第五十七話 マーリン公爵家
国王の間を辞した俺たちは、再び無言のまま馬車へと乗り込んだ。
「レッド、ステラの気配はどちらだ?」
公爵が短く問いかけると、魔族の女はすぐに瞳を紅く染め、静かに目を閉じた。
その瞳から放たれる赤い光は、まるで血のように艶やかで――けれどどこか痛々しい。
「……東側から。微かではありますが、お嬢様の魔力の気配がいたします」
「わかった。東へ向かってくれ」
御者へ命じると、馬車は静かに動き出す。
だが、魔族の女――レッドはそのまま目元を強く押さえ、苦痛を堪えるように眉をひそめた。
(……瞳、滲んでるじゃん。血、出てるし)
うっすらと瞼の縁から滲む紅――それが血であると気付いた瞬間、思わず背筋に冷たいものが走る。
「……大丈夫? 瞳、なんかすごいことになってるけど……」
普段なら、魔族に気安く声をかけることなんて躊躇う。けど、この空気の重たさに耐えかねて、思わず言葉が漏れた。
「お気遣いなく」
その返答は、乾いた風のように素っ気ない。
それきり会話は途切れ、俺は気まずさを抱えたまま、窓の外に視線を投げた。
(うーわ、なんだこの空気。窒息しそう……)
横に座る公爵――ステラの父親は、まるでこの世に他人が存在していないかのように、視線をただ前へ向けている。
さっきから一言も発さず、目すら合わない。感情を感じさせる気配すらない。
(……ステラとは、全然似てねぇな。瞳の色だけ、かろうじて同じだけど……)
美しさの方向性もまるで違う。冷たい彫像のような父親に対し、ステラは陽だまりのように表情豊かで、誰にでも真っ直ぐな目を向ける。
(ってことは、やっぱ……ステラは、母親のセレーナに似てたんだろうな)
窓の外に流れる街並みの中、俺の思考は自然と、会ったこともない“セレーナ”という女性へと向かっていった。
◇◇◇
両親が揃っていたのは、俺が五歳の頃までだった。
父と母は、いつも喧嘩していた。
それでも、母は――父のことが好きだったように思う。
「ゔぅ……なんでっ、なんで私をもっと愛してくれないの……」
泣きながら、背中を向ける父の背中に縋りついていた母の姿を、今でも思い出す。
母は、愛されたかったのだ。
けれど、父はいつだって冷たくて、目も合わせなかった。
俺が生まれたとき、父が最初に母に言った言葉は――
「男でよかった。もう、お前を抱かなくて済むな」
……らしい。
たった五歳の俺には意味が分からなかった。
でも母は、泣きながら、その言葉を何度も俺に繰り返して聞かせた。
「あなたが女だったら……私は、まだあの人に抱いてもらえたのに」
そんなふうに言われ続けていたから、きっと俺は……知らぬうちに、洗脳されていたのだろう。
男である自分を、どこかで嫌悪していた。
そして、ある日――
母は、自分の首を切り裂いて死んだ。
その遺体を最初に見つけたのが、俺だった。
あの時の記憶は、今でも夢に出る。
……それからの俺は、いつも女の子の格好をしていた。
華やかなドレスを着て、女性らしい所作を身につけて。
ただ、ひたすらに“母が求めた存在”になろうとしていた。
父は、そんな俺を見て――露骨に嫌悪の目を向けた。
いつも、異物を見るような目だった。
まるで、俺の存在そのものが不愉快だと言わんばかりに。
本当に女になりたかったわけじゃない。
将来を想像するなら、結婚相手は女だったし、男として生きたかったとも思っていた。
でも、そう生きられなかったのは――俺の弱さだった。
母の言葉を忘れられず、死んだ後も女装を続けた自分の……弱さ。
魔法学校に入って、ようやく家から離れる理由ができたとき。
初めて女を抱いた。
感想は――“こんなもんか”だった。
こんなことのために、俺が“女であって欲しかった”と願われたのか?
これで、愛してもらえるとでも思ったのか?
……女なんて、感情がなくても抱けるじゃないか。
そう思ったとき、母への失望と同時に――父への憎しみも湧いた。
なぜ、お前はそれすらしなかった? と。
◇◇◇
父には、母と結婚する前に、別の婚約者候補がいたという。
それが――七歳年下の、ガルシア侯爵家の娘・セレーナだった。
慈悲深く、誰もが振り返るほど美しい娘。
その娘に、父は夢中だったらしい。
縁談も多くあったが、地位ある公爵として、父は自信を持っていた。
だが――
お爺様が、国王に勧められた縁談を飲んでしまった。
それが、母だった。
父は激しく反対したらしいが、国王に「結婚する」と宣言した手前、もう後戻りできなかった。
そしてコリーヴ王国から母を娶った。
「子ができるまでの辛抱だ。男児が生まれれば、ガルシア侯爵家にどんな好条件を出してでも、娘を側室に迎えればいい」
そうお爺様は言っていたという。
だが――俺が生まれた頃、ガルシア侯爵家の娘に“醜聞”が流れた。
義弟を半殺しにした、暴力的で野蛮な娘――そんな噂だった。
「話が違う!!!」
「仕方あるまい。そんな女を、公爵家に迎えるわけにはいかん」
「……じゃあ、俺はなんのために……!」
「醜聞が落ち着くまで、待て」
そうして一年が過ぎた頃、セレーナという娘は、突如として姿を消した。
誰もが「家出した」「修道院に送られた」と噂したが――
父は、諦めなかった。
修道院を一つずつ回り、皇都から地方まで探し続けた。
だが、娘はどこにもいなかった。
ガルシア侯爵家も口を割らなかった。
父親は、なにかを知っているようだったが、どれだけ詰め寄られても、頑として黙り続けたという。
「……セレーナ……俺の、愛しいセレーナ……」
夜な夜な、父の執着とも呼べる呻きを、母は隣で聞いていた。
その“名前”を聞くたびに、母の心は壊れていった。
そして――俺の家族は、完全に崩壊した。




