第五十六話 コリーヴ王国
朝日がカーテン越しに差し込み、やわらかな光が頬をなでた。
私は大きく背伸びをして、布団の中でごろりと寝返りを打つ。
「ふぁ……よく寝たわ!!」
久しぶりの、ちゃんとしたベッド。それに、隣にあったぬくもりのせいか、想像以上に体が軽い。
これまでの旅の疲れが、一晩でごっそり抜けたような感覚だった。
一方でアレスはというと、ベッドの端で胡坐をかいたまま、少し疲れた顔で考え込んだ様子だった。
「おはよう。寝起きで悪いけど、今日の予定……というか目標は決まった」
「ん……何か見つけたの?」
「この国、コリーヴ王国の地図を手に入れる。それが最優先だ。範囲は限られてても、場所さえ分かれば、転移魔法である程度は移動できる」
「……でも、地図があっても、コリーヴ王国から直接リンジーに帰るのって難しいんじゃない? 間にサダーシャ帝国があるわ。終戦直後よ、アレス」
私は立ち上がりながらそう言った。寝癖を直す間も惜しんで、アレスは考え込んでいる。
「……全魔力を使えば、サダーシャを飛び越えて直接リンジー皇国まで行けるかもしれない。でも、それは――」
「博打、ね」
彼の言いたいことを先に言った。アレスはうなずく。
「転移の座標にズレがあれば、魔力切れで空中分解する。最悪、次元の狭間に弾かれて終わりだ」
さすがに、それは避けたい。私たちは今、“帰る”ために動いてる。失敗して死んでしまったら、何の意味もない。
「だったら……この国に、王宮に頼むしかないわね。外交ルートを通じて、皇国に手紙を出してもらう。私たちがここにいるって、お父様に伝えたい」
「それも、リスクがないわけじゃない」
アレスも立ち上がり、目線をこちらに向ける。
「前に、コリーヴ王国の第四王女が、皇国に嫁いでる。……けど、あっちで自殺したんだ。国王はその件があって、今でも皇国に対して個人的にはいい感情を持ってない」
「そんなことが……」
「ただ、国交自体は維持されてる。両国の王は基本的に平和主義者だったから、戦にはならなかった。だから、外交書簡なら届くとは思う」
「問題は――私たちが“リンジー皇国の人間”だってこと?」
アレスは苦笑する。
「そういうこと。娘を死に導いた国人間を、王国が素直に助けてくれるか。書簡を出すだけの価値があると判断してくれるか。……それは賭けだな」
「それでも、お願いしてみるしかないわ」
転移で無理に帰るより、ずっと現実的だ。
「もし断られたら、また次の手を考えればいい。少なくとも今は……希望がある」
私は息を吸い込み、笑った。前を向くしかない。
「じゃあ、手紙を書こう。丁寧に、失礼のないように。私が書くわ」
アレスは静かにうなずいた。
「……わかった。ここからが正念場だな」
信じるしかない。
この国の理性を。
この国の誠実さを。
それ以外の道は、あまりにも――現実味がなさすぎた。
◇◇◇
「はじめまして、アルジェラン公爵」
「……ああ。今回の件、感謝する。君は、マーリン公爵のご子孫だな」
「やめてくださいよ。フレッドでいいですから」
コリーヴ王国の国境を越えてすぐ、俺はディル・アルジェラン公爵、つまりステラちゃんの父と、その隣にいる謎の魔族の女と一緒に、馬車に揺られていた。
転移魔法でここまで一気に飛んできたのだが、公爵とはようやくこれが最初の会話だった。
第一印象は、“静かでよく通る低音”。けれど、内に隠されたものは尋常じゃないと、すぐにわかる。
俺が八歳のとき、母……コリーヴ王国の王女だった人が死んだ。
病に倒れたとか、事故だったとか、いろいろ言われてたけど、真相は自殺。
そのせいで、王は激しく塞ぎ込み、リンジー皇国の入国を禁止した。
今回の捜索に同行している魔族の女――名前は知らないが、どうやら“ステラちゃんの魔力の残滓”とやらが視えるらしい。
サダーシャ帝国にはその痕跡がなかったことから、彼女は“転移事故で飛んだ先がコリーヴ王国だ”と断定したらしい。
……ずいぶん強引な理屈だと思ったが、ステラちゃんの気配を追って王国の手前まで来ていたらしいから、ただの勘じゃない。
幸い、俺たちが不法入国してしまったサダーシャ帝国では、偶然にも魔物の巣窟を爆破したことで“迷惑どころか貢献した”と見なされ、特例で許されることになった。
あの国、魔法も魔道具もほとんど使えないから、魔物の対処には苦労していたらしい。
コリーヴ王国も似たようなものだが、こちらは一応、古い魔道具の技術だけは残っている。
今回の入国も、本来なら拒否されて当然だったが――
俺が“かつての王女の忘れ形見”であること、そして魔法は使わないと誓ったことで、ようやく許可が下りた。
「……見えましたね。王宮です」
久しぶりに見る、白亜の屋根と大理石の塔。
十二年ぶりだった。
正直、俺は家族とか血筋とか、そういうものに対して特別な感情を抱けない。
だから、この城を目にしても、特に何も思わなかった。
ただ――
“家族が大好きな、ただの老いぼれ爺さん”がそこにいるだけだった。
◇◇◇
王宮に着くと、俺たちはすぐに謁見の間へと通された。
そして、その奥で待っていたのは――
「お爺様。お久しぶりでございます」
「よく来たな、フレデリック。顔をよく見せなさい」
白髪に、深い皺。かつて“威厳”と呼ばれたものは、今はただのやわらかさに変わっていた。
俺が近づくと、祖父は子どもにするみたいに俺の頭を撫でた。
――正直、それがすごく、居心地が悪い。
親からも、リンジー皇国の祖父からも、こんなふうに頭を撫でられたことなんて、一度もなかったから。
「大きくなったな。元気そうで何よりだ」
「お爺様も、お元気そうで何よりです。それで、再会を喜びたいところなんですが……」
「うむ、話は聞いておる。転移事故で消えた娘を探しに来たのじゃな」
「はい。ご挨拶が遅れ、失礼いたしました。リンジー皇国のディル・アルジェランと申します。此度の入国の許可、感謝申し上げます」
公爵が膝をついて頭を下げる。
その姿に、祖父はゆっくりとうなずいた。
「ああ、構わぬ。娘が可愛いのは、どこの世界の父親も同じじゃ。ただし……魔法は国民が混乱してしまう。控えるようにな」
「……もちろんでございます」
「お爺様。俺も一緒に探しに行きたいんです。ですから……見つけて戻ってきたとき、一緒に食事でもしましょう」
静寂が一瞬、部屋を満たす。
祖父はふうと笑みをこぼし、細めた目で俺の顔を覗き込んだ。
「ふむ……その娘が、好きなのか?」
一拍、鼓動が跳ねる。
その声に咎める色はない。ただ、孫の成長を見守る祖父の、穏やかな眼差しだけがそこにあった。
俺は少しだけ視線を落とし、胸の内を探るように呼吸を整えた。
嘘をつこうかと思った。けれど、それは――もう、できなかった。
「……はい」
喉がつまるような返事だった。
けれど、言葉を絞り出した瞬間、どこかで張り詰めていたものが緩んだ気がした。
祖父は嬉しそうに目を細め、まるで子供を見るように頷いた。
「そうか。お前はきっと、女性を幸せにできる。……頑張るんじゃぞ」
その言葉は、真っ直ぐだった。
だからこそ――
少しだけ、胸が痛んだ。
俺が普段どれだけ女で遊んでいるか、どんな格好で学校に通っているかなんて、爺さんはきっと知らない。
「……はい」
小さく、でも確かに微笑んで、俺は頷いた。
……そのすぐ後だった。
後ろにいたアルジェラン公爵の気配が、微かに――けれど確実に、殺気を孕んだものへと変わったのに気づいたのは。




