく弾き飛ばす護りの魔法。

それが今、何の反応も示さない。


フレッド様の手は、そのまま私の背にある。

魔法の煌めきも、衝撃も──何もない。


頭の奥で、ガラス細工のように繊細だったお父様の愛情が、音もなく崩れ落ちていく感覚がした。

もし帰ってきたとしても、あの温かくも重たい視線は、もう私に向けられないのかもしれない。

その想像だけで、胸の奥に冷たい石を押し込まれたような息苦しさが広がる。


「ねえ、ステラちゃん。良かったら……今日、公爵家に行ってもいい?友達として、少しリラックスしてお茶でもしない?」


長いブロンドの髪をゆるやかに揺らし、フレッド様──いや、今はフリエッダ様は小首を傾げる。

その微笑みは、絵画のように華やかで、そして眩しいくらい優しかった。


「でも、フリエッダ様は子爵として……執務が忙しいのでは?」


一応の遠慮を口にする。

しかし返ってきたのは、軽やかな声だった。


「それが全然!! もともと公爵家を継ぐための勉強をしてたから、子爵領くらいじゃやることなんて少ないの。それに──アルジェラン家のご令嬢と交流を持つほうが、よっぽど大事だと思うな」


楽しげに笑うフレッド様の姿を見て、胸の奥にわずかに残っていた氷が少しだけ解けていく気がした。

……今は、独りで部屋に籠るのは耐えられない。

だから私は、その申し出に甘えることにした。



◇◇◇



「……え」


公爵家の馬車でタウンハウスに着いた瞬間、

胸を突き刺すような違和感が、私の足を止めた。


玄関をくぐった瞬間、視界に飛び込んできた光景に息が詰まる。


「あ、ステラ様。ごきげんよう」


そこにいたのは──三週間ぶりに見るお父様と、その隣で微笑む聖女リナだった。

蝋燭の灯りが二人の距離を柔らかく照らし、まるで絵画の中のように親密な空気を作っている。


「……どうして……?」


思わず問いかける。

けれどお父様は、まるで私がそこにいないかのように、一度もこちらを見なかった。

視線は、ただひたすらリナへ。

私の存在など、最初からなかったように。


(……リナしか見てない)


「最近、ディル様に魔法で学校の送り迎えをして頂いていて……今日はディル様のお家に行きたいとお願いしたら、連れてきてくださったんです」


リナは甘やかな声を響かせながら、ちらりと私を見た。

その目は、柔らかく笑っているのに──底の見えない黒を孕んでいる。

まるで私に、自分の立場を見せつけるように。


「ディル様、どうしたんですか!? リナちゃんと関わるようになってから、様子がおかしいですよ!」


私が言葉を失っている間に、フレッド様が声を上げた。

そして一歩、お父様へ踏み出す。


「貴方は娘しか愛さない主義だったでしょう!? アレスくんとも離れさせて……ようやく彼が帰ってくるというところで聖女に絆され──」


その言葉が途中で、ぷつりと途切れた。

次の瞬間、フレッド様は喉を押さえ、苦悶の色を浮かべる。


「……っ、が……っ!」


顔がみるみる赤く染まり、やがて赤黒く変色していく。

浮き上がった血管が今にも弾けそうなほど膨張し、全身から汗が噴き出す。


「フレッド様!? フレッド様……! お父様、やめてください……!」


必死に叫ぶ私を、お父様は一瞥もしない。

指先ひとつ動かす気配もなく、ただ圧だけでフレッド様の命を握り潰そうとしていた。


やがて、ふっとその圧が解ける。

フレッド様は肩を大きく揺らしながら空気を吸い込み、少しずつ肌色を取り戻した。


「フレッド様……!」


私が駆け寄ろうとしたとき、お父様の低い声が、氷刃のように空気を裂いた。


「あまり無駄口を叩くな……次は、殺す」


その声音には、ひとかけらの冗談も、迷いもなかった。

冷たく、鋭く、刃のようにまっすぐ私の胸を切り裂く。


……やっぱり。

もう、私の大好きだったお父様はどこにもいない。


(このままじゃ……原作通りになる)

そうなれば、物語が終わった瞬間、この国も──お父様も……。


「やめた」


私が心の中で弱音を吐きかけていたその時、まだ呼吸を整えていたフレッド様が、低く鋭くそう言い放った。

瞳には怒りが宿り、声は氷のように冷えている。


「お前は……俺が尊敬していたディル様じゃない。敬語を使う価値もない。……実の娘と同じ歳の、その聖女とどうなりたいわけ? 気持ち悪い」


吐き捨てるような言葉。

それは、挑発とも決別とも取れる響きだった。


お父様の目が、ギラリと光る。

そして、ゆっくりとフレッド様へと手を向けた。


「……次は殺すと言ったな」


空気が重く沈む。

一瞬のうちに胸が締めつけられ、私の背筋が勝手に震えた。


「やめて……!!」


考えるよりも早く、私はフレッド様の前へ飛び出していた。

お父様の掌から放たれた黒い稲妻のような魔法は、空気を裂きながら一直線に迫る。

瞬間、肌が焦げるような熱気と耳鳴り。

だが私がその軌道に入った途端、稲妻は急激に弱まり、頬をかすめるだけで霧散した。


(……私だから止めてくれた?)

一瞬、そんな希望が胸をかすめた。

けれど、それはあっけなく否定される。


「ディル様?」


お父様はすでに、私ではなくリナを見ていた。

胸元に抱き寄せ、甘い声音で名を呼ばれると、彼は彼女の髪をやさしく撫でる。


「すまんが、()()は殺せない。家族を殺したら、この国では大罪人だからな」

「え、そうなんですか? 理由があっても?」


まるで私を殺す手段を探るかのように、リナは小首をかしげた。

その声音には悪びれもなく、唇に浮かんだ笑みは無垢な仮面のようでいて、底知れない冷たさを帯びている。


「ああ。処刑囚にでもなれば話は別だがな」

「処刑囚……へぇ、そうなんだ」


その瞬間、彼女の瞳がわずかに輝いた。

……ああ。やっぱり。

死に戻る前、私を処刑台へ追いやったのは──この女だった。


「ディル様は、実の娘でも処刑できますか?」

「……はっ。実の娘と言っても、愛する妻を殺した罪の子だ。できないはずがないだろ」


胸の奥で、何かが鈍く崩れた。

たとえ今がおかしくなっているだけでも……その考えが心のどこかに潜んでいなければ、口から出るはずがない言葉。


「ステラ。お前はこの屋敷から出ていけ。結界も制限もすべて解いた。……あの男と領地で好きに暮らせ。必要な時以外、顔を見せるな」


それだけ言い捨て、お父様はリナと共に屋敷の奥へ消えていった。

背中を呼び止める言葉は、喉の奥で氷のように凍りついたまま出てこない。


「ステラちゃん、大丈夫!? なんであんな──」

「フレッド様こそ、なんであんな無茶な挑発をしたんですか?」


視界がにじむ。瞳が熱い。

強く睨みつけたつもりなのに、涙が零れそうになる。


フレッド様は、困った子犬のような顔で肩を落とした。


「……ごめんね。怪我をすれば宮廷に報告して、あの女と物理的距離を取らせられると思ったんだ。……まぁ、無駄かもしれないし、危険だったね」


「そんなことしても無駄です……二度と、しないでください」


震える声でそう告げ、拳で彼の胸を軽く叩いた。

けれど、その拳はあまりにも弱く、自分の心の方が痛かった。


周囲に目をやると、使用人たちが遠くから私たちを見つめていた。

誰も助けられなかったことを、悔しそうに、情けなさそうに。


(……今は、とにかくここを出ないと)


「ダミアン。私の荷物をまとめて。……私は馬車で待っています」


執事は深く頭を下げ、その瞳には哀しみが滲んでいた。


「かしこまりました、お嬢様……。ですがまず、お顔のお怪我を手当てさせてください」


言われて初めて、頬に鈍い痛みを感じた。

指先で触れると、じわりと熱が広がる。


(……ああ。お父様は、自分の手で私に傷をつけるほど、もう私を嫌っているんだ)


胸の奥が、静かに軋む。

それを押し殺しながら、六歳から過ごしたこの家に背を向けた。


大切な思い出が、これ以上汚されないように──。

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