第六十三話 笑わせんな
無事に、コリーヴ王国からリンジー皇国へと戻ってきて、気づけば四ヶ月が経っていた。
平穏無事とはとても言えない日々の果てに、それでも私は何とか、日常を取り戻しつつある。
あれから――アレスとは、一度も会っていない。
魔法学校も、彼は“家の事情”という名目でずっと欠席中だ。
その事情の中に私が深く関わっていることは誰も知らない。
私は今日も、研究クラスで一人きり、机に向かって魔法と向き合っている。
「ハル先生、暇そうですね……」
そう口にすると、私のすぐ隣の椅子に座っていたハル先生は、つまらなそうに頬杖をついた。
「暇ですよ……アレスさんはずっとおやすみですし、ステラさんは質問一つしてこないじゃないですか」
「前の担任の先生みたいに、職員室で待機していても大丈夫ですよ」
「ステラさん、それは冷たいですよぉ」
ぶーっと口をとがらせる様子は、生徒とそう変わらない。
この先生が本当に大人なのか、ときどき不安になるくらいだ。
というより、ふたりきりになってからというもの、どこか“教師らしさ”を捨ててしまった気さえする。
取り繕うのをやめたのか、それとも最初からこういう人だったのか……
「そういえばステラさん、今年が社交界デビューでしたよね? デビュタントは誰のエスコートで? やっぱりアレスさん?」
「先生……私、作業中です」
冷たく返したつもりだったけれど、ハル先生はまったく堪えた様子もない。
「いいじゃないですか、真面目にやっても研究クラスにいる限りは成績に関係ないですし~」
「……先生がそれ言います?」
思わず苦笑いがこぼれる。
やる気のない教師と、心に穴の空いた生徒。
不思議と、こうして向き合う空気は、心地よくもあった。
私は指先の魔力を抜いて、一旦作業の手を止める。
「デビュタントは……たぶん、アレスは来ないと思います。今の状況ですし……あまり、王族と関わるの好きじゃないらしいので」
「王族嫌いとは、これまた珍しい……というか、知られれば不敬罪ですね、ははっ」
ハル先生はくすりと笑った。
(……まあ、アレス本人が王族なんだけどね)
そんな皮肉は喉の奥に飲み込む。
「それに、『この状況』って……アレスさんはお家の事情ってことで通ってますけど、そろそろ深い理由を聞いても?」
「先生には言えないような、私情です」
私がそう答えると、彼はほんの少し表情を引き締めた。
「寧ろ、私情のほうが心配です。教師って、魔法を教えるためだけに存在してるわけじゃないんですよ。年頃の悩みや、家族のことで心が潰れそうになってる子の話を聞くのも……教師の役目ですから」
真面目な眼差しが、私を射抜く。
だけど私は、わかっていた。
「そうかもしれませんが、先生はただ面白がってるだけでしょう?」
「……あ、バレました? はははっ」
あっさり白状するところは、この人らしいというべきか。
やっぱり、この人はつかみどころがない。
顔立ちは整っていて、物腰も柔らかく、周囲の生徒からの人気は高いけれど――
それでも、どこかに人間味の希薄さを感じるのだ。
まるで、仮面を何枚も被ったまま笑っているみたいに。
「まあ……言えることがあるとしたら……お父様が、私のことを好きすぎるってことくらいですかね」
「好きすぎるとは? ……愛が重いということですか?」
「……まぁ、はい」
「ふーん……────」
その瞬間、先生がぽつりと何かを呟いた。
でも、それが何の言葉だったのかは、聞き取れなかった。
「……それにしても、いいことじゃないですか。
貴族令嬢なんて、自分をただの駒としか見てくれない父親に悩んでる子の方がずっと多いと思いますよ?」
その言葉は正論だった。
誰にでも通じる、正しい言葉。
私だって、それがわかっている。
死に戻る前の私は……たぶん、ただの“駒”だった。
きっとだから、誰かに守られることもなく、ただ利用され、処刑台に立った。
それを思えば、今の私は――とても、贅沢な悩みを抱えているのだと思う。
(でも、お父様は……)
あれからずっと、アレスの話題になると、まるで“なかったこと”のように口を閉ざす。
まるで、最初から存在していなかったかのように――
その名を避ける。
(……それじゃ困るんだけどな)
心のどこかで、父の目を、声を、待っている自分がいる。
「……そうですよね。愛されていることは……素直に、嬉しいです」
せめてこの言葉だけは、嘘じゃない。
父の愛が重くても、痛くても、それでも――
私はそれを、嬉しいと感じてしまう娘でいたいのだ。
◇◇◇
ステラが父親の転移魔法で通学するようになってから、ハル先生は授業が終わるとすぐに教室を出るようになった。
以前は、生徒が残っていれば気まぐれに雑談を続けたり、教師らしく課題の添削に目を通したりしていたのに――今はそれもない。
今日もまた、彼は一番に教室を後にし、静かな廊下をひとり歩く。
他クラスの生徒たちは教室に残って、思い思いに放課後を過ごしていた。
ある者は魔法の復習に没頭し、またある者は友人たちと茶会を楽しんでいる。
そんな活気ある校舎の中で、廊下を歩くハルの足音だけが空しく響く。
やがて踊り場に差し掛かると、彼は一度足を止めて、低く笑った。
「……あんなんが、重い愛、ねぇ」
嘲るように吐き捨てるその声は、もう教師のものではなかった。
「はっ……笑える」
口元を吊り上げるその表情に、教室で見せていた朗らかな笑顔の面影はない。
まるで仮面が剥がれ落ちたように、彼の瞳には黒い感情が浮かんでいた。
「愛してるだの、守ってるだの……セレーナを殺しておいて、よく言うよ。滑稽だ」
それが誰に向けられた言葉なのか、学校に残る誰も知らない。
ただ、ハルの足取りは次第に速くなり、やがて階段の影にその姿を消した。
──静寂。
教室の中では、まだステラがひとり、魔法と向き合っていた。
彼女の知らない場所で、彼女の知らない誰かが、何かを抱えて動き出している。
物語は、静かに――けれど確実に、歪み始めていた。




