第七十五話 ずっと大切な子供
「……めちゃくちゃ顔整いきた……」
リナの小さな呟きは、十分に私の耳に届いていた。
けれど私は、何事もなかったようにお父様の差し伸べた手へ指先を伸ばす。
その瞬間、軽やかだが鋭い声が空気を切った。
「あの……!! ステラ様!! 彼はどなたですか?」
手が触れる寸前だった。
ここまで真っ直ぐに聞かれてしまえば、さすがに無視はできない。
「あ、失礼。こちらは私の父──ディル・アルジェラン公爵です」
「ステラ様の……パパ!? 若い……婚約者かと思いました」
驚きで目を大きく見開いたリナが、思わず一歩前に出る。
彼女の視線は、お父様の整った顔立ちと鍛えられた長身を、食い入るように追っていた。
「お父様、こちらは──」
「わかっている。聖女殿だろ」
低く響く声とともに、お父様はほんの一瞬だけリナを見た。
だがその蒼の瞳は、興味も感情も映さない氷のように冷たく、すぐに私へと戻る。
(……聖女だとわかっていても、存在しないかのように扱うなんて。今は本当に、興味がないのね)
「……あの、リナと申します! 舞踏会の日、助けて頂きありがとうございました」
リナは胸の前で手を重ね、少し頬を染めながら頭を下げた。
声の端に緊張と、ときめきが入り混じっているのが分かる。
──そうよね。あんなに麗しい人に危険なところを救われたと知ったら、誰だって心を奪われるわ。
けれど、お父様の返答は容赦なかった。
「……礼を言う必要はない。私は己の娘の安全を守っただけだ。君を救ったつもりもない」
視線を外さず、わずかに顎を上げて言い放つ。
その声音は低く、静かで、それでいて拒絶の意志がはっきりと滲んでいた。
まるで鎧のように閉ざされた気配に、リナの笑みが一瞬で曇る。
私は……その冷たさが、嬉しかった。
死に戻る前、リナとお父様が並び立つ姿を遠くから見たとき──
あの瞳は暖かく、彼女のためなら何でもやろうとする意思が宿っていたのに。
今、はじめて。お父様は彼女ではなく、私を選んでくれた。
「それでも……私が助かったのは変わりませんので。感謝申し上げます」
リナはほんの少しトーンを落とし、丁寧にもう一度深く頭を下げる。
その長い睫毛が震え、うつむいた頬がわずかに強張っていた。
──ああ、この表情。この静かな敬意のこもった声色。
私が読んでいた物語の中で、彼女が見せていた“聖女”の顔に、一番近い。
そんなことを考える私をよそに、今度こそお父様が私の手をしっかりと取った。
「帰ろう、ステラ」
低く、けれど先ほどの氷のような声色とは違う──どこか安堵を含んだ声音。
「はい」
その声に応えるとき、自然と口元がほころんだ。
私は振り返り、まだこちらを見つめていたリナへと微笑む。
「それでは、聖女様。お先に失礼いたしますわ」
礼儀正しく一礼し、再びお父様の方へ向き直る。
次の瞬間、空間そのものが水面のように揺らぎ、何の光も音もなく景色がすり替わる。
気づけば、私たちは屋敷の広間に立っていた。
冷たい冬の空気がほんの少しだけ漂う廊下の香りに、帰ってきた安堵を覚える。
ふと横を見上げると、お父様の横顔はまだ少し険しい。
碧の瞳はわずかに細められ、口元の線は硬い。
「お父様……どうかなさいましたか? お顔が、少し怖いです」
私が首を傾げてそう尋ねると、お父様は片手で目元を覆い、深く息を吐き出した。
その吐息は、ほんのわずかにためらいや疲れが混じっていた。
「……すまないな。どうも、女性のああいう瞳が苦手でな。しかも、ステラと同い歳の子供だなんて」
──女性の瞳。ああ、狙うようなあの瞳か……
お父様は戦場では“最恐”と呼ばれ、魔法では“最強”と讃えられる人。
鋭い剣筋、規格外の魔力、そして、誰もが振り返るほど整った顔立ちと鍛え上げられた体。
私の知らない場所できっと、無数の女性が惹きつけられ、近づこうとしたはずだ。
──もちろん、あの重い愛情を知る私には分かる。お父様がお母様以外に靡くことなどありえない。
けれど、そんなことより……
「お父様、私はもう子供ではありませんわ」
背筋をぴんと伸ばし、胸を張ってそう告げた。
私の声に、お父様はわずかに顔を傾ける。
「私、もう十五で社交界デビューも済ませました。それに、背だってすごく伸びましたの。他の貴婦人たちより、少し目線が高いくらいです……いつまでも子供じゃありませんわ」
「……それは、まぁそうだな」
口元がゆるみ、お父様の瞳が少しだけ柔らぐ。
「もう……セレーナがステラを身ごもった歳に、いつの間にか追いついているのだな」
その声音は懐かしさと切なさが混ざっていて、私の胸をほんのり締めつけた。
「だが、俺にとっては──どんなに歳をとっても、ずっと子供なんだ」
「まぁ、そのうちおばあさんになってしまいますのに?」
小さく笑って言えば、お父様もすぐに返す。
「それでも……ずっと子供だ」
真剣で、けれどどこか優しいその言葉に、私の頬も自然と緩む。
「ふふっ……親とはそういうものなのですね」
二人の間を、冬の屋敷特有の冷えた空気と、暖炉の残り火のようなぬくもりを帯びた沈黙がやわらかく満たしていた。
その静けさは、永遠に続くように思えた。
──けれど、一ヶ月後。
お父様は何も告げず、まるで風が音もなく去るように、屋敷を離れてしまった。
三週間もの間、行き先も理由も分からないまま。
そして戻ってきた日。
玄関口に立つお父様が私を見た瞬間、その瞳は氷刃のように鋭く、私の胸を切り裂くほど冷たかった。
一歩近づかれるたびに、呼吸が浅くなる。あの人の中の何かが、私の知らない場所で変わってしまった──そんな確信が背筋を這い上がる。
このときの私はまだ知らなかった。
胸の奥で芽生えた不安が、やがて否応なく現実となり、私を呑み込んでいくことを──。




