第七十三話 悪夢の正体
ステラの寝室を出た俺は、ゆっくりと扉を閉めると、そのまま無言で廊下を歩き執務室へと向かった。
歩きながら、外の月明かりが窓越しに差し込み、揺れる自分の影を淡く照らす。
心の中には、渦巻く思考の嵐があった。
──コリーヴ王国でフレデリックが俺に求めた見返り。それは、マーリン公爵家の完全なる失脚。
彼──フレデリックは、父や祖父に対して一切の敬意を持っていなかった。
語る口ぶりは淡々としていたが、その奥には、嘲るような軽蔑が滲んでいた。
マーリン公爵家は、裏でサダーシャ帝国に戦力や防衛情報を流し、多額の報酬を受け取っていた。
さらに、国庫から金を巧妙に抜き取り、誰にも気づかせぬよう長年横領を重ねていた記録もフレデリックが持っていた。
そんな一族が属するのは、皇族派ではなく、貴族派──正確には、皇后派閥だ。
皇后は、皇帝の妻という立場を利用しながら、裏で貴族たちを取り込み、じわじわと権力を集めている。
狙いは一つ。息子のマティアスに帝位を継がせ、自らが政権を握ることだ。
だが、その計画にとって、アレスは最も都合の悪い存在だった。
もし裏で皇后が政権を握り、マティアスが無能と見なされれば、皇族の血を引くアレスに帝位が移る可能性がある。
だからこそ、彼らはアレスを「なかったこと」にしたいのだ。
──その証拠に、今もなお、定期的に刺客を送り続けてくる。
ステラが平穏に暮らすためにも、皇后派に政権を握らせるわけにはいかない。
マーリン公爵家を潰す。それは、いくつもの問題を一気に片付けるための好機だった。
もちろん、横領には皇后自身も関わっているだろうが、関係者はすでに誓約魔法で縛られているはずだ。
証言など、期待できない。
──だからこそ、残された鍵はひとつ。
あとは、殿下の覚悟だけだ。
そんな考えを巡らせていた時、執務室の扉が軽く叩かれた。
「……来たか」
椅子から腰を上げると、俺は静かに返事をした。
「入れ」
「閣下、お呼びでしょうか」
気取った口調で、少しふざけたようにフレデリックが顔を覗かせた。
彼は肩で風を切るように軽い足取りで入ってきて、片眉を上げて笑う。
「いや〜、こんな夜分に呼び出すなんて……もしや、俺の閣下に仕えたい気持ち伝わってました?」
「……はぁ。いいから座れ」
溜息をひとつ吐いて、椅子を顎で指す。
フレデリックはひょいと肩をすくめて、無造作に椅子へ腰を下ろした。
「ええー、もう少し興味持ってくれてもいいのに……」
そうぼやきながらも、彼の視線は俺の手元にある書類へと向いていた。
俺は黙って一枚の紙を彼の前に滑らせる。
彼はそれを受け取り、目を細めて眺めた。
「……マーリン公爵家の家系図、ですね」
「そうだ。四代ほど遡ったものだ」
「ということは……ああ、皇女様がマーリン家に嫁いできた時代か」
フレデリックの指が紙の一点をトンと叩く。
表情はいつもより真面目だったが、口調だけは軽い。
「ああ、他国に嫁ぐ皇女も多いが、内政状況によっては三大公爵家は、皇女を娶ることがあるからな。お前も知っているはずだ」
「もちろん。アルジェラン家も八代前に、エルンスト家は六代前。確かに、どこも皇族の血を引いている」
俺は、その言葉に小さく頷くと、ゆっくりとフレデリックの顔を見つめた。
「……お前は、あまりマーリン家の男たちに似ていないな」
フレデリックはきょとんとし、それから笑って首をかしげる。
「父のことですか? ああ、そうですね。それだけは唯一、感謝してますよ。俺は母似です。ブロンドの髪に、翠の瞳──」
「……女装が趣味なだけのことはあるな」
「なんで知ってるんですか、それ……!」
フレデリックが耳まで赤くして身を乗り出すが、俺は無視して続きを話した。
「皇族の瞳は黄金だ。陛下も、アレスも、皆そうだ」
「……それが、俺と何の関係が?」
「……お前の祖父───マーリン公爵の瞳も、淡い黄金色をしていた。鮮明ではないが、確かに……な」
フレデリックの笑みが、そこで凍った。
まるで一瞬で息を呑んだように、言葉を失い、手元の書類を見つめ直す。
そのまま数秒の沈黙が流れる。
外の風が窓を揺らし、紙がわずかに震えた。
俺は静かに告げた。
「これはまだ確実ではない。だが、聞いておけ」
そこから語った推測は、フレデリックの血を凍らせるには充分だった。
彼はしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと息を吐いた。
表情にはいつもの軽さがなく、真っ直ぐに俺を見据えている。
「……閣下。俺に、どうしろと?」
その声は、初めて少しだけ震えていた。
◇◇◇
フレデリックと話し終え、ステラの眠る部屋に戻った。
扉をそっと開けた瞬間、小さな声が漏れ聞こえてきた。
「ぅ……ダメ……」
(魘されているのか……?)
眉をひそめながら早足でベッドに近づくと、ステラが苦しげに顔を歪めて、頬を伝う涙が枕を濡らしていた。
恐ろしい夢でも見ているのか。俺はそっとその額に手を伸ばしかけ──
「ディル……っ」
ピタリと動きを止めた。
普段、絶対に「お父様」としか呼ばないステラが……俺の名前を、呼んだ。
──まるで、セレーナに呼ばれた時のように。
その面影を振り払うように軽く頭を振る。ステラはセレーナじゃない。あの時、ステラ自身に怒られただろう。
(……重ねてはならん。ステラはステラだ)
深く息を吐き、魔力を込めて額に安眠の魔法をかけようと指を動かす。
「……ディル、殺さないでっ」
「……は?」
呟かれたその言葉に、指先から力が抜けた。
──殺さないで?
魔法が、効かない。
俺の魔法が、効かないだと?
思考が一瞬止まり、すぐに冷静さを取り戻す。魔物による悪夢の可能性はない。この屋敷には結界が張られている。侵入も干渉もできないはずだ。
それに、魔物によるものであれば魔法が効くはずだ。
もちろんそれは、ただの悪夢だとしても、魔法は作用する。
魔法が作用しないのは、神聖力がないと防げない聖獣、もしくは────
「……見せた方が早いな」
俺は迷わず右手を噛みちぎるように噛んだ。そして、流れ出た血を床に垂らす。
──ぽたり。
床に落ちた血に魔力を重ね、陣が描かれる。
召喚魔法の紋が瞬く間に展開され、空間が歪んだ。
「出てこい」
その一声で、闇が揺れる。
現れたのは、黒く艶のある巨大な毛並みに、螺旋を描く双角。
その背に広がるのは、片方が炎、もう片方が水──相反する二つの力を宿した、二枚の翼。
「珍しいわね、十五年ぶりじゃない。ディルが私を呼ぶなんて」
姿を現したのは、かつて契約した獣だ。
いつも、ただ俺の中で魔力を貪っている。
「今すぐ見てもらいたいものがある」
「……働かせる気?」
「俺の中で、好きなだけ魔力を吸わせてやってるだろう」
「それは、あんたが魔力生成しすぎて処理しきれないからでしょ? ったく……まあ、いいけど」
魔獣は尻尾を振りながら、ベッドのステラに目を向ける。
「これは……お前らの類か? それとも特殊な聖獣の干渉か? 魔法が通じん」
「どれどれ?」
魔獣は鼻先をステラに近づけて、くんくんと匂いを嗅ぐ。まるで興味深い玩具でも見つけたように、くるりと尻尾を振った。
「……ふふ、これは私と同じやつね。まさかここで会えるとは」
「お前と同じ……アレの一匹か?」
「ああ。ほんと、あんたの娘ったらとんでもない存在と契約したものね。右腿を見てごらんなさい、アレの紋があるはずよ」
(……契約?この類と?)
「気配的に、アレも契約を解除する気はないみたい。強制的に断ち切りたければ、その右脚ごと切り落とせばいいわ」
「……できるわけがないだろう」
低く、怒りを押し殺す声でそう言い放った俺を、黒い獣は面白そうに見つめている。
「ふふ、やだ、ディルにも人間らしいところがあるじゃない」
目を細めて笑った獣の瞳には、俺の怒気すらも玩具のように映っていた。
「まあ、別にアレは悪さをするわけじゃないし。私よりも人が好きで、気持ち悪いほどだったから。じゃ、私は戻るわね」
くるりと背を向けた獣は、陣の中へ跳ねるように飛び込むと、そのまま空間の裂け目に消えていった。
──残されたのは、浅く乱れるステラの寝息と、なお消えない不安だけだった。




