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第六十八話 二度目のデビュタント ①

煌びやかに飾り付けられた皇宮内――。


今宵、リンジー皇国の中心であるこの宮殿が、社交界シーズンの幕開けを告げる舞台となる。金と白を基調とした大広間の天井には、いくつもの魔導式のシャンデリアが吊るされ、宝石のように輝く魔石が光を柔らかく散らしていた。床には光沢のある瑠璃色の絨毯が敷かれ、壁一面には四季折々の花を織り交ぜた生花の装飾が、息をのむほど美しく咲き誇っている。


私は今宵、二度目の社交界デビューを迎える。

けれども、この姿でこの場に立つのは、前世とはまったく意味が違う。


以前は、皇太子マティアス殿下の婚約者として、皇宮から支給された白銀のドレスを身に纏い、ただ形式的に微笑んでは、隣を歩く彼の後をついて回るだけだった。あの時は、それが当然だと思っていた。華やかさに心が躍ることも、社交の場で何かを望むこともなかった。


――でも、今は違う。


今回、私が選んだドレスはアレスが選んでくれたもの。

深い夜空を思わせるような、気品ある濃紺のドレス。

そのドレスの裾には、小さな黄金の宝石が星のように散りばめられていて、歩くたびに静かに光を揺らす。胸元には、父が選んだ生地の中で最も高価な絹が用いられ、ドレスの内側に至るまで妥協のない手仕事が施されていた。


(きっと、アレスは私の瞳と、自分の瞳の色を想わせるよう、この色を選んだのだと思う)


心のどこかで彼の気持ちを感じながら、私は静かに呼吸を整えた。背筋を伸ばし、扇子を軽く持ち直す。

そう、今日はただの形式じゃない。私自身の意思で、ここに立つ。


もしかしたら、新しいお友達だってできるかもしれない。そんな淡い期待すら、胸に忍ばせていた。


(……でも。なにか、大事なことを忘れている気がする。何か、忘れ物をしたような……)


言葉にならない違和感が、胸の奥に微かに沈んだ。


「ステラ、そろそろ行こう」


父の静かな声が、現実へと私を引き戻した。


入場は爵位順。公爵家である私たちは、最初の方に皇帝と皇后の前へと進むことになる。


父と並んで、大広間の奥へと歩みを進める。大理石の床にヒールの音が小さく響くたびに、周囲の視線が自然と私たちに注がれた。

緊張しながらも、私は微笑みを浮かべていた。作られた笑顔ではなく、自分でそう在ろうと決めた笑顔で。


玉座の前に立つと、父が一礼し、私は優雅なカーテシでスカートを広げ、深く頭を垂れた。


「アルジェラン公爵、ディル・アルジェラン、謹んで拝謁いたします。

本日は娘ステラを伴い、舞踏会へ参列の栄を賜り、誠に光栄に存じます」

「アルジェラン公爵。帝国との戦での功績、改めて讃えよう。そして、そちらが貴殿の愛娘か」


皇帝陛下の声は重厚でありながら、どこか穏やかだった。


「お初にお目にかかります。ステラ・アルジェランと申します」


私が礼儀正しく答えると、皇帝は口角をわずかに上げて、柔らかく言葉を続けた。


「貴殿が、隠しておきたくなる気持ちもわかるほど可憐な娘だな。マティアスとの婚約が叶わぬのは、実に惜しい」


……その言葉がどういう意味を含むのか、私には正直わからなかった。ただ、それが冗談ではなく本心から出たものであるようには思えた。


だが、そんな空気を断ち切るように――皇后が口を開いた。


「あらあら、ご子息の方は来ておられないのですか? 皇宮主催の舞踏会に?」


その声音は、飾られた笑顔とは裏腹に棘を含んでいた。

私を見ずに父だけを見つめるその目が、冷たくて、嘲るようで――


「ジアーナ、よせ」と皇帝が短くたしなめたが、皇后は意に介した様子もなく、笑顔のまま続けた。


「次期アルジェラン公爵ですもの。ちゃんとご挨拶しておきたかったわ。姿が見えず、残念ですわね」


(……これが、皇后陛下。マティアス殿下のお母様)


髪の色、瞳の色、仕草――皇帝とは対照的な、艶やかで冷たい美貌。

性格も、きっとまるで似ていない。

それに比べて、皇帝は思ったよりもアレスに似ていた。

アレスとおなじアイスブルーの髪に黄金の瞳。


「すまないな、アルジェラン嬢。今日は楽しんでいきなさい」


皇帝陛下の言葉に、私はもう一度、深くお辞儀をした。


「身に余るお言葉、恐れ入ります。陛下」


──こうして私は、社交界の中心に足を踏み入れた。


◇◇


お父様と、公爵家において重要な人物への挨拶を一通り済ませると、ようやく束の間の休憩が訪れた。


煌びやかなシャンデリアが吊るされた広間の隅で、私は壁際の椅子に腰を下ろした。さすがに、これまで笑顔を保ち続けてきた顔筋も、そろそろ限界を訴えている。


「ふぅ……」


小さく息を吐き、ドレスの裾を少し直す。コルセットは息が浅くなるほどきつく締められ、スカートの裾には何層ものレースと宝石装飾。ヒールの高さも相まって、肉体的にも社交の場は拷問に近い。


「ステラ、大丈夫か?」


気遣う声に顔を上げると、お父様が心配そうに私を見ていた。


「あ、はい。全然、まだ序盤ですし」

「無理をするな。玉座への挨拶も済んだんだ、帰っても───」


その言葉の途中で、お父様の表情が一変した。


厳しく、強張り、信じられないほどの怒気を帯びている。


「こんにちは」


その声とともに、ふらりと現れた一人の男。


微笑みながら立っているのに、顔の輪郭がぼやけて見える。瞳も、口元も──首から上の“情報”だけが、脳にうまく入ってこない。


(……これは認識阻害。しかも、私にだけかけられてる?)


「なぜここに来た」


お父様の声が、低く、震えるほどの怒気に満ちていた。


まるで今にもこの場で相手の心臓を握り潰さんとするような、圧のある声。隣にいるだけで、肌にざらりとした魔力の逆流を感じる。


「初めまして、ステラちゃん」


男は軽い口調でそう言った。


その声にどこか聞き覚えがあって、私は思わず目を細めた。


「近づくな」


お父様が、私の前に腕を伸ばして男との間に立つ。


「なにもしないってぇ」


男は面白がるように笑いながら身を屈め、そしてふっと戻ったその瞬間──ふわりと香った香水の匂い。


(この匂い……知ってる)


胸の奥がざわつく。思い出せそうで思い出せない。

私はそっと左目に手を当て、指の隙間からその男を見た。


赤く染まりゆく左の瞳に魔力を込めて──魔眼を発動させる。


視界に浮かんだ魔力の色は、鮮烈な夕焼けのような橙。


(……この魔力。間違いない……)


「ハル先生……? ハル先生ですよね!!」


声を上げた瞬間、男は、息を呑んだ。


「……はっ」

「身分を隠していたのは、貴族だったからなんですね?」


私はそう言ったが、場の空気が一気に凍りつくのを感じた。


「ステラ、お前、こいつを知ってるのか」


お父様が静かに問いかける。その声音は、怒りを内に抑え込んでいる分、余計に怖い。


「はい。担任の先生で……って、ごめんなさい先生。私、知らないふりをした方が良かったですよね……?」


言いながらも、その場に漂う重たい空気に、私自身もどうすればよいかわからなかった。


そして、お父様が男を睨みつけて口を開く。


「ハイルド。お前……ステラにまで近づいていたのか」


……ハイルド。


その名は、私の記憶を冷たく叩いた。


(ハイルド……って。お母様の、義弟……?)


「いやいやぁ、バレちゃったかぁ。俺の認識阻害もまだまだってわけだ。じゃあ、またね。お義兄さん、ステラちゃん」


彼は終始、余裕を崩さなかった。軽く手を振り、侯爵家の人間とは思えぬ気だるげな足取りで、その場を去っていく。


一方で──お父様は、今にも爆発しそうだった。


全身に力が入っていて、握り締められた拳から血の気が引くほどに白くなっている。まるで、今すぐにでもハイルドを殺してしまうかのような、禍々しい気配が漂っていた。


私は静かに、その拳の上に自分の手を重ねた。


「……お父様」


その手の温度が少しでもお父様を現実に引き戻せるように。


ここは皇宮。舞踏会の会場。今この場で剣を抜けば、どれほどの騒ぎになるか──お父様も、わかっているはず。


だからこそ、何も言わずに耐えている。


ハイルドという男が、どれほど憎い存在であるかが、痛いほど伝わってきた。

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