第五十五話 偽りの身分
「ねぇ〜、もしかしてフレディって、お金持ちの坊ちゃんだったりするぅ?」
まるで絹のように柔らかな女の肌が、俺の首筋に絡みつく。
甘ったるく媚びたその声は、吐き気を催すほどに不快でありながら、妙に耳に心地よかった。
安酒と香水と色香が混ざり合ったような、下世話な空気。
そんな平民の宿屋に身を隠し、身分を偽って女を漁る――それが、今の俺の日常だった。
俺には、名前がいくつもある。
フレデリック・マーリン。これが本名だ。
フレッドは愛称。女装のときはフリエッダ。そして今、こうして平民のフリをして女を抱くときは、“フレディ”を名乗る。
名を偽り、顔を偽り、素性を偽る。
けれど、それでも構わなかった。
本当の自分でいることが、あまりにも、息苦しかったからだ。
「んー?なんで?」
「だって、すごくいい匂いがするんだもの。平民が買える香じゃ、こんな上等な香りしないわ」
「ざーんねん、これ自作。爺さんの家、花屋でさ。廃棄のジャスミン貰って抽出してんの。今度作ってきてあげよっか?」
(……まあ、全部嘘だけど。もう会わないしな)
「ええっ、本当に!? 嬉しい!」
(馬鹿な女だ)
この数年、俺は魔法学校に通いながら、夜はこうして“平民街”と呼ばれる裏通りで、適当な女とみだらな時間を過ごしていた。
始まりは――まだ魔法学校に入ったばかりの頃、年上の女に狩られたことだった。
だが、女を抱くたびに、胸の奥にこびりついた記憶やトラウマが、ほんの少しだけ薄らいでいく気がしていた。
ステラに惹かれはじめてからは、こうした生活を断ち切っていた。
けれど、彼女の“母”の名前を耳にしてからというもの――また俺は、女装をして学校に通い、夜はこの街に出るようになった。
そして今日もまた、好みでもない女と、冷たい逢瀬を重ねていた。
宿屋を出て、女と別れる。
この夜のためだけに死に物狂いで習得した“変化魔法”を解き、焦げ茶の地味な髪と瞳を金色に戻していく。
家へ戻ると、使用人から客人の名を告げられた。
「マティアス殿下がお越しです」
軽く眉を上げながらも、手早く町人仕様の服から普段の貴族に相応しい格好に着替えると、彼の待つ応接間へ向かった。
「よぉ。どうした、こんな時間に」
「ようやく来たか。……フレッド、緊急事態だ」
マティアスは、いつもの軽薄な微笑みを浮かべていなかった。
その目には、明らかに焦燥の色が滲んでいた。
「何? 爺さんか父さんがついにやらかした? 家、没落ー? 俺、解放ー?」
冗談交じりに言い放つ。
それは半ば本音だった。
あの二人の不正など、とうに察している。
いっそ没落でもしてくれれば、俺は名家の名に縛られず、好きに生きられるのに。
だが、マティアスの口から返ってきたのは、まったく別の名だった。
「ステラとアレスが、行方不明になった」
「は……? なんで? 駆け落ち?」
「いいや。アルジェラン公爵によれば、転移魔法の跳ね返りで飛ばされたらしい」
「……あいつら、魔力量バケモンだから、どうせそのうち戻ってくるだろ」
「それが――」
マティアスは一瞬、言葉に詰まった。そして、静かに、しかし重々しく言い放った。
「国外に飛ばされた可能性が高い……」
「……は?」
「公爵が、ステラの部屋に“アレスの侵入を弾く”強力な結界を張っていた。
転移魔法を発動した際、それが跳ね返って、方向が狂ったらしい。結界は強力だったらしく、少なくとも、今この国の中にはいないと」
お互いの部屋に入室しない。それは、年頃の義姉弟を密室にしないための、当然の配慮だった。
結界は……やりすぎではあるが、話に聞くあの過保護な父親らしいと言えば、そうかもしれない。
けれど、俺はその話を聞いて、すぐに察してしまった。
(……ああ。ステラちゃん、もうアレスくんに心を許し始めてるんだ)
父も、息子も。
この国の“本物の愛”は、ことごとく、他人のもとに落ちていくのか――
そんな皮肉な思いが胸を掠めた。
「……それで、俺に何の用だよ」
「コリーヴ王国に捜索を願い出している。だが、入国許可が下りない。……お前の力を、貸してほしい」
あの国に関して、俺の過去を知っているマティアスが、頭を下げて頼んできた――それが何より、事態の深刻さを物語っていた。
「皇族の仕事だろ。それ。俺はただの“公爵家の孫”だぜ?」
「お前の“母”の一件で、王国との外交は冷え切った。戦争こそ起きていないが、皇族とて、勝手な動きは取れない。
……今、動けるのはお前しかいないんだ」
マティアスの言葉には、切迫が滲んでいた。
二人が行方不明になったのは事実。だが、魔法の才に恵まれた二人ならば、数日で戻ってくる可能性もある。
それなのに――なぜ、ここまで急ぐ?
「……公爵を、もう止めておけないんだ」
「は?」
「アルジェラン公爵は、最高位の魔獣と、魔族を連れて転移している。二人を探し出すために……国外にも入っていく勢いだ。
今はまだ、コリーヴ王国との関係もギリギリ保たれているが、あの人が勝手に入国でもしたら、どうなるか分からない」
それは、貴族としての行動ではない。
だが、アルジェラン公爵は――もはや“ただの貴族”ではなかった。
国を覆う結界。
他国が恐れる魔力。
皇族ですら、頭の上がらない“最強の存在”。
そんな男が、たった一人の娘のために本気を出した。
それだけで、この国は、いや大陸全体が揺らぐ。
だからこそ、国は今、あの男のために“全力で捜索に協力する”という道を選んだのだ。
「……わかったよ。やるよ」
俺は、短くそう答えた。
誰のためでもない。
ただ――ステラの名を聞いて、胸に灯った痛みが消えなかった。
この胸の奥にある、ひび割れた何かを。
もう一度、自分の手で埋めるために――。




