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第七十一話 一度目のセレーナの人生


過呼吸がようやく収まり、胸のざわめきが落ち着いたころ。

お父様は何も言わず、そっと私を抱き上げ、そのまま寝室のベッドへ運んでくれた。


分厚い毛布の重みと、微かに香る馴染みの匂いが、不安定な心を少しだけ安堵させる。

けれど――お父様は椅子を引き寄せ、私の傍から離れようとしなかった。


(今日は疲れたからか……視線が気になって落ち着かない)


「……お父様、少し休んでください。フレッド様とお話でもしてきては?」


促すと、お父様は渋い表情のまま数秒こちらを見つめ、それからようやく立ち上がった。

「……すぐ戻る」

そう言い残し、扉を閉める音が部屋に響く。


静けさが戻ると、どっと疲れが押し寄せた。

「今日は……本当に、色んなことがありすぎた……」


マーリン公爵家の没落寸前の話。

ハル先生がまさかの“ハイルド”だったこと。

そして――原作の物語が、とうとう動き出したという事実。


胸の奥がじわりと冷たくなる。

私が一番恐れていること……それは、原作の悲劇ではない。


──お父様に、命を奪われること。


正直なところ、私は「どうしても生きたい」と強く願えるほど、命への執着を持ち合わせてはいない。

ただ、あの時と同じ結末だけは嫌だ。

あの冷たい瞳に見下ろされ、首を落とされる――そんな最期は、二度と。


アレスのために生きたい、そう思えていたのは確かだ。

けれど、彼と別れて自分自身のためとなると、どうにも力が入らない。

それでも……「また同じように父に殺される」のだけは、何としても避けたい。


もし、この世界が原作や前世と同じ道を辿り、十六歳の冬の初月(十二月)に死ぬ運命だとしても。

私を終わらせるのがお父様であってはならない。


胸の奥がじわじわと重く、そして冷える。

これまでの穏やかな日々が、急に脆い幻のように思えてしまう。


「……恋愛に夢中になりすぎて、忘れるなんてね」


自嘲気味に呟き、ゆっくりと毛布を引き寄せる。

恋は盲目――その言葉の意味を、私は今さら噛みしめていた。

大切なことを、あまりにも簡単に見失ってしまう自分が、怖い。


目を閉じると、暗闇の奥からふと、ある言葉が浮かんだ。

(……そういえば……お母様も、私と同じように死に戻ってやり直しの人生を送ったって、ヴァルが言ってたっけ)


ならば――お母様の一度目の人生は、どんなものだったのだろう。

それを知ることが、今の私にとって、何かの手掛かりになるのだろうか……。


毛布の中で、小さく息を吐いた。

そして、意識はゆっくりと夢の底へ沈んでいった。



◇◇◇



目の前に、小さな男の子が机に向かい、本を読んでいた。

黒く艶やかな髪は陽の光を受けて深い藍色の光沢を帯び、窓から差し込む光に照らされた青い瞳は宝石のようにきらめいている。


「なんでここにいるんだ? 俺に近づくなって言われてるはずだろ、セレーナ」


ぶっきらぼうな声音。まだあどけなさの残る幼い声色なのに、その響きは確かにお父様のものだった。


(……これは夢? お父様が、こんなに小さい……)


「どうして? なにが危ないの?」


口も身体も、私の意思では動かない。

まるで、誰かの体の中に入り込み、その視界から出来事を見ているだけのようだった。


(……この身体は、お母様のものだ)


「おれは、他のやつらとは違うんだ。魔力が強すぎて……制御が甘いから、人を傷つける」


淡々と告げられた言葉の奥に、ひそやかな寂しさが滲んでいた。


「ふーん……でも、寂しいんでしょ? じゃあ、私がそばにいてあげるね」

「出てけ、必要ない」

「えー……でも、私ひまだもの。あなたの両親と私の両親ったら、大人だけで楽しそうにしてるしさ」


セレーナ(お母様)は、とても我儘な人だった。

けれど、その我儘には不思議なあたたかさと、押し付けがましくない慈愛が混じっている。


「……もう勝手にしろ。怪我しても知らないからな」

「やった!! ねえ、魔法見せて! 魔法見せて!」


渋い表情で眉を寄せるディル(お父様)。しかし、その耳がほんのりと赤く染まっているのを見て、心の奥では嬉しさを隠しきれていないのだと分かった。


その瞬間、ふわりと視界が霞み、世界が揺らいだ。

ぼやけた光が収束すると、そこに立っていたのは少し年を重ねたお父様――まだ少年と呼べる年齢だが、先ほどよりも背が伸び、顔つきもわずかに大人びている。

年齢にして十一、二歳ほどだろうか。


私が入り込んでいるこの身体――お母様の体からは、大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちていた。

肩が震え、呼吸は乱れ、喉がひゅうひゅうと音を立てる。


「ぅ……わたし……ハイルドが暴力を受けていること、知っていたのに……たすけられなかった……っ しんじゃった……」


掠れた声は、深い後悔と自責で震えていた。


(……ハイルド?)


脳裏に浮かぶのは、今の私の担任――ハル先生。

だが、ここで語られているハイルドは、明らかに今とは別の人生を歩んでいた。

私の一度目の人生では、ハイルドが生きていたかどうかすら知らない。

この夢が意図的に見せられているものだとしたら……これは私の知る現実とは異なる世界の記憶だ。


(きっと、お母様の一度目の人生ね)


「セレーナのせいじゃないだろ。それに……きっとお前と関われたことで、一時でもハイルドの人生には光が差したはずだ」


この頃のディルは、まるで自分が同じ経験をしたかのような、静かで確信を帯びた声でそう告げた。

その腕が、泣きじゃくるセレーナの肩をそっと包み込み、背を撫でる。



その温もりとともに、景色が次々と移り変わっていく。

まるで私は、セレーナの人生を走馬灯のように見せられているかのようだった。


――助けられなかったハイルドの命を、何年も悼み続ける日々。

それでも、立ち止まらず前を向き、生きていく姿。


魔法学校では、友人に囲まれ、笑顔を見せるお母様の姿があった。

そこには、在学を続ける若き日のディルもいる。



そして――ある夜。


セレーナの部屋の空気が、ふっと張り詰めた。

月明かりが窓から差し込み、その光の中に巨大な影が現れる。


銀に輝く毛並みは滑らかで、毛先には闇を思わせる黒が滲む。

長く伸びた双角は、月光を反射して冷たく光り、背には相反する二つの翼――光を孕む白と、闇を宿す黒がゆるやかに広がっていた。


(……あ、ヴァルだわ)


ベッドから身を起こしたセレーナは、驚くよりも先に目を細め、好奇心を隠そうともしない。


「貴方が……私の使い魔に? なぜ?」

彼女は首をかしげ、足音も立てずに近づく。

「貴方、最高位の魔物でしょう? 私なんて、仕えられるほどの力は持っていないわ」


黄金の瞳を細めたその魔獣は、低く、どこかくぐもった声で答えた。

「仕えたいなどと思っていない。……ただ、面白そうだと思っただけだ」


「ふーん……そう」

セレーナ(お母様)は口元だけで笑うと、そのまま軽やかに一歩踏み込む。

「名前は?」


「……名などない」

「そう……じゃあ、ヴァルツォリオにしましょう」

「ヴァルツォリオ……?」

怪訝そうに首を傾げる魔獣に、セレーナは屈託なく笑った。

「うん、なんかそんな顔してるわ」


彼女は一切のためらいもなく、ヴァルの首元へ手を伸ばす。

巨大な牙が彼女の肩口にそっと噛みつき、皮膚を破った瞬間、血の香りと共に淡い光がふわりと部屋を満たした。


契約の証が彼女の肌に浮かび、やがて静かに沈む。

「……これで契約完了、ね」


ヴァルは鼻を鳴らし、その巨体を小さく縮めると、ベッド脇に腰を下ろした。

その光景は、主従というよりも――奇妙な友情の始まりのようだった。


ふわりと視界がぼやけ、また次の景色に変わった。


「絶対結婚する!!!!」


元気いっぱいに宣言するセレーナの声に、場の空気が一瞬止まる。


「セレーナ、それはわかったから……せめて学校を卒業してからにしなさい」


困ったように額へ手を当てるのは、ガルシア侯爵――お母様の父。(お爺様)


「お父様、ディルってすっごくモテるのよ!? もし……お胸が私よりも大きい女に靡いたらどうしてくれるの!!」

「まあ!! セレーナ!! そんなはしたない言葉を使ってはいけません!」


侯爵夫人――お母様の母(お祖母様)が、慌てて声を上げる。


(……私がお父様から聞いていたお母様とは、まるで別人……)


「ディルの両親は、賛成してくれているのよ? ディルと私と、ガルシア家さえ良ければって……」

「そのガルシア家が反対しているんだろうが」

「だったら……意地でも先に身籠って結婚してやるわ!!」


(……アルジェラン家のお父様のご両親(おじい様とお祖母様)も、一度目の人生ではまだ健在……?)


理解が追いつくより早く、場面は怒涛の勢いで変わっていく――。


「セレーナ、やめとけ。……もっと自分を大切にしろ」


目の前の若いディルは、まだ少年らしさを残しながらも、その瞳には真剣な色が宿っていた。

彼はベッドの上に腰を下ろし、すぐ目の前まで迫ってくるセレーナの肩を、そっと押して距離を作ろうとする。


「どうして? ディルだって男の子でしょう。……興味、あるはずよ」

「……だからって、貴族が婚前にすることじゃないだろ」


(あっ……これ、あまり見たくない……)


心の中で両手を合わせるように視線を逸らそうとしたが、この夢の中ではお母様の視線も身体も、私の意思で動かすことはできない。

だから、目の前で繰り広げられる甘く危うい光景を、ただ見届けるしかなかった。


セレーナは、ためらいなくディルの膝の上に跨がる。

背中に回した手で器用にドレスの紐を解き、ゆっくりと生地を緩めていく。


「ほんと、やめとけって」


目を逸らしながらも、ディルは背中側でドレスが落ちないように生地を持ち上げていた。

理性を必死に保とうとしているのが、指先の力の入り具合からでも分かる。


「ねえ……いやなの?」

「そうじゃない。……だけど、婚前に貞操を喪うわけにはいかない」

「そう思うなら、魔法で跳ねのけてもいいじゃない。いつもなら、私を浮遊魔法で簡単に浮かせてみせるでしょう?」


挑発めいた囁きに、ディルの表情はさらに硬くなった。

その瞳は、迷いと欲望、そして理性が拮抗する危うい光を宿している。


「はっ……まるで魔性だ」

「そうね。……ディルに対しては、そうみたい」


互いの顔が近づき、どちらからともなく唇が触れる。

一瞬、視界が切り替わり、天井を背にするディルの姿が映った。

整った顔立ちが至近距離にあり、私――いや、この時のセレーナ(この体)は、息を弾ませている。


(感覚なくてよかった……早く、次に……おねがい……親のはちょっと……)


心の中で何度も祈るうち、ようやく視界が再び揺らぎ、ぼやけた。


そして――


「ディル……!! 子供ができたの。だから、お父様の許しが下りるわ!! 結婚よ、結婚……!!」


弾けるような笑顔で報告し、ぴょんぴょんと跳ねるセレーナ。


「は!?……子供って、本当か? ……まて、その前に飛び跳ねるな!! 体に障るだろ」

「大丈夫よ、このくらい。ああ、私……幸せだわ。ディルとも結婚できて、子供も迎えられるなんて。きっと絶対、楽しい家族になるはずだわ……」


窓の外では、雪がしんしんと降り続けていた。

この時のディルは十五歳ほどに見える。

セレーナは、このあと私を二度も妊娠し、出産することになる。


だが――この時の彼女は、未来の自分の死など、微塵も想像していなかった。


(……結婚の時期をずらして、子供を授かるのを遅らせていれば……きっと、二度目の人生では助かったはず……)


それでも、セレーナは迷わず私を産む道を選んだ。


そして私は、この先に待つ残酷な出来事を、これから目にしてしまう――。

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