表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/113

第五十五話 偽りの身分


「ねぇ〜、もしかしてフレディって、お金持ちの坊ちゃんだったりするぅ?」


まるで絹のように柔らかな女の肌が、俺の首筋に絡みつく。

甘ったるく媚びたその声は、吐き気を催すほどに不快でありながら、妙に耳に心地よかった。


安酒と香水と色香が混ざり合ったような、下世話な空気。

そんな平民の宿屋に身を隠し、身分を偽って女を漁る――それが、今の俺の日常だった。


俺には、名前がいくつもある。

フレデリック・マーリン。これが本名だ。

フレッドは愛称。女装のときはフリエッダ。そして今、こうして平民のフリをして女を抱くときは、“フレディ”を名乗る。


名を偽り、顔を偽り、素性を偽る。

けれど、それでも構わなかった。

本当の自分でいることが、あまりにも、息苦しかったからだ。


「んー?なんで?」

「だって、すごくいい匂いがするんだもの。平民が買える香じゃ、こんな上等な香りしないわ」


「ざーんねん、これ自作。爺さんの家、花屋でさ。廃棄のジャスミン貰って抽出してんの。今度作ってきてあげよっか?」


(……まあ、全部嘘だけど。もう会わないしな)


「ええっ、本当に!? 嬉しい!」


(馬鹿な女だ)


この数年、俺は魔法学校に通いながら、夜はこうして“平民街”と呼ばれる裏通りで、適当な女とみだらな時間を過ごしていた。

始まりは――まだ魔法学校に入ったばかりの頃、年上の女に狩られたことだった。

だが、女を抱くたびに、胸の奥にこびりついた記憶やトラウマが、ほんの少しだけ薄らいでいく気がしていた。


ステラに惹かれはじめてからは、こうした生活を断ち切っていた。

けれど、彼女の“母”の名前を耳にしてからというもの――また俺は、女装をして学校に通い、夜はこの街に出るようになった。

そして今日もまた、好みでもない女と、冷たい逢瀬を重ねていた。


宿屋を出て、女と別れる。


この夜のためだけに死に物狂いで習得した“変化魔法”を解き、焦げ茶の地味な髪と瞳を金色に戻していく。

家へ戻ると、使用人から客人の名を告げられた。


「マティアス殿下がお越しです」


軽く眉を上げながらも、手早く町人仕様の服から普段の貴族に相応しい格好に着替えると、彼の待つ応接間へ向かった。


「よぉ。どうした、こんな時間に」

「ようやく来たか。……フレッド、緊急事態だ」


マティアスは、いつもの軽薄な微笑みを浮かべていなかった。

その目には、明らかに焦燥の色が滲んでいた。


「何? 爺さんか父さんがついにやらかした? 家、没落ー? 俺、解放ー?」


冗談交じりに言い放つ。

それは半ば本音だった。

あの二人の不正など、とうに察している。

いっそ没落でもしてくれれば、俺は名家の名に縛られず、好きに生きられるのに。


だが、マティアスの口から返ってきたのは、まったく別の名だった。


「ステラとアレスが、行方不明になった」


「は……? なんで? 駆け落ち?」


「いいや。アルジェラン公爵によれば、転移魔法の跳ね返りで飛ばされたらしい」


「……あいつら、魔力量バケモンだから、どうせそのうち戻ってくるだろ」


「それが――」


マティアスは一瞬、言葉に詰まった。そして、静かに、しかし重々しく言い放った。


「国外に飛ばされた可能性が高い……」


「……は?」


「公爵が、ステラの部屋に“アレスの侵入を弾く”強力な結界を張っていた。

転移魔法を発動した際、それが跳ね返って、方向が狂ったらしい。結界は強力だったらしく、少なくとも、今この国の中にはいないと」


お互いの部屋に入室しない。それは、年頃の義姉弟を密室にしないための、当然の配慮だった。

結界は……やりすぎではあるが、話に聞くあの過保護な父親らしいと言えば、そうかもしれない。


けれど、俺はその話を聞いて、すぐに察してしまった。


(……ああ。ステラちゃん、もうアレスくんに心を許し始めてるんだ)


父も、息子も。

この国の“本物の愛”は、ことごとく、他人のもとに落ちていくのか――

そんな皮肉な思いが胸を掠めた。


「……それで、俺に何の用だよ」


「コリーヴ王国に捜索を願い出している。だが、入国許可が下りない。……お前の力を、貸してほしい」


あの国に関して、俺の過去を知っているマティアスが、頭を下げて頼んできた――それが何より、事態の深刻さを物語っていた。


「皇族の仕事だろ。それ。俺はただの“公爵家の孫”だぜ?」


「お前の“母”の一件で、王国との外交は冷え切った。戦争こそ起きていないが、皇族とて、勝手な動きは取れない。

……今、動けるのはお前しかいないんだ」


マティアスの言葉には、切迫が滲んでいた。

二人が行方不明になったのは事実。だが、魔法の才に恵まれた二人ならば、数日で戻ってくる可能性もある。

それなのに――なぜ、ここまで急ぐ?


「……公爵を、もう止めておけないんだ」


「は?」


「アルジェラン公爵は、最高位の魔獣と、魔族を連れて転移している。二人を探し出すために……国外にも入っていく勢いだ。

今はまだ、コリーヴ王国との関係もギリギリ保たれているが、あの人が勝手に入国でもしたら、どうなるか分からない」


それは、貴族としての行動ではない。

だが、アルジェラン公爵は――もはや“ただの貴族”ではなかった。


国を覆う結界。

他国が恐れる魔力。

皇族ですら、頭の上がらない“最強の存在”。


そんな男が、たった一人の娘のために本気を出した。

それだけで、この国は、いや大陸全体が揺らぐ。


だからこそ、国は今、あの男のために“全力で捜索に協力する”という道を選んだのだ。


「……わかったよ。やるよ」


俺は、短くそう答えた。

誰のためでもない。

ただ――ステラの名を聞いて、胸に灯った痛みが消えなかった。


この胸の奥にある、ひび割れた何かを。

もう一度、自分の手で埋めるために――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ