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第五十九話 艶街

アレスと私は、この一週間、王都へ向かって歩き続けていた。

時には通りかかった荷馬車に頼み込んで、少しだけ乗せてもらうこともあったけれど、それも運がよければの話だ。


「……なんで、王都方面に行く人ってこんなに少ないのかしら」

「さあな。運がねぇだけかもな」


地図も持たないまま、道行く人に尋ねながら進む旅。

正しい道を歩いているのかどうかすら定かではない。


けれど、もう少し栄えている街に出られれば──

王都に向かう人に出会えるかもしれないし、運が良ければ地図も手に入るだろう。

希望だけを頼りに、私たちは前へ進み続けた。


「……そろそろ日が暮れるな。今日泊まれる宿でも探そう」


野宿も何度かした。

田舎町には宿がなくて、草の上や岩陰に寝そべって空を見上げた夜もあった。


だから、太陽が傾き始める頃には、必ず周囲を見渡して宿の明かりを探すのが習慣になっていた。


そのときだった。遠くに小さな石橋が見えた。

その先には、田舎町では見られないほど明るい光が揺れていた。


「アレス! 見て! あそこ……あれ、絶対宿あるよ! すごく栄えてそう!」


私が指さすと、アレスは一瞬何か言いかけたが、軽く頷くだけで答えた。


「……行ってみるか」


日暮れまでに着きたくて、私たちはその光の街を目指して足早に進んだ。


ようやくたどり着いて、石橋を渡ったその瞬間。

アレスは何かに気づいたように一瞬立ち止まった。けれど私は、その異変にまだ気づけていなかった。


「よかった……ここなら宿も、きっとたくさんあるはず」


目の前に広がっていたのは、夜を迎えてなお人々で賑わう、まさに“眠らない街”だった。

太陽が沈んだというのに、むしろ今からが本番だと言わんばかりの喧騒。

屋台の呼び声、笑い声、音楽、そして……甘く重たい香りが風に混じっている。


「早く、泊まるところ探そう!」


私はアレスの前へ一歩出た。

その瞬間、彼が私の腕を掴んだ。


「ステラ。一人で動くな」

「え? なに、どうしたの?」


彼の手にぐっと力がこもる。

そのまま、アレスは静かに口を開いた。


「……ここは、“艶街”だ」

「えんがい? なに、それ……」

「色事の街。……女が、買われる場所だ」


──え?


意味がわからず、私は周囲を見渡した。


……気づけば、道を歩くのは男たちばかり。

すれ違う建物の窓には、薄い衣を身に纏った女たちがこちらに手を振っていた。


「ヒュ〜、か〜わい。新人か?」


不意に、見知らぬ男が声をかけてきた。

アレスと一緒にいるというのに、私を値踏みするような視線を遠慮なく浴びせてくる。


「でも、まだ子供だなあ。……見習いからか?」

「うるせぇ。話しかけんな」


アレスの声が低く唸る。次の瞬間、彼は男に向かって手を伸ばし、魔法を放った。

男の口が不自然に閉じられ、声が出せなくなる。


「ん、んぐっ……!」


驚いたように口元を押さえる男を一瞥し、アレスは私の手を引いたまま、すぐに近くの宿へと駆け込んだ。


私たちは、口をきく暇もなく一室を取ると、無言で部屋へ入った。


「……アレス、部屋、一つしかないの?」


「言っただろ。ここは艶街だ。ステラを一人で泊まらせるわけにはいかない」


アレスは、終始どこか居心地悪そうだった。

視線を合わせてくれない。私と目が合わないよう、ずっと斜めを見ている。


「王国は、リンジーと違って規制が緩い。こういう街があっても、おかしくないんだ。……わかってはいたのに、気づくのが遅かった」


「ごめん、私……王国のことどころか、リンジーの規制についても、ちゃんと知らなくて……」


「当たり前だよ。俺はディルから国の政に関する引き継ぎを受けてる時に、近国との文化や制度の違いもまとめた資料を読んだだけだから」


少しだけ口調を柔らかくし、アレスは続けた。


「リンジーにも、娼館自体は存在する。でも大半は戦争や魔法発動後の魔力の昂りを抑えるためとか、金持ちの気まぐれ程度でしかない。たとえ相手が娼婦でも、乱暴すればちゃんと裁かれる」


「でも……王国は違う。女を気軽に売り買いできる。場所の規制はあっても、女の尊厳なんて、あまり守られていない。誰でも来られる分、治安も良くない」


その言葉は静かだったけれど、重たく、深く胸に沈んだ。

私はただ、こくりと頷くことしかできなかった。


「とにかく、部屋からは出ないようにしよう。飯は俺が買ってくるし、ベッドはステラが使え。今回はソファもあるし、俺はそっちで眠る」

「……わかった」


そうしてアレスが買ってきたパンをふたりで分けて食べ、私たちはほとんど言葉を交わすことなく、静かな時間を過ごした。

部屋の外からは、賑やかすぎるほどの喧騒が聞こえてきて、部屋の内装もまた、夜の営みを意識した艶めいた造りだったから。

そんな空気の中で恋人として同じ空間にいるのは、少しばかり気まずかった。


「おやすみ」


「……ああ」


私は早めにベッドへと潜り込み、ゆっくりとまぶたを閉じた。

けれど──


「……っ……ん、ぁ……」


壁は、思ったよりも薄かった。

隣の部屋から聞こえてくる艶めいた声が、神経をじりじりと焼いていく。


(……全然寝られない……)


そっとアレスの方を盗み見ると、彼はソファに座ったまま、微動だにせず目を閉じていた。いや、眠っているというよりも──耐えているように見えた。


「アレス……」

「ん?」

「寝られる……?」


私の問いかけに、彼は無言のまま小さく首を振った。

私は迷った末、ベッドを抜け出して彼の前に立つ。


「……私もちょっと、これじゃ落ち着かない。ねえ、隣いい? お隣さんが終わるまで、少しお話しようよ」


そう言うと、アレスは無言でソファの端に腰を詰めた。

私はその隣にそっと腰を下ろす。


「予想外にこんなところに来ちゃったけど……ここなら王都に向かう人、いるかもしれないね」


「……だな。艶街ってのは人里離れた場所にしかないから、わざわざ王都から来てる奴もいるだろうけど……そんなやつらに頼れねぇな」

「うん、ちょっと危険かも」

「ここに来てるってだけで、信用ガタ落ちだしな」

「ふふっ……確かに」


しばらくふたりで取り留めのない話を続けていると、やがて隣の部屋から聞こえていた声も止み、ようやく静けさが訪れた。


ほっと胸を撫で下ろしながら、私はソファに手をつく。


すると──そこにあったアレスの手に、私の手が重なった。


(……あ)


偶然の触れ合いだったけれど、私はその手をすぐには退けなかった。

わかっている。これはきっと、少しばかりの“誘惑”に近い。


大人の街に迷い込んで、どこか気持ちが揺らいでいたのかもしれない。

それでも、今はただアレスに触れていたい──そう思った。


「……なに?」


視線は合わせぬまま、アレスが静かに尋ねてくる。


「……ちょっと、触発されたかも……」

「……はぁ。やめとけ、こういうの。ほら、もう寝ろ、ステラ」


言いながらも、アレスは私に背を向けない。

彼なりに理性を保とうとしているのが伝わってきた。


「アレス、こっち向いて」

「いや、いい」

「私を見て」

「ステラ……いい加減に──」


アレスがようやく、私の方を向いた瞬間。


「キスくらいなら……いいじゃない……」


私は彼の手を、そっときゅっと握った。

それは軽率な行動だったかもしれない。けれどその時の私は、止まれなかった。


この一言が、彼をどれだけ苦しめることになるかなんて、まだ知らなかった。


「……バカ」


小さく呟いたアレスは、諦めたように私の頬を片手で支え、

唇に──はむ、と食むようなキスを落とした。


彼の真似をして、私も唇を少し動かす。


それは、不器用で、拙くて、けれど確かに“恋人”のキスだった。


──カチャリ。


鍵の開く音がしたことに、私たちは気づかなかった。


「ステラ────?」


静寂を切り裂く声が、部屋の空気を凍らせた。

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