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第六十九話 二度目のデビュタント ②

「アルジェラン嬢」


ふわりと靡いた銀髪が振り向くと、アレスの瞳よりわずかに深みのある金色の眼差しが、まっすぐに私を捉えていた。声をかけてきたのは、この国の皇太子──マティアス殿下だった。


「マティアス皇太子殿下。ご機嫌麗しゅうございます」


ここは学内とは異なる、社交界という格式ある公式の場。私たちはいつもの砕けた口調ではなく、ふさわしい言葉遣いで応じなければならない。


私が礼を取ると、マティアス様は柔らかく微笑みながら数歩近づいてきた。


「ステ……いや、アルジェラン嬢は久しぶりだな。最近、あまり姿を見かけなかった」


「ええ。最近は教室にこもることが多くて。殿下にお会いするのも、随分と間が空いてしまいましたわ」


私が軽く会釈を添えると、周囲のご令嬢たちが扇子で口元を隠しながら、こちらを見てささやき合っているのが目に入った。


(一応、婚約候補扱いだし……注目は当然か)


「殿下は相変わらずご人気が高いようですわね」

「そうでもないさ。年頃にもなって婚約者が決まらないと、いろいろ言われるものだ」

「そうですわね。良縁に恵まれますよう、お祈りしております」

「……私としては、君がその“良縁”であってほしかったのだけれどね」


マティアス様は少し冗談めかして笑う。私は笑みで受け流した。


確かに、私──三大公爵家唯一の令嬢が皇太子と婚姻すれば、アルジェラン公爵家の立場は揺るぎないものとなる。皇家にとっても、お父様の力は極めて価値があるだろう。


──だが、今世の私は誰とも結婚はしない。

そして、またマティアス様と婚約なんて……


「ところで、マーリン公爵家のフレデリック様をお見かけしておりませんが……?」


私が問いかけると、マティアス様はわずかに表情を曇らせ、私の背後──お父様の方に視線を送った。


「……実のところ、マーリン家は間もなく爵位を剥奪されることになるだろう」

「え……?」

「フレッドは姿を見せられないはずだ」

「何が──」

「サダーシャ帝国に対し、リンジー皇国の戦術、魔法構成、戦力配置に関する情報を、マーリン公爵が長年にわたり漏洩していたことが判明した。──それを告発したのが、孫のフレッドと……君の父だ」


私の胸に冷たい風が通り抜けた気がした。


「……そんな」

「証拠は揃っている。処分の重さは審議中だが、最も軽くて国外追放、反逆罪と見なされれば、命の保証もない」

「それでは──フレッド様も処罰の対象に?」


焦りを隠せず問い返すと、マティアス様は言葉を選ぶように視線を落とした。


「……彼の立場は複雑だ。だが、国に対する忠誠を示した彼の行動は、然るべき評価を受けるべきだと思っている」

「まさか……それでも処罰を……」


私の思考が最悪の結論に傾こうとした、その瞬間だった。


「俺も、なんだって?」


まるで舞台の幕が不意に開いたかのように、場の空気が凍りついた。


公式の場とは思えないほどくだけた口調。その場にいる全員の視線が、一斉に声の主へと向く。


そこにいたのは──フレデリック・マーリン本人だった。


「……なぜここに?」


驚きに声を奪われた私の問いに、マティアス様が一歩踏み出して口を開く。


「フレッド。いくらなんでも、この場に現れるのは──」

「私が提案致しました」


ザワつく広間に響いたのは、確信に満ちた父の声だった。一歩前に出て全員を見渡すように立つ。


「彼は、自らの祖父を──己の“血”を告発した。それは決して恥ではない。むしろ、国と未来を選んだ勇気ある判断だと、私は評価している。ならば、堂々とこの場に立つべきだと、私が彼に助言しました」


静寂の中に、お父様の言葉が重く響いた。


フレッド様は肩を落ち着かせるように息を吐き、私の方へと視線を向けた。


「……驚かせてしまったかな、アルジェラン嬢」

「……いえ。ですが……あなたは本当に……」

「迷いはなかった。今は心から安心しているんだ」


彼の声は穏やかだったが、その瞳には一点の曇りもなかった。


マティアス様は何かを飲み込むように唇を結んだまま、視線を逸らした。


誰もが注目する中、フレッド様は背筋をまっすぐに伸ばしたまま堂々とその場に立っていた。


噂好きの貴族たちが一斉にざわめいている。

ドレスの裾が揺れ、囁きが波紋のように広がっていく。

そんな中、マティアス様は軽く息を吐くと、周囲の空気を払うように一歩を踏み出した。


「さあ、そろそろ話は終わりにしよう。───一曲、私と踊っていただけますか。アルジェラン嬢」


その声は穏やかでありながらも、はっきりと場を制する力を宿していた。

周囲の注目が一気に私と殿下へと集まる。


───だが。


空気を読む素振りもなく、すっと割り込んだのはフレッド様だった。

彼は軽やかに歩み寄ると、白手袋をはめた手を私の前に差し出す。


「是非、僕とも踊ってください。アルジェラン嬢」


その笑みは、

繊細でありながらも大胆で、美しく、それでいてどこか気まぐれな猫のよう。


二人の麗しい青年から同時にダンスの誘いを受けた私は、当然のごとく注目の的となった。

そっと視線を横に送り、お父様を見上げる。


お父様は何も言わず、ただ静かに目を伏せ、ふぅ……と小さく息を吐いた。

その仕草だけで、私は理解する。


(こういうときは、身分の高い方を先に選ばないと……)


「では、殿下。よろしくお願いいたします。───フレッド様は、後ほど」

「ええ、アルジェラン嬢」


マティアス様が私の手を優しく取る。

そのまま二人で広間の中央へと歩み出ると、オーケストラが静かに旋律を奏で始めた。


美しく、整った足取り。

自然と身が踊り、体が音楽と一体になる。


(……なんだか、この感覚、懐かしい)


前世──私は皇太子妃として教育を受けていた関係で、マティアス様と何度もダンスの練習をしていた。

だからこそ、彼と踊ると不思議と身体が自然に動く。


「よかった。少し表情が柔らかくなったね」


囁くように耳元へ届いた声に、私は少しだけ目を見開いた。


「……あまり元気がないように見えたから。アレスも来ていないし、不安なのかと思って」

「いえ。そういうわけではありません。ただ──なにかを、忘れているような気がして」


言葉にして、ようやく気づく。

ずっと胸の奥に引っかかっていた違和感。

デビュタントが“二度目”だからだろうか?


「まあ、大した忘れ物でないなら、いっそ忘れてしまえばいいさ。……にしても、驚いたよ。ここまで踊りやすい相手は初めてだ」

「まぁ……光栄ですわ、マティアス様」


にっこりと微笑むと、殿下はわずかに視線を逸らした。


そして──その瞬間だった。


「危ない─────!!」


会場に、緊迫した叫びが走る。

視界の端に、何かが高速で落ちてくるのが見えた。


(え──)


反射的に、私は両手で頭を庇う。

けれど、衝撃は来なかった。


──ぶつからなかった。


ゆっくりと目を開け、顔を上げる。

そこには、私のすぐ上に張られた半球状の魔法障壁。

そして、その外側で空中に浮かされた、暴れる一人の女。


私を覆う防御魔法は間違いなく、お父様によるものだった。


「ステラ……!! 怪我はないか!?」


駆け寄ってきたお父様の顔は、いつになく険しい。

焦燥と怒り、そして深い安堵が混ざった表情をしていた。


私の鼓動は速い。冷や汗が背を伝う。

でも、今ようやく、はっきりと思い出した。


(……ああ、これ。なんで忘れていたんだろう)


──そうだ。


今日こそが、「原作ストーリー」のはじまりの日だった。

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