第六十四話 見つけた生きる理由
夕食の時間。
アレスが皇都の屋敷からいなくなっても、お父様は変わらず毎日、食卓に姿を見せてくれる。
食器が並ぶテーブルの向かい側に、彼は静かに腰掛けていた。
変わらないはずのその風景が、今夜はどこか薄暗く見えた。
「……ステラ。今日は何かあったのか?」
口火を切ったのは、お父様のほうだった。
「……なぜですか?」
私は手を止めずに、淡々と返す。
「少しだけ……表情が暗い」
──こういうところだけは妙に鋭い。
けれど私は、暗い気持ちになっているわけじゃない。
ただ、今日こそ訊こうと、決めていただけ。
アレスのことを。
彼がどうしているのか、どうして手紙すらも交わせないのか。
「お父様、アレ──」
言いかけたその瞬間、ぴしゃりと会話の流れを変えるように、父が口を挟んだ。
「そうだ。再来月は王宮の舞踏会に出るんだったな。ドレスは何色がいい?」
「私の話を───」
「青でもピンクでも、ステラは何色でも似合うからな。迷いどころだなぁ」
「……お父様」
「装飾品も新しく買い揃えないとな。宝石商を──」
「お父様……!!」
耐えきれず、私は思わず声を上げた。
ぴたりと、お父様の手が止まる。
その表情から、誤魔化しの色がようやく剥がれ落ちた。
深く、ひとつ息を吐いたあとで――彼は静かに言った。
「……ステラ。アレスの話はやめてくれ」
「嫌です」
目を逸らすことなく、はっきりと言い返した。
声が震えそうになるのを、奥歯を噛んで抑えた。
「お父様。私とアレスがどんな関係にあるかわかっているんですよね?」
父は目を閉じ、一瞬唇を固く結ぶ。
まるでそれ自体が苦痛であるかのように、眉間に皺を寄せて。
「……頭ではわかっている。だが、理解はしたくない。いや……理解して、アレスに殺意を向けたくないんだ」
「アレスは、今どうしていますか!?造形鳥で手紙を出しても届かないんです!」
やっと、父の口から出た答えは、あまりにも冷たく、明確だった。
「領地に転移魔法を使えないように制限をかけている。それ以外にも、お前と接触できそうな魔法は全て遮断した。それだけだ……」
「……アレスはいつ戻りますか?」
「戻すつもりはない。少なくとも、お前たちが普通の姉弟に戻り、アレスの婚約者を繕うまではな」
その声音は、酷く冷たかった。
私がどれほど傷つくかなんて、きっとわかっている。
それでも言わずにはいられなかったということなのだろう。
たぶん、お父様が今までアレスの話を避けてきたのは――これを言って、私に嫌われたくなかったから。
でも今、彼はそれさえも振り切って言葉を告げた。
「そんな……じゃあ、アレスとは別れろということですか?」
「元々そんな関係が間違いなんだ。別れろではなく……“なかったこと”にしなさいと言っている」
“なかったことに”。
その言葉に、胸の奥が鋭く痛んだ。
アレスとの時間。
私のことを優先してくれたあの人。
静かに寄り添ってくれた夜。
勇気を出して、想いを伝えてくれたあの瞬間。
ぶっきらぼうな口調だけど、優しい声。まっすぐな瞳。
全部――なかったことに、なんて。
「……無理です」
涙が溢れそうになったが、どうにか堪えた。
「ステラ、お前にはまだ早い」
「お父様は……お母様との関係を“なかったこと”に出来ますか?」
その言葉に、お父様の肩がわずかに揺れた。
「それとこれとは訳が──」
「同じです。……私にとってのアレスは、お父様にとってのお母様です」
静かに言い切った。
父は、何も言わなかった。
私は、自分の鼓動がひどく大きく鳴っているのを感じながら、それでも言葉を続けた。
「アレスがいれば……私は、命に執着できます。アレスのために生きようって思えるんです」
昔のことを思い出す。
あまりにも幸せすぎて、「死んでもいい」と本気で思ってしまった時。
そんな私に、お父様は言った。
──『ステラ。お前が“生きること”に執着していないのは、見ていて危うい。……何か、やりたいことを見つけなさい』
だから私は、決めたんだ。
この人のために生きようと思えるような恋をしようって……
そして、見つけて、今は思う──
アレスのために、生きたいと。
お父様はぽつりと呟いた。
「……その目的は、俺じゃダメなのか……?」
寂しそうな、縋るようなその顔に、胸が締めつけられた。
「お父様のことは、確かに大好きです」
だけど───やっぱり、忘れられない。
何度生まれ変わったとしても、あの時の記憶だけは、胸の奥に鋭く突き刺さったまま消えてくれない。
前世、私はこの人に──今は愛してやまないこの父に、処刑された。
それがどれほどの衝撃だったか。目の前で振り下ろされた剣の冷たさも、頸を断たれる瞬間の恐怖も、誰にも理解できない。血が零れ、意識が遠のいていくあの時、父の目はただ冷たかった。娘を処す者の目ではなく、罪人を裁く剣の目。
私は、それでも生まれ変わって、今この人を愛してしまった。
優しい日々もあった。頭を撫でられ、守られて、抱きしめられた。父と娘として、信頼し合える関係を築いてこれたと、そう信じてる。
でも――
「この人のために生きよう」と思うには、あまりにも深く命を断たれすぎた。
私の命を奪ったこの人のために、もう一度全てを懸けようとするには、心が怯えてしまう。あの冷たい瞳が、もしまた私に向けられたら。あの時のように、再び「処刑」を下されたら。
そんな未来があると考えた瞬間、胸が張り裂けそうになる。
仮に、もう一度死に戻れたとしても、幸せになんてなれない。私の中の何かが、二度と立ち上がれない気がする。
それほどまでに、あの「死」は、私の存在を抉っていた。
私は口元に、少しだけ無理な笑みを浮かべる。
「けど……お父様は私の親でしょう?それは……少しだけ、おかしいかなって」
かすかに震えた声を、必死に隠して。
私の目には、もう涙が滲んでいた。
堪えようとしても、こぼれそうになる。言葉にすれば、すぐにでも声が震えてしまいそうで。
「……寂しいです。アレスも、レッドも……この家に、もう姿がないのは……」
静かに並ぶ食卓。料理の香りも、銀器の音も、どこか遠く感じられる。ふと視線を上げれば、壁際で控える使用人たちまで、少しだけ寂しそうな顔をしている気がした。
私だけじゃない。きっと皆、気づいている。アレスやレッドが、この屋敷にとってどれほど温かな存在だったかを。
お父様は、少しの間黙ったまま、視線を落とした。
何かを考えるように、苦しげに、そして最後には深く息を吐きながら目を上げた。
その瞳は、珍しく、どこか柔らかくて。
「ここじゃ……優しく話せなくなりそうだ」
そして、静かに言った。
「ステラ。今日は一緒に眠ろう。……もうすぐ十五になるお前に、こんなことを言うのは良くないかもしれないが。嫌じゃなければ、少しだけ父の隣で話を聞いてほしい」
優しさに包まれたその声は、どこか懺悔にも似ていた。
私はほんの少しだけ、胸に残る痛みを押し込めて、小さくうなずいた。
「……はい。私も……少しだけ、落ち着いてお話ししたいです」
そう言うと、お父様はゆっくりと微笑んだ。
それは、ほんのわずかに哀しみの混じる笑顔だった。




