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第五十八話 なにもできない



しばらく、東へと馬車が進み続けた頃だった。


「この辺りでございます」


魔族の女──レッドが、窓の外を指さす。


「停めてくれ」


公爵の低い声と同時に、馬車はゆっくりと止まった。


馬車の窓から外を覗くと、そこは王国の最東端にある、小さな町だった。家々は古く、ところどころ崩れかけた屋根も見えるが、人々はのんびりと穏やかに過ごしている。すぐ近くには鬱蒼と茂った森が広がっているにもかかわらず、そこを気にする様子はまるでなかった。


けれど──その森の中には、確かに魔物が潜んでいる。


「なんで、みんな気にしていないんだ……?」


俺がぽつりと呟くと、前を向いたままの公爵が、静かに答えた。


「気にしていないのではない。見えていないだけだ。この国では、加護によって魔力の解放はされていないだろう。あの程度の魔物では、気づくことすらできん」

「でも、どうして森の中から出てこないんでしょうか」

「魔道具だ。あの森には外に出られないよう封じる結界が張られているのだろう。──出られないのではなく、出させないためにな」


淡々としたやり取りの末、俺たちは森の手前で足を止めた。


魔族がそっと瞳に魔力を込め、赤く光らせ、ステラちゃんたちの魔力を探る。


「旦那様。お嬢様たちは、一度この森に落とされたようです。そして、その後……あちらの方向へ向かった痕跡があります」


細い指が差し示したのは、森を抜けた先にある、小さな露店の雑貨屋だった。


公爵は何も言わずにその方向へ向かって歩き出す。俺もその背を追い、足早に続いた。


店主は腰の曲がった中年の男で、軒先の品物を並べ直していた。


「店主」


公爵が立ち止まり、顔も上げずに言葉を放つ。


「ここに──アイスブルーの髪をした少年と、光に透ける灰金色の髪、宝石のように澄んだ青い瞳を持つ美しい少女が来なかったか?」


それはもはや、詩のような娘の形容だった。

けれど公爵は一切ふざけた様子はなく、真剣そのものだ。


「ああ、アイスブルーの兄ちゃんなら五日前の夕方頃に来たなぁ。たしか、少し離れたところに、綺麗な姉ちゃんもいた気がするよ」

「どこに行くとか、何か言っていなかったか?」

「そうだな……たしか“リンジー皇国に行ってみたい”とかで、どのくらいかかるかって聞かれたな。『王国民は入れない』って言ったら、国旗の刺繍が入ったハンカチをぼーっと見つめてな。金がないからまた来るって言ってたけど、結局来なかったよ」

「……助かった」


公爵はそれだけ告げると、懐から金貨を一枚取り出し、無言で店主に差し出した。


「えっ、金貨!? ちょ、ちょっと、あんたっ──!」


男が慌てて声を上げたときには、公爵はもう背を向けて歩き出していた。


「アレスはあの店で、ここが王国だと知ったわけか……。レッド、次はどこだ?」

「はい。魔力の痕跡は、さらにこちらへと続いております」


町と呼ぶにはあまりにも素朴すぎるその集落には、ぽつぽつと古びた店が並んでいるだけだった。

俺は無言で公爵の後ろをついていく。


揺れる背中を見ながら、少しだけ胸が締めつけられるような思いがした。


公爵──ディル・アルジェランは、重たいほどにレティシアを愛している。

娘への執着に近いその愛情は、きっと普通ではない。


でも、俺は──そんなふうに“誰かのすべて”として愛されたことがない。


あの家に生まれたことを、呪うように思っていた。

愛されないことが当たり前で、心のどこかではずっとそれを諦めていた。


だからこそ。

誰かのために命を懸けて動ける、この人の重さが──羨ましかった。


──俺が願ったのは、ただひとつ。あの忌まわしい“家”を、自分の手で終わらせることだけだった。


その思いを胸に、少しだけ過去を思い返しながら、俺は無言のまま公爵の背に続いた。


やがて俺たちは、街のはずれにぽつんと佇む古びた宿屋へとたどり着いた。


「ああ、あの子たちなら一晩泊まってたよ」


出迎えたのは、腰の曲がった老婆の店主だった。気だるげに腰を上げ、にやりと口元を緩める。


「男の子の方がねぇ、女物の下着をじっと見つめて顔真っ赤にしてたのさ。あれは面白かったよ、ほんとに」


ケラケラと笑うその声音に、公爵の眉がピクリと跳ね上がったのが横目に見えた。


(……アレスくん、ステラちゃんの下着を買いに来たってことか……)


どうやら、間違いなく買っていたらしい。

情報とはいえ、微妙に聞きたくなかった。


「それにしても、あんな小さなベッドで、どうやって二人で寝たんだかねぇ……ふふっ」


老婆の何気ない一言で、公爵の殺気が目に見えるほど濃くなったのを感じた。空気が一瞬で張りつめ、ぞわりと背筋に悪寒が走る。


「あっ、あのっ! 二人が、どこに向かったかってご存じないですか?」


慌てて俺が話題を逸らすように尋ねると、老婆は面倒くさそうに目を細めた。


「うーん、朝早くにね、地図はないかって聞かれたけど……うちみたいな宿屋に紙なんて贅沢品、置いてあるわけないじゃろ。それで、諦めてすぐに出ていったわ」

「そ、そうですか! ご親切に、ありがとうございます! ──公爵、行きましょう!」


笑顔で老婆に頭を下げつつ、すぐに公爵の肩を押して外へ出る。なんとかその場は離れたが、公爵の纏う空気は鋭いままで、怒りの行き場を見失っていた。


「……地図を探して、この国を出ようとしてたんでしょうか……」


何気なく呟いた俺に、公爵は低く返した。


「いや。転移魔法を使おうとしていたのだろう」


「転移魔法……ですか?」


「転移には座標が必要だ。今いる場所と、行きたい場所──双方の位置を正確に把握していなければ、術は暴走し、また“事故”が起きる」


その重々しい声音に、俺は無言でうなずくしかなかった。自分には縁遠い、高位の魔法。いくら死に物狂いでレベルを上げても、たかが45程度の俺に習得できるものではない。


(ステラちゃんでさえ、まだ転移魔法は扱えないっていうのに……)


不安が胸をよぎる。


「旦那様、次は──あちらの方角に」


魔族の女が再び静かに指を差す。俺たちはまた歩き出す。


今は、魔族について行き、公爵の能力の高さを頼りにするしかない。


俺は公爵の背について行く。


なにもできなくても、心配せずにはいられなかった。

人間らしい心がまだ壊れていないと、そう信じたかった。


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