第六十一話 左眼
ステラちゃんが飛び降りて、それを救おうと制御を失ったまま魔法を使ったアルジェラン公爵の魔法は、暴走とも言えるほどの強大なものだった。
宿の屋上から広がる魔力は一瞬で空を切り裂き、艶街の空気すら震わせる。まるで天から雷が落ちたかのような轟音のあとに、光と熱が一帯を包んだ。俺たちは息を呑む暇もなく、咄嗟にその場を走った。
駆けつけた俺たちの目に映ったのは、艶街の真ん中、ひときわ賑わう広場の中心──。
そこで、少女が泣き崩れていた。
髪が乱れ、肩を震わせ、両手で何かを抱きしめるようにしている。
「ゔぅ……やだ、レッド……っ」
その細い腕に抱かれていたのは、人の形を留めない、さらさらと風に舞う灰だった。灰になってもなお温もりを残しているかのように、それを必死に集めようとする彼女の指が、震えていた。
……その場にいた誰もが、言葉を失った。
ステラちゃんの足元に散らばる瓦礫の向こうには、艶街の宿の壁や屋根が崩れ落ち、それでも不思議と、一人の民も傷ついていなかった。
守られていたのだ。きっと、レッドに。
「ステラに怪我はないか……」
少し後ろから、公爵が低く、抑えた声で呟いた。
その言葉に、俺は無意識に彼の顔を見た。
まるで何もなかったかのように……いや、違う。彼は、娘の無事だけを確かめ、ふう、と胸を撫で下ろした。
(この人……)
魔族の女が消えたことへの悲しみや痛みは、その顔には一片も浮かんでいなかった。
彼は、娘さえ無事ならそれでいいと、本気でそう思っているのだ。
「……やっぱ、普通じゃねぇ」
俺の背に冷たい汗が流れる。
アルジェラン公爵──ディルという男が、いかに異常で、いかに人ならざる存在かは、噂で何度も聞いていた。
人の心臓を睨むだけで止める。生まれて間もないころに、加護もなしに魔力を開花させた異質な存在。加減をしなければ、世界そのものを消すことだって容易いと。
そしてその力を、ただひとりの娘のためだけに振るう。まるでそれが当然のように。
ステラちゃんとアレスくんが想い合っていることくらい、公爵だって気づいていただろう。
けれど、見て見ぬふりをしていた感情に、あの日──キスという、紛れもない「現実」を突きつけられて、爆発したのだ。
それだけで、義理の息子に殺意を向けるなんて……。
「ステラ……!!怪我は……!?」
息を切らしながら、アレスくんが駆け寄った。
つい先ほどまで公爵に吹き飛ばされ、命を狙われていたとは思えないほど、一直線に彼女へと膝をつく。
「大丈夫……っぅ、でも……レッドが……しんじゃっ、た……っ」
ぐちゃぐちゃに涙を流す彼女の言葉に、俺も思わず目を伏せた。
その横で、公爵はただ無言で立ち尽くしていた。拳を固く握りしめて。表情は変わらない。目には、何も映っていないようだった。
何を考えているのかなんて、俺にはわからない。ここ数日一緒にいたくらいで、あの人の本心を測れるわけがない。
けれど……。
少なくとも、俺の家も変だったけれど、目の前のこの家族は、同じくらい「普通じゃない」。
そして今──その異常の中心で、ひとりの魔族が、娘を守り、街を守り、命を散らした。
それすらも、きっと忘れられていくのだろう。あの男の中では。
それでも、ステラちゃんだけは、ずっとレッドを抱きしめていた。
どれだけ灰になっても、風にさらわれても。
まるで、ここにいると証明するかのように。
◇◇◇
レッドが私を守って灰になり、お父様はその直後、制御の効かない魔法で破壊された艶街を魔力で修復すると、無言のまま私とアレスを連れて王宮へと向かった。
国王への挨拶だけ済ませると。アレスはお父様の転移魔法でリンジー皇国の公爵領へ──私が六歳まで暮らしていた、懐かしいあの屋敷へと送られた。
私はまだ王国に滞在しているお父様と、フレッド様と一緒に王宮に残っている。
失礼だと分かっていても、食事は喉を通らなかった。
ずっと泣くのを堪えているだけで、まるで生きている実感がなかった。時間は確かに過ぎているのに、私の心は灰の中で止まったままだった。
身近な人を失う──そんな経験、今まで一度もなかった。
レッドは血の繋がった家族じゃない。それでも、八歳のときからずっと私のそばにいてくれた。言葉少なで、冷静で、でもどんなときも私の味方だった。
お父様に内緒のことも、あの人だけには全部話せた。
「……会いたいよ……」
王宮に用意された部屋のベッド。重たい布団の中で、私は顔を埋めるようにして泣いた。
レッドがいなければ、私はきっと──あの時、本当に死んでいた。
そして私だけじゃない。艶街の人々にも多くの犠牲が出ていただろう。
「ごめん……っ、ありがとう……レッド……」
届かない声だとわかっていても、私は声を上げるように、泣きながらそう言った。
すると。
左眼がふわりと、温かくなった。
「──へ?」
間の抜けた声が漏れた。
そっと、左目の下に指を添える。そこにはほんのりとした熱と、微かな脈動のような感覚があった。
私は慎重に魔力を流し込んだ。
瞳が、赤く染まる。あの魔眼の色──。
「……なんで……魔眼が使えるの……?」
私は呆然としながら、手首に刻まれたお父様との血の契約の紋を見つめた。
あの日。レッドと交わした契約を、思い出す。
──「魔眼契約、か……確かに聞いたことはあるが、実際に見たのは初めてだ」
──「でも……あなたの左眼は?」
──「もう必要ありません。私たち魔族は、魔力の産物なのです。死ねば全てが消えます。──救われた命、あなただけの為にお仕え致します」
確かに、そう言っていた。
死ねばすべてが消える。それでも、この魔眼が私の中に残されているのなら。
魔力の産物である彼女の「痕跡」が、私の中に生きているのなら──。
「……レッド。聞こえてる?」
魔力をさらに込めながら、私は左眼に語りかけた。
すると、頭の中にすっと澄んだ声が響いた。
『はい』
一言だけ。短く、でも確かにそれは──レッドの声だった。
「レッド……?ほんとうに……?」
『はい』
ああ、やっぱり。これは彼女の返事だ。
「レッド……ごめん。私……こんなことになるなんて、思ってなかったの……っ」
嗚咽が込み上げてくる。
お父様の魔力が制御できていないことは、知っていたのに。
どうして、あの時……「いつも通りに助けてもらえる」なんて、浅はかにも信じてしまったのだろう。
少し考えれば分かったはずなのに。自分の愚かさが、ただただ悔しくて苦しくて。
『お嬢様が無事なら、私はそれで』
「ありがとう……ありがとう、レッドっ」
私は何度も何度も、感謝の言葉を重ねた。
「ありがとう……大好きだよ」
『はい』
「また……話しかけてもいい? ずっと、ここにいてくれるよね?」
『お嬢様が死ぬまでここにおります。魔力を込められていない時は私の意識もないのでご安心ください』
「そんなこと……気にしてないよ」
レッドらしいその返答に、自然と笑みがこぼれた。
どこまでも無機質で、変わらない口調。それが、どれほど懐かしく、愛しいか。
もう、レッドの姿をこの目で見ることはできない。
けれど、あなたは確かにここにいる。
この魔眼の中に。
私と共に、生きてくれている。
──ありがとう、レッド。
あなたがいてくれて、本当に、よかった。




