第七十二話 一度目のディルの絶望
公爵家の執務室。
窓から差し込む柔らかな午後の光が、書き物机と山積みの書類を淡く照らしている。
セレーナのお腹は丸く膨らみ、その上に置かれた手は、まるで宝物を包むかのように優しく撫でられていた。
「ねぇ、ディル。お腹の子の名前、なにがいいかしら?」
ペンを走らせていたディルは、一瞬だけ手を止める。
「……男か女か、まだわからないだろう?」
「それって、ディルの魔法でわからないの?」
期待に満ちた瞳で覗き込まれるが、彼は静かに首を振る。
「……胎児にどんな影響があるかもわからないのに、下手なことはしない」
その声音は、低く穏やかで、書類から視線を外さずとも優しさがにじんでいた。
「私はね、男の子だったらディルセで、女の子だったらセレディがいいと思うの!!」
胸を張って提案する彼女に、私は思わず(うわぁ……ステラでよかった……)と心の中で呟く。
案の定、ディルは顔をしかめた。
「……ダサいし、安直すぎる」
「ええー! ひどい!! じゃあ、なにか候補を出してよぉ!」
ふくれっ面のセレーナに、彼は小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。
「……ステラ」
(……え? お父様の話では、お母様が名付けたはずじゃ……)
セレーナは目を丸くし、すぐにぱん、と手を叩いた。
「すごくいいわ! たしか、小さなお花の名前だったわよね」
「ああ……セレーナがあまりにも“名前、名前”とうるさいから、花や花言葉を調べていたんだ」
「へぇ、花言葉は?」
「……小さな強さ、愛らしい、家族愛──」
最後まで言い終える前に、彼女は吹き出して笑った。
「ふふっ……ぴったりじゃない。それしかないわ、もう決定!」
「……男だったら?」
「男の子でもステラくんでいいじゃない」
天真爛漫で、頑固で、でも憎めない――そんな彼女に惹かれない者はいないだろう。
彼女は思ったことを恥ずかしげもなく口にし、毎日「ありがとう」「愛している」を惜しみなく伝える人だった。
孤児を見かければパンを分け、迷子を見つければ親が来るまで手を繋いで歩き、大人に対しても分け隔てない優しさを見せる。
それでいて、悪事を働く者には容赦なく私兵を呼び、憲兵へと突き出す。
――まるで光そのもののような人。
その光景がふっと揺らぎ、場面は変わった。
広い寝室。
セレーナは大きく脚を開き、腰には布が掛けられている。
その姿は羞恥よりも、ただ必死に耐えることに全ての神経を注いでいた。
「……ああ、無理、本当にやめたい……でも……ステラに会いたい……っ」
苦しげな声に、助産医が優しく応える。
「よく頑張ってるね。もう少しだよ」
ディルは彼女の手を握りしめ、額の汗を拭い続ける。
「本当に大丈夫なのか? もう陣痛が来てから三十時間以上じゃないか……」
「若年出産だと、骨盤が狭くて時間がかかることも多いんですよ」
その言葉に安堵する暇もなく、セレーナは深く息を吸い込み、またいきんだ。
「……ディル、大丈夫。長い時間、一緒にいてくれて……ありがとう」
その笑みは、痛みに顔を歪めながらも、確かに愛情を伝えていた。
そして、気づけば時間は大きく進んでいた。
腕の中に抱かれた小さな命――臍の緒がまだ繋がったままの赤子は、白い胎脂に包まれ、濡れた産毛が柔らかく光を受ける。
瞳はディルと同じ鮮やかな蒼、髪はセレーナと同じグレージュ。
「……はぁ……やっと会えたわ……ステラ……」
その名を呼び、彼女は泣き笑いのまま、ディルの頬へと手を伸ばす。
「幸せだね」
「ああ……ありがとう」
――けれど、その幸せは長く続かなかった。
出産の喜びも束の間、セレーナの顔色は急速に青ざめ、ベッドのシーツが赤く染まっていく。
「セレーナ……! しっかりしろ……っ!」
必死の呼びかけも、彼女の瞳はゆっくりと閉じられていった。
部屋には、新しい命の産声と、ディルの声だけが残った。
視界がふっと闇に沈み、次に開けたとき――私はまるで舞台の観客席から、自分と父を見下ろしているかのような位置にいた。
ベビーベッドの中で、まだ生まれたばかりの私が小さく息をしている。
その前に立つのは喪服姿のディル。
漆黒の衣が沈む空気に溶け込むようで、蒼い瞳には光の欠片すらない。
悲しみという言葉では到底足りない、心の核を失った者だけが持つ――絶望の色。
部屋を叩く小さなノックの音が響き、静かに扉が開いた。
現れたのはディルの母。深い皺が刻まれた顔に、沈痛な影を浮かべていた。
「ディル……今回のことは仕方ないわ。出産で女性が儚くなるのは、決して珍しいことじゃない。子供が助かっただけ、まだ……」
「……そんなこと、関係ない」
低く押し殺した声が、刃のように空気を切る。
「セレーナが死んだのに、“仕方ない”?……母上まで、そんなことを言うのか」
「そういう意味じゃ――」
「もういい。出ていけ」
短い拒絶に、彼女は唇を噛み、そっと扉を閉めた。
セレーナの記憶の中で見ていたアルジェラン家は、もっと温かく、もっと支え合う家族だったはずだ。
幼くして弟を失っても、互いに寄り添い、生き抜いてきたはずだった。
けれど、このときのディルからは、そんな温もりは一片も感じられなかった。
あるのは――冷たく、鋭い、蔑みだけ。
それからの彼は、まるで狂気を孕んだ獣のように変わっていった。
学校には通わず、父の言葉にも耳を貸さない。
街の外れで暴力沙汰を起こし、悪党を見つけては“狩る”。
それは正義ではなかった。
強姦や強盗犯を、ゆっくりと――痛みを与えながら殺していく。
その姿は、人間というより悪魔に近かった。
(……セレーナの死だけで、ここまで……?)
二度目の人生で、ディルは初めて人を殺したとき、ひどく動揺していたはずだ。
けれど一度目は、恨む相手すらいなかった。
死があまりにも理不尽で、ぶつける先のない怒りが、彼をこんな化け物にしたのだろうか。
ある日、ディルの父が冷たく告げる。
「お前は少し頭を冷やせ。もうすぐ戦争が始まる。前線に出ろ」
「……戦争? くだらないな」
その会話の最中、扉が開き、ディルの母が私を抱いて入ってきた。
「それから――ステラはガルシア家に渡すことにした」
「……は?」
「ディルが最後にステラの顔を見に来たのはいつ? ガルシア家にはセレーナ一人しか子がいなかったのよ。あなたはまた結婚すればいい。でも、あの家はそうはいかない」
「消えろ」
低く一言呟いたその瞬間、ディルは顔を伏せ――次の刹那、部屋は眩い光に包まれた。
光が収まったとき、そこにはボール状の結界魔法の中で泣く赤子の私と、ディルだけが残されていた。
家具も、壁飾りも、人影すらも――跡形もなく消えている。
「……セレーナの忘れ形見だ。絶対に渡さない」
赤子を愛おしむ様子はなく、ただ所有物を守るかのような声音。
その背には、決して誰も近寄れない冷たい壁が立ちはだかっていた。
そこから場面は走馬灯のように流れ、視界は第三者の高さへと移る。
きっと――亡くなってもなお見守っていた、セレーナの視点。
アルジェラン公爵夫妻行方不明事件のあと、ディルは戦争に出た。
そして、戦場で彼は楽しむように人を殺した。
剣で斬り、魔法で焼き、ついには睨むだけで相手の命を奪えるようになっていた。
飛び散る血の匂いが幻のように鼻を刺し、私は思わず視線を逸らしたくなる。
戦争が終わる頃には、流行病が広がり、街のあちこちで人が倒れていた。
その現実を前に、ディルは初めて焦ったように私のもとへ駆けてきた。
もしかしたら、ほんの少し――私を生き延びさせたいと思う気持ちが芽生えたのかもしれない。
そして、そこから先は――一度目の人生で知る光景へと重なっていった。
戦争から帰還したお父様は、正式に爵位を継ぎ、タウンハウスを拠点に暮らすようになった。
月に一度だけ「領地の視察」と称して屋敷を訪れ、私と夕食を共にする――それが唯一の交流だった。
戦場で英雄と謳われたディルは、騎士団の師団長として、王宮の補助や魔力の調整、国全体に張られた結界の確認までこなし、さらに領地経営にも目を光らせる。
まるで休むことなく、ただ機械のように、与えられた職務を無心でこなしていた。
その映像の中、時折映るのは――塔に幽閉されたアレス。
脱走を試み、スラム街まで逃げたところをディルに捕まり、以前より強化された結界に閉じ込められていた。
薄暗い塔の中、髪も爪も伸び放題のアレスは、日に日に心を蝕まれていく。
何度も壁を殴り、やがてうずくまったまま動かなくなる姿に、胸がざわつく。
(……こんな扱いを受けていたの? この狭い塔の中で、一生を?)
やがて、聖女リナが魔法学校に入学すると、ディルの表情は目に見えて和らいだ。
王宮に住むリナはよく騎士団基地や王宮内で彼を探し、その笑顔は――私の知るリナとはまるで別人。
慈悲深く、優しく、気高く、美しい少女として、彼の前に立っていた。
だが、それだけで……両親を消し、私を守ることよりも殺すことを選ぶ理由になるのか。
どうしても腑に落ちない。
そして――その日が来た。
私が処刑される日。
(……できるなら、その日までに何があったのかを見たかった。でも、都合よくはいかないのね)
目の前に広がるのは、間違いなくあの日の私だった。
処刑台の上、鎖に繋がれ、冷たい風に晒される。
「お父様……!!!!私は……何も、身に覚えがないのです!! 信じてください!!」
「……父と呼ぶな。見苦しい」
必死に訴えても、返ってくるのは冷徹な眼差し。
そこに父の温もりは欠片もない。
「皆の者!! 我々は聖女リナを害する者を、何があっても赦さない! リナは今も毒により臥せっている!!
これより、聖女リナを日常的に虐げ、毒を盛り殺害しようとした罪で――ここにいるステラ・アルジェランの公開処刑を開始する!!」
「おぉぉぉぉぉ!!!!」
マティアス殿下の響く声と群衆の叫び。
熱狂とも狂気ともつかぬ空気が、広場を包む。
(……怖い。ここにいる全員が、私の死を望んでいる)
客観的に見ても異常だ。
たった一年前に現れた聖女を、全てを捧げて崇拝している。
そして、刃が振り下ろされ――私の首は無惨に落ちた。
……次の瞬間、映像は変わった。
床に這いつくばり、これ以上ないほど壊れたように泣くディル。
傍らには、額縁から外れた私の肖像画が転がっている。
「ステラ……なんで……っ、くそ……あぁ……」
(“なんで”……? それは私が一番知りたかった言葉だよ、お父様。死に戻る前は、あんな目を向けられるほど、私に執着していたなんて思わなかったのに)
「あんな女の……ために……」
吐き出すように呟いたあと、映像は早送りのように流れ始めた。
――聖女リナと王族が宴の場で笑っている。
その空間に、かつての公爵ではなく、全身を黒い魔力に覆った男が現れた。
瞳は深い蒼の奥に血のような紅を滲ませ、息をするたびに空気が震える。
「……リナ」
その呼び名は愛ではなく、呪いを吐くような響きだった。
次の瞬間、宴の空気が凍りつく。
誰も反応できない速さで、ディルは魔剣を抜き放ち、リナの首筋へと振り下ろす。
鈍い音とともに、白い首が宙を舞った。
血が噴き上がり、純白のドレスを濡らす。
悲鳴が広がる前に、玉座に座っていた王族が一人、また一人と斬り伏せられた。
その斬撃は剣筋という概念すらない。
魔力が刃と化し、触れた瞬間に肉体を粉砕し、血と骨と魔力の残滓を撒き散らす。
「悔いて死ね」
その声は狂気を通り越し、もはや空虚だった。
感情の底が抜け、残っているのは破壊だけ。
倒れ伏す死体の中で、ディルはゆっくりと剣を収め、両の手を広げた。
空が唸り、大地が軋む。
体内の魔力が音を立てて解放され、蒼い閃光が夜空を裂く。
「……全部、消えてしまえ」
瞬間、リンジー皇国の地図が焼き切れたかのように、国ごと光に呑まれた。
城も街も森も、悲鳴も泣き声も――何もかもが、跡形もなく。
残ったのは、灰色の大地と、血のように赤い夕空だけ。
ディルはその中央に立っていた。
息は乱れ、手は震えている。
その瞳に映るのは、消えてしまった国ではなく、もう二度と会えない娘の幻影。
「……ステラ」
膝を折り、魔剣の切っ先を自分の胸に押し当てる。
刃先が心臓を貫くと同時に、口から小さく息が漏れた。
「……行く……今……」
そのまま前のめりに倒れ込み、動かなくなった。
風が吹き抜け、蒼い瞳がゆっくりと閉じられていく――。
お読みいただきありがとうございます。




