第六十二話 ステラを守りたい人たち
サダーシャ帝国との全面戦争を目前に控えた、ステラがまだ十二歳の夜。
戦地に行く事を伝えた夜。初めてステラとベッドに入った。娘の柔らかな髪が枕に広がり、静かな寝息が広間に漂っている。俺はその様子を見届けると、毛布の端をそっと引き寄せて彼女の肩にかけた。
「……よく眠れ、ステラ」
呟きながら、そっと寝室を出る。扉を閉めたその先に、予感めいた不穏さに気づいていたかのように、ダミアンが無言で立っていた。
「ダミアン」
「……はい」
「広間にレッドを呼べ。今すぐだ。目立たないように連れて来い。……連れてきたら、誰も近づけるな」
「畏まりました」
静かに姿を消したダミアンの足音を背に、俺は広間へ向かった。
まもなくして、夜気をまとったように現れたのは、漆黒の衣に身を包んだ従者――人間に擬態した魔族、レッドだった。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「……ああ、レッド。少し話をしたい」
無駄のない動作で礼を取ったレッドに、俺は真正面から問いかける。
「お前は、どれくらい強い?」
レッドは僅かに首を傾げ、すぐに問に答える。
「それは……どうお答えすればよろしいでしょうか」
「俺に勝てるか?」
「……いえ。勝てる確率は0.1%もありません」
予想通りの答えだった。
俺はすぐさま、広間に強固な防音と外界遮断の結界を張る。空気が密閉され、世界から切り離されたような静けさが降りる。
「手合わせをしよう。俺は……二割の力で戦う」
レッドは目を細め、何かを察したように口を開く。
「……失礼ですが、理由を聞いても?」
彼女の目が、魔眼の光を帯びてわずかに赤く染まったように見えた。
「お前には、ステラの盾になってもらいたい。俺が戦地に出る間、あの子を守ってほしい。……それともう一つ」
その続きは少しだけ言葉が出るのに間があいた。
「私は、ステラ様を何からでも守ります。例え、相手が旦那様であっても」
真正面からぶつけられた言葉に、俺は皮肉のように笑みを浮かべた。
「……やはり、見抜いていたか」
魔眼の持ち主である以上、俺の感情の揺れなどとうに見えていたのだろう。
ステラのことになると、俺の理性はたやすく崩れる。魔力の奔流が感情に引きずられ、制御を失えば、皇都を消し飛ばすことすらあり得る。
「俺は、人間だ。だが……普通じゃない。魔力が異常に高く、生まれた時から加護なしでも制御不能になるくらいだった。特に“怒り”を覚えた時が危ない」
「……二割というのは?」
「制御が効かなくなりかけたときの、漏れ出してしまう魔法相当の力だ。ちなみに普段は、目立たぬように五パーセント以下に抑えている」
レッドはわずかに目を伏せ、考え込むような間を置いた。
「……今の四倍となると。私の命と引き換えならば、守れるかもしれません」
「頼む。アレスも……あれでいてまだ十二の子どもだ。ステラを任せるには心許ない。それに……あいつはステラのことが好きだろう?」
「そうですね。とても、わかりやすい方ですから」
「万が一、あの二人が恋仲にでもなったら……止めてくれ。義理の息子を殺したくはない。ステラに嫌われてしまうからな」
言いながら、自分の言葉に内心で苦笑した。
俺は――どこまでも、ステラのことしか考えていなかった。
アレスにも情はある。義理の息子として、それなりに愛着もある。
だが、その情ですら、ステラが関われば全て吹き飛ぶ。
俺の人生で、何度も何度も間違えてきた中――唯一、真っ直ぐに信じられる光。
世界のすべてと引き換えにしても守りたい、命よりも重い存在。
「……では、始めようか」
レッドは無言で頷いた。
◇◇◇
確かに、レッドはよくやってくれた。
魔眼の力を解放し、命を捨ててまでステラと周囲の人間を守ってくれた。
だが、あれは本来起きてはならない“事故”だった。
それを引き起こしたのは、俺だ。
魔力を使わないと約束していたこの王国で、娘を守るためとはいえ、俺は制御を失いかけた。
一歩間違えれば、王都の一角が焦土と化していたかもしれない。
どれだけ後悔しても、失った命は戻らない。
だから今、俺はこうして国王に直接、頭を下げに来ている。
謁見の間。
重厚な扉の向こうに王がいる。
その前で、俺は静かに立ち尽くしていた。
誰もいない静寂の中、思わず独りごちる。
「……本当に、命懸けでステラを守るとはな……」
誰に言うでもない言葉だった。
あの広間で手合わせをした夜に、俺の“魔力の一割”でレッドが限界だとわかっていた。
レッド自身もわかっていたはずだ。俺の暴走を止めることなど、犠牲をもってしか不可能だと。
彼女は、自分の死を当然の結末のように受け入れ、静かに盾となった。
ステラを守るために。
──それが、他国であるこの王国の民までも救ったことが、唯一の救いだった。
ただ、王にとってはそうではないはず。
結果がどうあれ、他国の戦士が、魔力の暴走を起こしかけたという事実は、平和を脅かす外交問題に直結する。
だから俺は、こうして王の前に立っている。
誰にも言い訳などしない。
娘を守ろうとして、他国の信義を踏みにじった――その責任を、真っすぐ背負うために。
扉が静かに開く。
謁見の間に通されたその瞬間、俺は背筋を伸ばし、深く頭を垂れた。
「この度は、貴国の定めを破る行いとなってしまいました。
王都の中で、制御できぬ魔力を放ちかけたこと、心よりお詫び申し上げます」
国王は、少し目を伏せていた。
「……フレデリックから聞いておるよ。
あれは、娘を守るための行動だったと」
その声音に怒りはなかった。
淡々と、けれど胸の奥に重たい何かを押し殺すように。
「……知っていると思うが、わたしには自死した娘がいる。フレデリックの母だ……彼女の命を守ってやれなかった。国王という立場に縛られ、大切な一人の命を救えなかったことを、今でも悔やんでおる」
その言葉に、胸が詰まった。
国王は穏やかな男だ。平和主義を掲げ、他国との調和を最も重んじる人物だ。
その彼が今、俺の行動に対して怒りではなく――理解を示してくれていた。
「王都内での魔法の行使は禁止。これは王国が定めた、絶対の掟だ。
あなたの行為は、確かにそれに反したものだ。記録としては、必ず残す」
その言葉に、俺は強く頷いた。
「当然のことです。受けるべき処分があれば、甘んじて受けます」
だが次に返ってきた言葉は、思いもよらぬものだった。
「……だが、それ以上は問わぬ。
理由があった。そしてその理由が、命を守るためだったことも、聞いている」
一拍の沈黙が落ちた。
「誰よりも、父としてのあなたの気持ちが、今はよくわかるのだ」
……ああ。
この男もまた、父だったのだ。
娘を守れなかった悔しさを、ずっと抱えて生きてきた。
その痛みを知っているからこそ、俺の暴走にすら――慈悲を向けてくれたのだ。
けれど、彼が思っている事実と真実は違う。
きっと、フレデリックが庇ったのだろう。
「正式には、王国記録に魔力行使の事実として記載する。だがそれだけだ。
他国との外交問題に発展させる気もないし、処罰もしない。
……わたしが、今回だけは見逃したと、そうしておこう」
それは、最大限の寛大さだった。
法を曲げたわけではない。掟は掟として残す。
だがその上で、父の苦しみを知る一人の人間として、俺を許したのだ。
俺は深く頭を下げた。
「……重ね重ね、痛み入ります。
国王陛下のご慈悲、忘れません」
「……わたしは、ただ――誰かの娘が、救われたと聞いて……少しだけ、心が救われた気がしたのだよ」
(救ったのは俺じゃない。寧ろ危険な目に合わせただけだ)
だが、そう呟いた王の横顔は、静かだった。
寂しさと、悔しさと、そして小さな救いがないまぜになったような表情で。
謁見を終え、俺は重たい扉を背にして歩き出す。
白い大理石の廊下は、昼下がりの陽光を受けて柔らかく光を反射していた。
高窓から射し込む光は、いつもよりずっと眩しく感じる。
そのときだった。
「お爺様との話は終わりましたか?」
背後から静かに響いた声に、俺は足を止めた。
振り返らずともわかった。声の主は、フレデリック・マーリン。
「……助かった。国王に真実を話さなかったんだな」
俺がそう言うと、彼は堂々とした足取りで俺の隣に並んだ。
「はい。ステラちゃんにこれ以上、心労をかけたくありませんでしたから」
迷いも、曖昧さもなかった。
ただ真っ直ぐに言い切った。
「……そうか」
しばらく無言で並んで歩いたあと、ふとフレデリックが俺の横顔を盗み見るようにして、口を開いた。
「公爵は……魔族の彼女の死は、なんとも思っていないんですか?」
ストレートな問いだった。だが、それは俺自身が一番、胸の奥で繰り返し問い続けていた言葉でもある。
「……ああ。そうだな。
ステラのことを守ってくれたことは……感謝している」
それが、今の俺にできる、精一杯の答えだった。
彼の眉がわずかに寄った。
「……理解できません」
言葉は静かだったが、内側で燃えるような感情がこもっていた。
(……そんなことを言われてもな。俺自身が、誰より理解できていないってのに)
「価値観はそれぞれだろう。
たとえば――俺は、好きな女がいるのに不特定多数の女を抱く男なんて理解できないしな」
わざと皮肉を込めてそう言うと、彼の目が一瞬だけ揺れた。
「……そんなことまで知ってるんですか」
「別に、皇都で何度か見かけただけだ。
服装で誤魔化しても、貴族の立ち居振る舞いはすぐにわかる」
皇都を通ると、たまに平民のような格好をした彼を見かけた。そして毎回隣を歩く女が変わるのを俺は知っていた。
だからこそ――今回はステラのそばに置いていいのか、少しばかり警戒していた。
まあ、実際は。もっと近くに、警戒すべき奴がいたわけだが。
ふと、彼が立ち止まり、こちらをじっと見据えた。
その瞳は、さっきまでの気怠げな雰囲気を一変させていた。
「……公爵。もし俺が……ステラちゃんに手を出したら、どうしますか?」
その言葉に込められた真意は、すぐに伝わった。
「そうだな……バレないようにお前を殺して、お前の家――マーリン公爵家は没落させるかな」
冗談のように笑わず、冷静に言い切ると、彼はほんの一瞬目を見開き、次の瞬間には――目に、覚悟の光を宿していた。
それは、決意の色だった。
「……アルジェラン公爵。
どうか、俺の家を。マーリン公爵家を――没落させてください」




