第七十六話 また繰り返さないために
「お父様、今日も帰らないの?」
お父様の執務室の扉近くで立ち止まり、少し唇を尖らせながら、私は執事のダミアンに問いかけた。
カーテンの隙間から差し込む冬の陽はすでに傾き、廊下は橙色に染まっている。
磨き込まれた床にその光が帯のように伸び、冷たい空気の中でやけに鮮やかだった。
「恐らく、帰らないかと思われます」
いつもの落ち着いた声で、ダミアンは控えめに答える。
背筋をまっすぐに伸ばし、表情は崩さないが、その視線の奥にはほんの僅かに陰が差しているように見えた。
「……わかったわ。明日の登校は馬車を使うわ。用意しておいて」
「かしこまりました」
短いやり取りを終えたあとも、心は重いままだった。
言葉の端々に漂う、説明しきれない沈黙。
お父様が屋敷を出たのは三日前。
「登城する」とだけ告げ、あとは魔法鳥を何度飛ばしても返事は一通もない。
返事を待っている間の、あの胸を締め付けるような間延びした時間。
送った小さな魔法鳥が、お父様の魔法鳥に変わり夜空を越えて戻ってくることはなかった。
返事のない沈黙が、私の胸の奥に不吉なざわめきを生む。
まるで、冷たい水がじわじわと足元から這い上がってくるような感覚。
──嫌な予感がする。
ただの不在じゃない。何かが、確実に起きている。
この静けさは、嵐の前触れに似ていた。
◇
その夜。
廊下の外は、昼間のわずかな喧騒すら残さず、しんと静まり返っていた。
壁掛けの時計の針が淡々と時を刻む音と、暖炉の中で薪がぱちりと弾ける音だけが、闇の中に溶けている。
お父様が屋敷にいる間は、いつ部屋に来るかわからない。それに、気配を辿られる可能性もあった。
だから、ヴァルの召喚は控えていた。
けれど今夜は──きっと帰ってこない。
あの夢の疑問が、胸の奥をずっとくすぶらせていた。
その煙を吐き出すように、指先から床に血を一滴垂らした。
淡く紅い光が魔法陣の線をなぞるように走り、空気が低く唸るように震えた。
瞬間、闇を押し分けるように現れたのは、銀の毛並みの巨獣──ヴァルツォリオ。
彼の影が部屋いっぱいに広がり、空気が一段と重くなる。
『久しいな、ステラ』
低く響く声が、胸の奥まで届く。
「ええ……久しぶり、ヴァル」
互いの視線がぶつかった瞬間、言葉より先に察していたのか、彼はすぐに告げた。
『夢のことだろう』
不意を突かれたように瞬きをする。
「……うん。あれは……あなたが見せたものでしょう?」
『いや、あれは──私の力で、セレーナの要望により見せた夢だ』
母の名が出た瞬間、心臓がひときわ強く脈を打った。
まるで胸の奥を掴まれたみたいに呼吸が浅くなる。
「お母様が……ヴァルは、お母様と話せるの?」
『ああ。セレーナは、お前かディルを追うように魂が飛んでいる。たまにだが私のもとに来るときは、言葉を交わしている』
「今も……ここに?」
『いや、今はいない。今は──ディルにかかりきりだ』
低く重たい声。
その一言は、氷の塊を胸の奥に落とされたように冷たく響いた。
やっぱり……ただ帰ってきていないだけじゃない。
何かが、お父様に起きている。
「お父様に……何かあったのね」
『……ああ。私の口からは言えない。だが、まずい状況だ。このままでは……また同じになる』
──同じ。
それはつまり、あの時と同じ未来──お父様に私が殺される結末。そして、国一つがなくなる。
血の気が引き、背筋を冷たいものが這い上がる。
『今から言う人を探せ。それがきっとお前を救う。それから、アレスとなるべく行動を共にしなさい』
「……わかった。それで、名前は?」
『彼女の名は──アヤカ・ハセガワ。異世界から転生してきた聖女だ』
「聖女……!?リナ以外にもいたの?」
『ああ。聖女は不定期に現れる。だが、どこに現れるかはわからず、来てすぐ魔物に襲われたり、流行病で命を落とす者も多い。運よく生き延びても田舎でひっそり暮らし、皇宮に知られることは稀だ。自らの力にすら気づかぬ者も多い』
「じゃあ、その人も……」
『いや、アヤカは皇宮に住んでいた。聖女だと口外されずに、だ』
「どういうこと……?」
『行けばわかる。西を探せ。いまはアイリーンという名で暮らしているはずだ』
「……わかったわ」
口にした瞬間、胸の奥で何かがきしむ音がした。
不安は、濁った水のように心の底に溜まっている。
あれもこれも見えないまま、足元は暗闇。
けれど、立ち止まれば、その闇に飲まれてしまう──そう分かっていた。
あの時の絶望、血の匂い、足元に広がった赤。
──二度と繰り返さない。
拳をぎゅっと握りしめた。
爪が手のひらに食い込む痛みが、心を現実へと引き戻す。
不安は消えない。けれど、動かなければ何も守れない。
「動くしかない……」
小さくつぶやく。
自分自身への誓いのように、唇に力を込めた。
あんな悲劇を、もう一度起こさないためにも──。
◇
ヴァルの巨体が淡く揺らめき、闇の中へと溶けて消える。
最後に残った黒い影が空気に溶けた瞬間、部屋の中は再び蝋燭の炎だけが支配する世界となった。
その炎が、まるで私の胸の奥にくすぶる焦燥を映すように、絶え間なく揺れている。
私は椅子を引き寄せ、机の引き出しから古びた地図を取り出した。
開いた途端、古紙特有の乾いた匂いが鼻をかすめる。
端は擦り切れ、褪せた色合いの線が何十年も前からここに刻まれてきた時間を語っていた。
蝋燭の光が、地図の上にゆらゆらと影を落とす。
西──ヴァルの言葉が、頭の中で鈍く響く。
私はゆっくりと指先を地図の端から滑らせていく。
山脈を越え、川を渡り、幾つもの小さな領地をなぞり、さらに奥へ。
指先がある一点で止まった。
そこは辺境に近く、地図の中でも色濃く囲まれた領域。
冷たい空気が、窓の隙間から忍び込んできて頬を撫でる。
その刹那、胸の奥がひやりと強く締めつけられた。
「……ノヴァトニー領」
低く呟いた声が、夜の静寂に吸い込まれていく。
なのに、その響きはやけに鮮明で、耳の奥にいつまでも残った。
まるで、行き先を告げる合図のように──。




