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第六十話 私を守ってくれたのは



アレスと唇が触れ合った、その余韻がまだ残っていた。

戸惑いと鼓動、ふたりの呼吸だけが空間を満たしていた。


──そのときだった。


パリンッ!


「きゃっ……!」


部屋中のガラスが一斉に砕け、鋭い破片が宙を舞った。

床が揺れ、本棚が傾き、風の渦が壁を叩く。


「……なに……?」


まるで部屋そのものが怒りに震えているようだった。異常な気配。魔力の気流。肌に刺さるほど鋭くて、冷たい。


アレスも目を見開いていた。


「……この魔力、まさか……!!」


扉のほうがきしむように開いた。

鍵は……確かにかけたはずなのに。


ゆっくりと、確実に、その影が現れる。


「ステラ────」


低い、抑えた声。


耳に馴染みすぎていて、逆にすぐには現実だと理解できなかった。


「……お父様……?」


振り返った私の視界に、その姿が映った。


父──ディル・アルジェラン。


でも、そこに立っていたのは“いつものお父様”なんかじゃない。

怒りをそのまま身にまとった、剣より鋭い存在だった。


「公爵!?落ち着いて!!」

その背後から、フレッドが飛び出すように声を上げた。


「制御、できてねぇ! このままだと魔力が……!」


アレスがそう言った途端、風はさらに荒れ狂い、室内の家具を持ち上げる。

お父様の碧い瞳が深く染まって見えた気がした。いや、錯覚じゃない──殺気が、見える。


「アレス!!逃げ──」


私が叫ぶより早く、空気が歪んだ。


ゴッ!!


「ぐ、ぅ──あああっ!!」


アレスの体が吹き飛ばされ、壁に激突する。

そのまま何か見えない力で押しつけられたように、動けなくなっていた。


「アレス!!」


私は駆け寄ろうとするけど、空気が、魔力が、全てを押し戻す。簡単には進めない。

父は軽々と歩く。けれど、その一歩ごとに風が巻き起こり、空気が震えた。


「お父様!!お願いです、やめてください!!」


声を枯らすように叫ぶ。


だけど──お父様は、聞いていない。


その手が、腰の剣にかかる。


「ステラに手を出した代償……それだけの覚悟は、あるんだろうな?」

「やめて!! お父様っ、お願い!!」

「ステラ、下がってろ」

「いやですっ!! アレスを傷付けないで!!」


私は叫びながらやっとのことでアレスの前に立ちはだかる。

それでも父は、歩みを止めない。


その殺気の矛先に立つには、あまりにも怖すぎて、膝が震えた。


でも──アレスを守らなきゃ。

きっと、お父様を止められるのは私だけ。


私は割れた窓を見つめた。

窓の外は、三階の高さ。落ちたら怪我では済まない。けれど、このままじゃ、アレスが──


「お父様……!!」


呼びかけ、暴風の中、私は窓へと走り出した。

重たい風が身体を引き戻そうとするなか、歯を食いしばって足を前に出す。


(きっと、大丈夫……魔力で身体を覆えば……!)


ぐしゃり、とガラスの破片を踏んだ。飛び散った風景の中、窓枠に手をかけ──私は、身を投げた。


ぐらり、と視界が傾き、音が消えた。


空が広がる。

重力が身体を引き下ろし、風が髪を引き裂いた。


「ステラ────!!」


父の叫び声が、後ろから突き刺さる。


けれど──私は信じていた。

お父様は、アレスを傷付けることよりも私を取る。きっと、助けようとする。


その一心で飛んだ、はずだった。


でも、私は理解していなかった。


父の魔力は、もはや制御が効いていない。

心の乱れが大きすぎて、魔法の“精密さ”が壊れていた。


──窓の外から、私よりも早く何かが落ちる。


私の身体を包もうとした魔法は、救いではなかった。

風が、刃のように鋭く、全身を撫でていく。


(……だめ、これじゃ、死ぬ……)


魔力が当たる直前、視界が白く焼けた。

空気が爆ぜるような閃光。


気づいたとき、私は地面に倒れていた。


背中には、誰かの腕がある。


温度が、あった。


黒衣は裂け、風にあおられて荒れ狂う。

その中心にいるはずの女性の顔からは、血が――いや、血のように濃く黒い液体が、瞳から溢れていた。


赤い瞳は、その色を滲ませるように、まるで泣くように、血を流していた。


「……レッド……?」


私はかすれた声で名前を呼んだが、返事はなかった。

風が静まり、あの強烈な魔力の奔流は、まるで嘘のように消えていた。


その静寂の中で、ただ一人、レッドだけが崩れるように膝をつき、地に手をついている。


誰がどう見ても――その身は限界を超えていた。


宿の周囲を見回すと、倒れているはずの人々が、かすり傷ひとつ負っていない。

艶街の華やかな明かりがまだ揺れていて、提灯のひとつすら割れていなかった。


あの魔力から、あの暴走から、どうやって守ったというの。

この街ごと、丸ごと……?


「どうして……レッド……?」


私の問いは、風にかき消されていく。

その赤い瞳から零れる血だけが、彼女が確かにこの場所で命を使い果たした証だった。


「だめ……っ、だめ……っ!」


身体を起こそうとする私の目の前で、レッドの肌に──無数のひびが、走っていく。


まるで、陶器が砕けるように。

頬も、手も、衣の上からすら、灰色に変わっていく。


「そんなの、いや……!ねえ……っ!!」


レッドは、何も言わなかった。


声を発する代わりに、わずかに微笑んだ気がした。

その唇が、かすかに何かを言ったけれど──声にならない。


次の瞬間、レッドの身体は光に包まれ、灰となって風にさらわれた。


軽く、あまりにも軽くて──私の手を、すり抜けて消えた。


「いやあああああああああっ!!」


私の叫びは、空に吸い込まれていった。


助けてくれたのが、誰だったのかなんて、考えるまでもなかった。

私を抱きとめてくれた腕のあたたかさだけが、焼きついたまま、消えない。



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