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第七十話 恐怖の記憶

私の一度目のデビュタントの時──

あの時も、今と同じように。

聖女リナは、突如として私の頭上から降ってきた。


宙に投げ出された身体は、お父様の浮遊魔法に包まれ、羽のようにゆるやかに落下していく。

床に足が触れた瞬間、彼女の膝がわずかに震えた。


「……どこ……?」


吐き出されたのは、か細い二文字。

その声には、戸惑いと恐怖が濃く滲んでいた。


そして今──

目の前に広がる光景は、あの時と寸分違わぬものだった。


これは、原作『恋を知った大聖女』の冒頭にあたる場面。

ヒロインであるリナが、階段から足を踏み外し、落下した先で異世界へと転移してくる──そんな描写だったと記憶している。


正直、私は転生する前、つまり一度目の人生の細かい記憶はほとんど残っていない。

それでも原作のあらすじや重要な場面は、ぼんやりと頭に残っていた。

漫画だったことが幸いし、コマ割りの情景だけが鮮やかに焼き付いているのだ。


目の前の彼女は、私の知るとおりの姿をしていた。

ブレザーの制服にチェックのミニスカート。

肩口でさらりと揺れるミディアムの黒髪に、淡く茶色を含んだ瞳。


間違いない──聖女リナだ。


「君は……どこから来た?」


マティアス殿下が歩み寄り、腰を屈めて問いかける。


「私……学校帰りに、階段から落ちて……気がついたら、ここに」


弱々しく答える声は震え、瞳は涙で滲んでいる。

その姿に、会場内の視線が一斉に集まった。


すると──玉座から、重みのある声が響く。


「彼女は聖女だ」


その言葉に、ざわめきが広間を駆け抜ける。

陛下がゆるやかに立ち上がり、玉座から階段を降りると、道を譲るように貴族たちが左右に分かれ、深く頭を垂れた。


「父上……! 聖女だなんて、それはただの伝説では……?」


驚きに声を荒げる殿下に、陛下は短く、しかし確信を込めて言い切る。


「伝説ではない。──いずれ分かる」


それは、私たちのすぐ傍にいる者にしか届かぬほどの声量で囁かれた。

含みを持たせるような響きに、背筋がひやりとした。


「マティアス。聖女を連れ、侍女に着替えを用意させよ。私もすぐに行く」

「……はい」


この国では、女性が脚を見せることはご法度だ。

特に貴族階級においては、生涯を誓った夫にしかドレスの下を見せないという風習がある。


リナの膝丈にも満たぬミニスカートは、貴族の価値観では男性を挑発する衣装に等しかった。


「……行こうか」

「……はい」


殿下は努めて冷静を装った表情で彼女の肩に手を添え、そのまま広間を後にした。


「皆の者──今宵、リンジー皇国に聖女が降り立った。

 私はしばし席を外すが、諸君らは変わらず国の発展に尽くしてくれたまえ」


皇帝陛下は堂々たる威厳を保ったまま皇后を伴い、会場を後にする。


「へぇ……聖女なんて、本当に伝説じゃなかったんだな」


興味深げに呟くフレッド様の声に、私は横目でお父様の様子を探った。

彼は心底どうでもよさそうな顔をしている。


──そういえば、一度目の人生では、私は次期皇太子妃としてフレッド様と共にリナを案内していた。

だからこの時のお父様の表情までは記憶していなかったのだ。


(……少し安心した。お父様はまだリナに興味を抱いていないみたい。

 それとも……今は私への執着が勝っているだけなのかしら)


胸の奥で小さく息を吐き、私はそっと視線を下げた。


そして私は、これから先一年を覆う大きな不安を胸に抱えたまま──

二度目のデビュタントの夜を過ごした。



◇◇◇


舞踏会を少し早めに切り上げ、お父様の転移魔法で屋敷へと帰還した。

煌びやかな音楽も人々の視線も遠ざかり、足元には見慣れた廊下と、変わらぬ空気。

──いつもの自分の居場所に戻ったというだけで、胸の奥がほっと和らぐ。


けれど、その安堵は長くは続かなかった。


「なぜ……フレッド様がここに?」


私の目の前には、あの軽薄そうな笑みを浮かべた男が立っていた。

どこか愉快そうに目を細め、ゆったりと歩み寄ってくる。


「今日からお世話になろうと思ってさ」


軽い調子でそう言い、ぐっと私の顔に距離を詰めてくる。

思わず後ずさろうと一歩下がった瞬間──


ビリッ、と鋭い音を立てて雷のような魔力がフレッド様の身体を包み込んだ。

次の瞬間、彼は床に崩れ落ちる。


「えっ!? フレッド様!?」

「……あまり調子に乗るな」


低く、抑え込まれた怒気。

振り返れば、お父様が片手を下ろしていた。


「ひっどいなぁ、公爵ぅ……」


床に寝そべったまま、フレッド様は苦笑混じりにぼやく。

その気安い口ぶりで、私は悟った。

──お父様とフレッド様は、すでに妙な距離感で打ち解けている。


もちろん、お父様の方は打ち解けたつもりなど毛頭ないだろう。

けれど、フレッド様はこうして、自然と人の懐に入り込む術を心得ている。

いわゆる“人たらし”というやつだ。


お父様は彼を見下ろしながら、冷ややかに声を響かせた。

「……協力する条件、覚えているな?」

「はいはい……それ言われちゃ、何も言えないねぇ」


フレッド様はのそりと上体を起こし、頭をかきながらこちらを向く。


「……あの、条件って?」


私が問うと、彼はあっけらかんと笑い、何の躊躇もなく口を動かす。



「ああ、条件は簡単だよ。まず──ステラちゃんへの恋心を諦めること」

「!?」


(ま、待って……!? そんな条件、初耳なんですけど! 全然気が付かなかったわ……)


私が顔を真っ赤にして混乱している間にも、フレッド様の口は止まらない。


「それから──ステラちゃんに触れない。いやらしい視線も向けない」

「……私のことばっかりじゃないですか!!」

「はははっ、確かにそうだな」


軽く笑いながらも、フレッド様はその条件に至った経緯を、わざと焦らすようにゆっくりと語り始めた。


「実はね、本当はマーリン家を告発するのは俺一人のつもりだったんだよ。でも、コリーヴ王国で公爵と仲良くなっちゃってさ──」

「……仲良くした覚えはない」


お父様が冷たく遮るが、フレッド様は気に留めず続ける。


「それで──マーリン公爵家を没落させるために、公爵に協力を頼んだってわけ。

俺ひとりじゃ、さすがに一族まとめて首が飛びかねないし、うまくいったとしても国外追放が関の山だろ?

だから、たとえ俺ひとりでもこの国に残れるように……このディル様々の“後ろ盾”が欲しかったってわけ」


ふざけた調子の裏に、どこか空元気のような影が差す。

胸の奥が少しざわつく。──そんなことが起きていたなんて、私は何一つ知らなかった。


「でも、公爵に言われたんだ――残りたいなら、平民としてじゃなく自分の力で爵位を取れ、と。

家族を告発した勇気を胸張って生きていれば、男爵くらいは残してもらえるかもしれない……そうなれば、公爵家に仕えればいいだろう、ってさ」


そこで彼は少し笑い、視線をお父様に送った。


「正直、公爵ってバケモンみたいに強いって話ばかりだし、娘への溺愛っぷりは引くレベルだし、正直めちゃくちゃ怖いけど……それ以上に、優しいんだなって思ったよ」


その言葉に、私は自然とお父様に目を向けた。

腕を組み、少しだけ目を伏せたお父様。

呆れたようにも見えるけれど、その奥に微かな照れが隠れている気がした。


私もこの人生で知ったのだ。

お父様は、底の見えない強さと同じだけ、深い慈悲を持っている。

アレスを養子に迎えたことだって、その証。

いつだって、人を陥れるような卑しい言葉は口にしない。


──それでも。


私の脳裏に、前世の最期が唐突に蘇る。


『……父と呼ぶな。見苦しい』


冷え切った声。

まるで汚物を見るかのように、私を見下ろしたあの瞳。


─────「ステラ……落ち着け。ゆっくり、大きく息を吸え」


気づけば私は、床に膝をつき、浅い呼吸を繰り返していた。

酸素が足りず、指先が痺れる。

お父様が私の背中に手を添え、ゆるやかにさすってくれる。


(もう二度と……お父様には殺されたくない。あんな目で見られたくない──)


その恐怖が、胸の奥で静かに、けれど確実に膨れ上がっていった。

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