第六十五話 閉じ込めた私の宝物
布団の中は、思っていたよりもずっと暖かかった。
夏の夜でもないのに、まるで陽だまりの中に包まれているような、静かな安心感。
いつだったか───一年半ほど前、初めてお父様と一緒に眠った夜のことを思い出す。あの頃はもっと小さくて、腕の中が広すぎて、ただただ頼もしかった。
けれど今は──少しだけ違う。
身体が大きくなった分だけ、距離も、心の重さも感じる。
成長したぶんだけ、甘えることが照れくさくなってしまった。
そんな私の胸の内も知らないまま、お父様はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……前に、一緒に眠った時、後悔したんだ」
声は低く、まるで夜の静けさに溶けてしまいそうなほど優しい。
「赤ん坊の頃から、なぜ一緒に眠らなかったのか……こんなにも愛おしい娘を、大切にできなかったのかって」
私はじっと、肩に触れる温もりを感じながら、その言葉を聞いた。
「自分を許せないと同時に、取り戻そうと思って、こうしてステラと時間を重ねるほど……俺の想いが、お前を縛って不自由にさせているのも、わかってる」
その声には、苦しさと悔いが滲んでいた。
「今まで何も守れなかった俺には……お前が、他の男の元に行くことが恐怖なんだ」
「恐怖……?」
私はそっと問い返す。
お父様は少し黙ってから、呟くように続けた。
「ああ。もし嫁いだ先が、ステラにとって苦しい場所だったらどうする? 浮気をするような男だったら? 手を上げるかもしれない、心ない言葉で傷つけるかもしれない……」
低く絞り出されたその言葉は、まるで自身の中の影を吐き出すようで。
「正直、泣かせることすら許せない。……自分は、こんなにもお前を縛って、泣かせているくせにな」
次の瞬間、私を抱きしめる腕に、少しだけ力がこもった。
その強さに、かすかな震えが混じっているような気がして、私は目を伏せた。
「……でも、アレスは、そんな人じゃないって……お父様も、それは分かっているはずですよね?」
私はそっと問いかけた。
「血は繋がっていないし、本当の家族ではないけれど、アレスがどれだけ私のことを大切にしてくれているか……それは、きっと、お父様も見ていたはずです」
「……ああ。そうだな。アレスが、優しい男だということも、信頼に足ることもわかってる」
そう言ってくれたお父様の声には、ひとときの安堵が含まれていた。
けれど──次に続いた言葉は、まるで熱に浮かされたようだった。
「……だが、子供のような言い方になるが……ステラを、アレスに取られるのが嫌なんだ」
一瞬、私は呼吸を忘れた。
「それだけなら、まだよかった。だけどな……その想いは、そんな可愛らしい言葉じゃ収まらないほどに膨れ上がって……殺意すら湧く」
私は静かに目を見開く。お父様の声が震える。
「魔力の制御が利かなくなるほどに、ステラを危険に晒してしまうほどに……」
まるで、告白というより懺悔のようだった。
「……アレスを殺したくはない。ステラに、そんな危ない思いをさせたくもない。だが、どうしても感情が抑えられない。許すことができないんだ」
見上げたお父様の顔は、布団の影に隠れてよく見えなかった。
わざと私に見せないようにしているのだと思った。
きっと、こんな顔を娘に見せたくはなかったのだろう。
だから私は、震える声で問いかけた。
「……私がどうしても、アレスとの関係を終わらせたくないと言ったら……?」
これは、答えてほしくない問いだった。
聞いてしまえば、戻れなくなるとわかっていた。
けれど、聞かずにはいられなかった。
それほどに、私にとっては大切な、分岐点だった。
お父様は──答えた。
「……きっと、会えなくする。二度と」
その言葉は、まるで刃だった。
鋭く冷たい言葉の先端が、胸の奥深くに突き刺さる。
私は一瞬呼吸を忘れ、ただ音もなく瞬きだけを繰り返していた。
まるで、静まり返った夜の世界に突如として雷鳴が落ちたような衝撃。
鼓膜の奥が震え、心臓が一拍、鼓動を飛ばす。
──二度と、会えない。
その言葉が頭の中で何度も反響する。
お父様なら──十分に可能だった。
いまの状況に、ほんの少し手を加えるだけでいい。
それだけで、私とアレスはもう二度と、顔を合わせることさえできなくなる。
会えないようにするなんて、きっと朝の支度をするくらい簡単なことだ。
ほんの一手間。
それだけで、私たちは永遠に“他人”にされる。
ぞっとするほど静かに、背筋が冷えた。
もしかしたら──この世界のどこにいても、私はもうアレスを見つけられなくなるかもしれない。
たとえ同じ空の下にいたとしても、永遠に手の届かないところへ。
会えなくなるなんて、ただの言葉じゃなかった。
それはもう、死よりも遠い断絶だった。
ならば、私たちは“姉弟”に戻るべきなの?
血は繋がっていなくても、育った家は同じ。
互いに家族と呼び合ってきた。
その道を選び直せば、きっと穏やかな日常が続く。
でも……それで本当に、私は幸せになれるの?
「お父様……本当にそれしか、選択肢がないんですか?」
声が掠れていた。
喉の奥に何かが引っかかるようで、思うように言葉が出なかった。
「どうしても……だめ、ですか……?」
沈黙が落ちる。
長い夜が、さらに深まったように感じた。
やがて聞こえたお父様の声は、限りなく低く、罪悪感に染まっていた。
「……悪い。……父親失格だな」
自嘲を滲ませたその言葉に、胸が締め付けられた。
お父様は、誰よりも私を愛してくれている。
けれど、その愛は時に残酷で、誰かを切り捨てるほどに独占的で……そして、脆い。
きっと、私がいなくなったらお父様は壊れてしまう。
私が傍にいることだけが、彼の生きる理由なのだと──だからこそ、私は決めなければならなかった。
アレスと生きる未来を、一度は夢見た。
けれど今は、違う。
私はこの命を、お父様のために使う。
前世で、私をこの手で殺した父。
それでも今世では、私を生かすために狂うほど愛してくれた父。
……ならば、私が報いるべきは一つしかない。
アレスへの想いを、心の奥深くへ沈める。
何もなかったかのように、優しい姉に戻るのだ。
だけど、それでも──
「ふっ……うぅっ、少しだけ……最後でいい……このままの関係でアレスに会わせて……っ」
止まっていた涙が、一気に溢れ出した。
まるでせき止めていたダムが決壊するように、堰を切ったように。
「ステラ……」
お父様の腕が、強くも優しく私を抱きしめる。
私はその胸の中で、絞るように続けた。
「二人きりじゃなくていいの……話さなくてもいい、何もしないから……だから、せめて顔を、声を……ひと目、ただそれだけでいいから……」
涙が枕を濡らす。
その一粒一粒に、アレスとの思い出が焼きついていた。
笑った顔。
不器用に手を握ってくれた日。
「好きだ」と伝えてくれたあの真っ直ぐな黄金の瞳。
それらをすべて、閉じ込めて、心の奥底にしまう。
誰にも見せない、私だけの宝物として。
……だから、お願い。
最後に、一度だけ。
その願いに、やがて返ってきた声は静かだった。
「……わかった」
ほんの一言。
けれどそれは、私がこの夜を越えるために必要だった、たった一つの希望だった。




